史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

浅草 Ⅹ

2022年04月23日 | 東京都

(長敬寺)

 

長敬寺

 

 長敬寺に遠藤胤緒(もしくは胤統)の墓がある。残念なことに墓地は工事中で遠藤家の墓石に近づくことができなかった(台東区西浅草1‐2‐7)。

 

舊遠藤 東子爵家累代之墓(遠藤胤緒の墓)

 

 遠藤胤緒は寛政五年(1793)の生まれ。父は大垣藩主戸田氏教。享和元年(1801)、遠藤胤冨の養子となり、文化八年(1811)、家督を継ぎ、同年十二月、従五位下但馬守に叙任された。天保四年(1833)、大阪城玉造口定番となり、天保八年(1837)二月、大塩平八郎の乱鎮定に活躍し、三老中連署の感状を賜った。天保十二年(1841)、出府し若年寄に任じられ、嘉永五年(1852)、勝手掛および西丸造営ならびに海岸防御筋用掛を命じられ、同年十二月には二千石を加増された。安政元年(1854)十一月、江戸湾台場築造の用掛、安政三年(1856)、蝦夷地開拓の用掛、安政五年(1858)には将軍家茂将軍職宣下の用掛を務めた。安政六年(1859)には外国事務掛を命じられ、露国使節ムラヴィヨフに面謁のため酒井忠眦とともに品川沖停泊の露艦に至り、芝愛宕下天徳寺で露使に応接した。万延元年(1860)閏三月、神奈川開港に尽力した労を賞賜され、城主格を命じられ、本丸造営用掛、国益主法掛、外国貿易筋用掛、和宮婚姻大礼用掛。文久元年(1861)には陸海軍備向ならびに軍制の用掛を命じられた。のち若年寄を免じられ、従四位下民部大輔に叙任され、雁之間参席を命じられた。文久三年(1863)、願いにより隠退し、嫡孫胤城(第三男)へ家督を命じられた。元治元年(1864)十二月、中務大輔と改称した。明治三年(1870)、七十八歳で没。

 

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