(円林寺つづき)
贈従五位横田昌綱
贈従五位横田折綱之墓
贈従五位横田元綱
円林寺を再訪。寺族の墓地に隣接して横田家の墓がある。
横田昌綱は通称藤太郎。折綱の長男で、元綱の兄である。天保十一年(1840)の生まれ。安政二年(1855)、故郷を出て、伊勢・長崎等西国を回遊して京師に入った。この間、諸国の志士と交遊した。文久元年(1861)、国事に尽くすため父藤四郎折綱が出奔すると、後を追って常・総・武三国を遍歴してようやく父に会うことができた。父は彼を大橋訥庵に託し、文武の修練を積ませた。坂下門外事件に際して、選ばれて死士となることになったが、訥庵の反対にあって中止となった。後、捕吏の探索するところとなり、ついに茂木で捕らわれ、文久二年(1862)、江戸伝馬町の獄で病死した。年二十三。
昌綱、元綱の父藤四郎折綱は、文政四年(1821)の生まれ。横田氏は宇都宮支族を称し、質屋や穀商を家業とし、年寄として名主を勤めたこともある。折綱の代には家産蕩尽したが、国学を学び、時事を憂い、四方の志士と交友があった。坂下門外事件にも関与したが、逃れて常陸小川館に潜匿した。長子昌綱は捕らわれ獄死したが、折綱は三子藤三郎元綱とともに水戸筑波挙兵に加わり、さらに武田耕雲斎と行をともにして越前に向かった。元綱は和田峠合戦で戦死し、折綱は敦賀で斬られた。年四十五。
元綱は通称藤三郎。弘化四年(1847)の生まれ。初め医術を修めたが、父の感化を受けて国事を志すようになった。文久三年(1863)、父に従って水戸に赴き、同藩士と交わり、国事を談じた。元治元年(1864)、水戸天狗党が筑波山で挙兵すると、医術の師、常陸国真壁郡青木村の大和田外記とともにこれに参加した。たまたま父も来り、爾来父子とも筑波勢に従って行動を共にした。武田耕雲斎が越前に向かうと、父子ともこれに随い、元治元年(1864)十一月、松本・高島両藩との和田峠合戦において戦死した。年十八。
(石尊神社)
真岡市大道泉の石尊神社(神社といっても小さな祠があるだけだが)の裏に河野守弘(通称伊右衛門)の墓がある。
石尊神社
河野守弘の墓
越智河野守弘墓
河野守弘は、先祖は四国伊予の名族河野氏の出とされるが、河野氏が越智氏の流れであることから越智姓も称した。墓石に越智河野守弘墓と刻まれている。
彰徳 守弘先生彰徳碑
河野守弘は、寛政五年(1793)の生まれ。江戸浅草田原町の浅草庵(姓は大垣。通称伊勢屋久右衛門。名は市人。質屋)に和歌、国学、漢籍を学び、帰国後も研究に努めた。嘉永元年(1848)に成稿、嘉永三年(1850)に版行された「下野国誌」十二巻は、現在なお学術的価値があるものとされている。これら研究のため、家産を蕩尽し、真岡に流寓した。そして、真岡地方草莽志士の助言者的役割を果たした。文久二年(1862)正月の坂下門外事件に際して、外孫河野顕三を激励して死士としたが、事件関係者として真岡も追われて郷里に帰り、文久三年(1863)、流浪と貧困の不遇のうちに生涯を閉じた。年七十一。
(長沼神社)
幕末、野沢和泉が神職を勤めた長沼八幡神社である。
長沼神社
野沢和泉は、文化八年(1811)、長沼神社の神職家に生まれたが、文政末父の死後、貧窮に悩み、江戸に出奉公した。また易占を業とし宇都宮にも寓居した。真岡の河野守弘、小山春山、横田折綱(藤四郎)ら志士と親交があった。元治元年(1864)五月、水戸筑波勢が栃木大平山にこもると、その檄文に応じ、長沼巽と変名してこれに参加した。その後、各地に転戦したが、同年九月、幕兵に捕らえられ水戸赤沼の獄に投じられ病死した。屍は松原刑場に遺棄された。年五十四。
長沼神社の周辺で野沢和泉の墓を探したが、野沢家の墓所は発見したもののそこに和泉の者らしき墓はなかった。
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