(観音寺)
観音寺観音堂
中舘観音寺は、中国梁の時代(580年頃)に渡来した法輪獨守居士(ほうりんどくしゅこじ)が、この地に到り觀音菩薩像を安置したのが始まりとされている。
大門を過ぎると左手に幼稚園があり、右手はその幼稚園の園庭になっているが、その片隅に石川総管(ふさかね)の墓がある。
石川総管の墓
舊下館藩主石川総管之墓
下館藩石川氏は、初代総茂が享保十七年(1732)、国替えにより伊勢神戸(現・三重県鈴鹿市)から下館に移った。以降、九代にわたって当地を修めた。歴代藩主の墓は、江戸下谷の大久寺にあるが、九代総管のみ中舘の観音寺に葬られた。
石川総管は、天保十二年(1841)の生まれ。嘉永二年(1849)十一月、家系を継承し、雁之間詰を命じられ、安政二年(1854)、従五位下若狭守に叙任された。和漢の学に造詣深く、一方馬術にも秀でた。小藩の出ながら、幕府の要職を歴任した。慶應二年(1866)、講武所奉行となり、同年十月には陸軍奉行並に転じ、翌慶應三年(1867)、若年寄兼陸軍奉行に進んだ。慶應四年(1868)一月、陸軍奉行を免じられ、二月には若年寄も辞した。同年五月、江戸より敗走する彰義隊や大鳥圭介が率いる幕軍と東山道総督府軍との間にあって、徳川譜代の藩主として去就に迷い、水戸薬王院に逃避し、小藩の苦渋を味わった。明治二年(1869)、下館藩知事となったが、明治四年(1871)、廃藩により免じられた。明治六年(1873)、権少教正となった。晩年は下館屋敷(現・筑西市本城町)に隠棲した。明治三十二年(1899)、年五十九で没。
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