史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

鶴岡 Ⅰ

2012年09月16日 | 山形県
(鶴岡公園)


鶴岡公園

 鶴が岡城跡は、現在鶴岡公園として整備されている。城郭は本丸の周囲に二の丸、三の丸を配した輪郭式平城で、天守閣はないものの、本丸の周りは約五百メートルという壮大な城郭であった。明治八年(1875)に取り壊され、現在は堀が残されている以外、ほとんど遺構らしきものを見ることはできない。
 鶴ヶ城に酒井氏が入城したのは、元和八年(1622)のことで、以後幕末に至るまで酒井氏が居城とした。


大寶館

 大寶館は、大正四年(1915)に大正天皇の即位を記念して創建されたもので、当初は物産展示場、図書館として使われた。建物は、オランダバロック風の窓とルネッサンス風のドームを乗せた擬洋風建築である。現在は鶴岡の郷土人物展示施設となっている。鶴岡という土地が、多様多彩な人材を輩出したことが見てとれる。


明治天皇御駐輦之地碑


鶴岡護国神社

 鶴岡護国神社は、明治二十八年(1895)、旧藩主酒井忠篤の発意によって創建されたもので、戊辰・西南戦争から大東亜戦争に至るまでの国難に殉じた四千九百三十柱の英霊を祀る。


鶴岡市立 藤沢周平記念館

 藤沢周平記念館は、平成二十二年(2010)に開館したもので、藤沢作品の原点とも言える鶴岡・庄内の風景や、藤沢周平の軌跡などを紹介している。鶴岡市内を散策していると、至るところに藤沢周平の作品所縁の地に案内板が建てられており(鶴岡市観光案内所作成のパンフレットによれば、市内二十五カ所に設置)、鶴岡市民の藤沢周平に対する思い入れの深さと誇りを感じる。

(致道博物館)


致道博物館 旧鶴岡警察署庁舎

 鶴が岡城の三の丸にあたる場所に致道博物館が建設されている。古い建物や鶴岡の歴史を知る資料や工芸品などが収蔵、展示されている。
 最初に出迎えてくれるのは、旧鶴岡警察署庁舎である。明治十七年(1884)に建設されたもので、初代県令三島通庸が明治新政府の権威を表すために建築したと言われる。内部は事務所として利用されており、拝観はできない。


御院殿

 御院殿は、文久三年(1863)、十一代酒井忠発(ただあき)のときに藩主の隠居所として造られたもので、江戸屋敷から移築されたと言われる。奥に続く長い廊下には、庄内竿や旧藩主が釣り上げた魚拓などが展示されている。庄内藩では、心身の鍛練と武道の一助として 磯釣りを奨励していた。城下から庄内浜までは、長い道のりを歩いていくため、そこを長い釣り竿を持って往復することは足腰の鍛錬に役立った。藩士が自分のために納得がいくまで手間と暇をかけて作った竿の中から名品といえる庄内竿が生まれたという。この展示だけを見ていると、旧藩主というのは釣三昧の結構なご身分だったように思われる。


關睢堂(せきしょどう)
副島種臣書

 明治二十四年(1891)、副島種臣が鶴岡を訪ねた折、御院殿の一室で『詩経』第一章「関々たる睢鳩(しょきゅう)、河の洲に在り」を講義した。以来、この部屋は關睢堂と称されている。


旧西田川郡役所


戊辰戦争と庄内

 旧西田川郡役所は、明治十四年(1881)、時の県令三島通庸の命によって建てられた擬洋風建築である。明治天皇の東北巡幸の際には行在所になった由緒あるものである。
 内部は、鶴岡の歴史を展示しており、「戊辰戦争と庄内」や鹿児島との関係資料など見どころが多い。

 致道博物館のショップにて、「庄内人名辞典」(財団法人致道博物館内庄内人名辞典刊行会発行)を購入した。三千五百円であった。庄内藩に関わる人物がほぼ全時代にわたって網羅されており、なかなか使い勝手が良い。よい買い物をしたと満足している。

(藩校致道館跡)


聖廟舊趾碑(藩校致道館跡)

 庄内藩九代藩主酒井忠徳(ただあり)は、施政の根本は教育に在るとして、文化二年(1805)、藩校致道館を建設した。文化十三年(1816)、十代藩主酒井忠器(ただかた)のとき、政教一致の主旨で曲輪内(現在、致道館のある馬場町)に移転した。

(庄内藩校致道館)


庄内藩校致道館

 自分が旧藩校の流れを汲む高校を卒業したこともあって、各地の藩校には非常に興味がある。鶴岡には致道館という有名な藩校があったが、現存する建物も多く、ほぼ往時の学舎が再現されており、見逃すわけにはいかないスポットである。


致道館
書は庄内藩医重田道樹(どうじゅ)

 致道館における教育は、荻生徂徠の古文辞学の影響を色濃く受けている。徂徠は、後世の注釈にとらわれず、古い字句や文章を直接読むことで孔子の教えを研究すべしと説いた。庄内藩では水野元朗と疋田進修という二人の学者が徂徠学を習得し、その後も多くの儒者が江戸在職中に徂徠の門下に学んだため、広く藩内に普及した。後に初代祭酒に任じられた白井矢太夫も徂徠学を修めた儒者であったが、庄内藩における寛政の改革に大きな功績を挙げたことから、徂徠学が庄内における藩学として定着することになった。
 致道館は明治六年(1873)に廃校となった。

 幕末の庄内藩は強兵であった。戊辰戦争では、ほとんど無敗を誇った。庄内藩の強兵の秘決は、あるいは藩校における教育も関わっているのかもしれない。

(敬天愛人碑)


敬天愛人碑 南洲書

 市内馬場町に昭和六十三年(1988)に建立された「敬天愛人碑」である。

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