(正宗寺)
正宗寺
村岡宗四郎墓
貞靖孺人墓(村岡箏子の墓)
村岡箏子(ことこ)は、高松藩の勤王家小橋家に生まれ、十七歳で醤油醸造を営む丸亀の越後屋(村岡家)に嫁いだ。三十八歳で夫を亡くし、以後女手一つで子供を育てながら、越後屋の主人として家業を支えた。その一方、自宅の土蔵を勤王倒幕の密談所や宿泊所、武器弾薬の保管場所に提供するなど、明治の初めまで約十五年にわたり、勤王の志士を支援した。
村岡宗四郎(そうしろう)は、箏子の末子として生まれ、母や周囲の影響を受けて、勤王の志をもって成長した。文久元年(1861)、叔父の小橋安蔵らの依頼により、自宅地下の石室で火薬、弾丸、臼砲などを密かに製造し、保管していた。文久三年(1863)、これらの兵器を持って上京し、倒幕計画に参画しようとしたが、直前になって中止となった。慶應二年(1866)、勤王家土肥大作に続き、宗四郎も自宅に監禁され、翌年一月に二十二歳の若さで亡くなった。
箏子はその三年後の明治三年(1870)、五十六歳で生涯を終えた。箏子の墓に刻まれている貞靖は号、孺人は妻という意味である。
(玄要寺)
玄要寺本堂の写真を撮ろうと思ったが、その前に墓地に行き着いてしまったため、本堂を見ないままになってしまった。
京極高朗墓所
播州龍野城主京極高和が丸亀城主になって以来、明治二年(1869)の版籍奉還まで七代二百十年余にわたり、西讃岐は京極家によって統治された。七人の藩主のうち五人までは滋賀県坂田郡清滝の徳源院に墓があるが、六代藩主京極高朗(たかあきら)の墓所だけが丸亀南条町の玄要寺にある。高朗の墓所は、南北約九メートル、東西約二十メートルの土塀に囲まれ、「従五位京極高朗之墓」と刻まれた墓石がある。門や扉には京極家の四ツ目の家紋が刻まれている。
高朗は、二代藩主高豊と並ぶ名君とされ、文化八年(1811)、十四歳で丸亀藩主となり、嘉永三年(1850)まで四十年にわたり、丸亀発展の基礎を築いた。詩文に通じ、琴峰、陶水と号して、約一万首の漢詩を創り、「琴峰詩集」を残した。藩主としても、新堀湛甫の築造、団扇作りの奨励をはじめ、海運、産業、文化に功績を残した。明治七年(1874)、七十七歳で没した。
雲関院殿前壱州刺史透翁道信大居士
(京極高琢の墓)
京極高琢(たかてる)は、多度津藩五代藩主。藩政では防波堤の建造、港の築造などに功があった。慶應三年(1867)、五十七歳で没。
中邨三蕉壽蔵
中村三焦は、文化十四年(1817)生まれ。亀井昭陽、帆足万里に学び、江戸に出て安積艮斎に師事した。藩主の侍講や藩校正明館教授を務め、維新後は小中学校の教師となった。明治二十七年(1894)死去。七十八歳。
菅原薫子之墓(若江薫子の墓)
若江薫子(におこ)は、天保六年(1835)の生まれ。父は伏見宮殿上人若江修理大夫量長。若年より学を志し、岩垣月洲の門に入り、その学才は早くより聞こえ、また和歌にも達していたといわれる。一条忠香女寿栄君(のちの昭憲皇太后)の入内が内定すると、慶応三年(1867)九月よりその読書の稽古に参仕。孝経などを講じた。入内後も宮中に祗候していたが、平生より攘夷論を主張し、西洋化してゆく時勢に対する慷慨の念よりしばしば建白書を提出し、政府当局より不穏当と認められる言動もあったため、明治二年(1869)頃、宮中出入りを停止された。一説に幽閉されたとも伝えられる。明治九年(1876)頃、備前から讃岐の辺りを遍歴し、のち丸亀の岡田東洲の塾に落ち着いたが、明治十四年(1881)、不遇のうちに同地に没した。年四十七。その死に当たり皇后より金百円が下賜された。
若江氏は菅原氏の出とされ、墓石には菅原薫子と刻まれている。
(丸亀護国神社)
丸亀護国神社
明治天皇行在所址碑
明治天皇丸亀行在所趾
丸亀税務署と護国神社の間に明治天皇丸亀行在所址碑が建っている。一基は頂上に銅製の鳳凰像を頂く堂々たる石碑で、題字は東伏見宮依仁親王による。
(三船病院)
三船会館
柞原(くばら)町の三船病院の一画にある三船会館は、丸亀県の庁舎として新築された丸亀行在所の建物の部材を活用して聖蹟記念館として再建したもの。屋根の形などに行在所の面影が偲ばれる。建物の前に「明治天皇丸亀行在所建物」碑が建てられている。
明治天皇丸亀行在所建物
(太助灯籠)
金毘羅講燈籠
明治天皇丸亀御上陸並御乗艦地
丸亀港奥の岸壁上に「明治天皇丸亀御上陸並御乗艦地」と記された石碑が建てられている。明治五年(1872)七月四日、明治天皇が上陸したことを記念したものである。近くには天保年間に設置された金毘羅講燈籠(太助灯篭)が建っている。
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