(智観寺つづき)
智観寺には振武軍約百二十名が立てこもった。寺門は官軍の砲弾を受けた痕跡を留めている。
智観寺寺門
智観寺は、中山氏の祖、丹治武信が元慶年間(877~885)に創建した寺である。以来、中山氏は智観寺を菩提寺とした。
中山家範(いえのり)は豊臣秀吉の小田原攻めにおいて、北条軍の拠点八王子城を守り、奮戦の末戦死を遂げた。家範の次男信吉(のぶよし)は徳川家康に取り立てられ、側近として活躍した。水戸家初代藩主徳川頼房の傅育を命じられ、水戸藩付家老となった。付家老というのは、幕府が親藩に対し(あるいは本藩が支藩に対し)、施政を監督・指導する目的で遣わした家老で、尾張藩における成瀬氏、竹腰氏、紀伊藩における安藤氏、水野氏が代表的である。
中山氏は水戸藩の北の要地である多賀郡松岡(現・茨城県高萩市)および大田村周辺(現・茨城県常陸太田市)に二万五千石の領地を与えられ、代々水戸藩の付家老として活躍した。二万五千石となると、ちょっとした大名並みの家格である。
それでも中山氏の父祖伝来の地飯能と菩提寺智観寺には格別なこだわりがあったらしく、初代中山信吉以下幕末まで代々の藩主および夫人の墓が、水戸から遠く離れた当地に葬られている。
信吉の墓は、円墳上に設けられている。その墓前には、嗣子中山信正によって御影堂が建立され、その内部には宮殿や信吉寿像、木碑、燭台、位牌が安置されていた。御影堂は明治時代に解体され、木碑等は収蔵庫に移されている。
初代中山信吉の墓
風軒(ふうけん)跡は、中山信吉の嗣子、二代信正の霊屋であり、信正の歯骨を埋めたとされる。信正の墓は、水戸の桂岸寺(常磐共有墓地に隣接)にある。
風軒跡(中山信正霊屋跡)
十二代中山信守の墓
中山信守は文化四年(1807)の生まれ。文政十一年(1828)、家督を継ぎ、同年九月に家老に就き、十二月に従五位下に叙され、備後守に任じられた。天保八年(1837)、国政向取締並びに家事改革のため、領所下手綱へ暇を命じられた。弘化元年(1844)、老中阿部正弘は信守を招致して七ヶ条を詰問した。信守はこれを弁じ、さらに戸田銀次郎(忠則)と合議し、これに回答したが、同年五月六日、藩主斉昭は致仕謹慎を命じられ、信守も差控に処された。安政四年(1857)、年五十一で没。
十三代中山信宝の墓
中山信宝(のぶとみ)は、弘化元年(1844)、信守の子に生まれた。安政五年(1858)、家督を継ぎ、同年十二月には従五位下に叙され、備前守に任じられた。安政六年(1859)、藩主慶篤、前藩主斉昭が謹慎閉居を命じられると、同じ日付で差控に処された。同年十二月、幕府普請のため五百両を献上した。万延元年(1860)、領地松岡に学校就将館を設けた。文久元年(1861)、十八歳で没。
(中山家範館跡)
智観寺から近い住宅街の中に中山氏居館跡がある。天正十八年(1590)、八王子城で戦死した中山家範の館跡である。この館は小規模なもので、周囲には推定幅四~六メートル、深さ一~二メートルの堀を巡らせていたという。館の周辺には中山氏に仕える武士の居宅や田畑があり、中山氏は、日常は農業に従事しながら、武芸の鍛錬に励み、戦闘が起こると武士団の長として出陣した。現在、周辺は宅地化が進み、北西部隅に空堀が残されているのみとなっている。
中山家範館跡
有り難うございます。
高萩の中山家墓地は既に計画には入っておりますが、もう少し暖かくなってから実行します。