史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

弘前 Ⅴ

2016年09月01日 | 青森県
(月峰院)


月峰院


忠誠院殿武切保定居士(成田求馬墓)

成田求馬(もとま)は天保十年(1839)の生まれ。文久二年(1862)三月、家督を継ぎ、慶應元年(1865)目付役、慶応四年(1868)四月、足軽頭となった。同年七月、庄内追討軍の中隊司令士として従軍し、八月、秋田県由利郡吉沢村へ進み、政府軍の先鋒を務めて西滝村山本で隊兵八名とともに戦死した。年三十。同所に村民碑があり、秋田市の全良寺に改葬され、その翌年招魂社に合祀された。月峰院のこの墓には遺髪が納められている。


清光院殿忠學正行居士(小山内清作墓)

墓碑によれば、小山内清作は戊辰戦争に従軍し、明治十年(1877)の西南戦争にも一等巡査として出征した。「西南戦争戦歿士」と刻まれているが、亡くなったのは明治十三年(1880)八月となっている。

(普門院)


普門院


他山工藤先生之墓

工藤他山は文政元年(1818)弘前の生まれ。諱は主善。藩校稽古館に学び、その助教となった。弘化二年(1845)、助教を辞し、嘉永元年(1848)江戸に出て朝川善庵に学び、のち大阪に出て篠崎小竹に学んだ。帰郷して青森に寺子屋を開き、慶應三年(1867)、再び稽古館の教授となり、傍ら弘前五十石町に私塾思斉堂(のち向陽塾)を開いた。明治三年(1870)一等教授となり、翌年塾者を増築して子弟の教育に当たった。明治十年(1877)、東奥義塾に招かれた。明治十九年(1886)、辞して以降修史を専らにした。二男外崎覚は能くその家学を継いだ。明治二十二年(1889)、年七十二で没。

(真教寺)
真教寺も、箱館戦争後、旧幕軍を収容した寺である。


真教寺

(貞昌寺)
貞昌寺も、箱館戦争後、旧幕軍を収容した寺である。広い墓地に平尾魯仙、篠崎進、小島左近らの墓がある。


貞昌寺


平尾魯僊先生之墓

平尾魯仙は文化五年(1808)弘前に生まれた。父は魚商平尾三郎次。家業は小浜屋と称する魚商であったが、幼時から画を好んで、工藤五鳳、毛内雲林、今村渓寿などについて学んだ。花鳥山水とくに郷土の風物の写実画に優れた作品が多い。博学多芸で知られ、平田銕胤の門に入って国学にも通じた。芦川と号して俳諧を能くし、寺子屋も経営した。工藤仙乙、三上仙年など門人も多く、多数の著書作品によって地方文化に及ぼした影響は大きい。明治十三年(1880)、年七十三で没。


篠崎進先生墓

篠崎進は、文化十二年(1815)の生まれ。父に関流砲術を学び、天保十三年(1842)には下曽根金三郎の信敦塾に入門して西洋砲術を修得した。帰郷して弘前藩西洋砲術教授方に任じられ、銃隊編成や砲台構築を担当した。文久二年(1862)、幕府講武所下学頭に推挙された。戊辰戦争にも従軍した。明治二十年(1897)死去。


真忠院殿顕譽武功貞邦清居士(小島左近墓)

小島左近は、伊藤善兵衛の四男。小島嘉兵衛の養子、二百石。書院番、野内町奉行から足軽頭。明治元年(1868)九月二十三日、陸奥野辺地観音林にて戦死。三十七歳。

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