(良泉寺)
良泉寺
外国人の領事館などに寺が使われることを嫌った良泉寺の住職は、本堂の屋根を自ら剥がして修理中と偽って幕府の依頼を断ったと伝えられる。
峻徳院釋天平義哲大居士(田中平八の墓)
良泉寺墓地の一番奥(京急の線路寄り)に田中平八の墓がある。
田中平八は、天保五年(1834)の生まれ。出身地は信濃国上伊那郡赤穂村。安政六年(1859)、横浜が開港されると、海外貿易に着目し、生糸、茶を扱って一時は巨利を得たが、失敗。その後、上京して勤王の志士に加わり、さらに水戸浪士の挙兵に参加したが、敗れて入獄。出獄後は横浜に戻り、豪商大和屋に寄食して洋銀の売買を始めた。慶應元年(1865)、独立して両替店を開き、ついで洋銀現場取引所を設立して所長となり、田中組(のち田中銀行)を創り、横浜の実業家として大きな存在となった。「天下の糸平」の異名をとった。ガス、水道などの公共施設にも尽力した。明治十七年(1884)、五十一歳で没。
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