水郷 柳川
柳川は縦横に走る掘割と筑後川や矢部川などの河川、有明海に守られた水の要塞であった。掘割を舟で巡る川下りは有名である。ゆったりとした時間が流れる。
柳川藩御用達の商家に生まれた詩人北原白秋は、生涯この町を愛し、柳川の風情を詩によんだ。
――― 柳河の古きながれのかきつばた
思わず白秋の詩の一節を口にしたくなる、詩情にあふれた城下町である。
(柳川城址)
柳川城跡
柳川藩は、立花氏十万九千六百石の城下である。元和六年(1620)、筑後を領した田中吉政が没すると、奥州棚倉から立花氏が封じられ、その後、十二代二百五十年にわたり、この土地を治めた。幕末の藩主は立花鑑寛(あきとも)。王政復古の報に接して議論噴出したが、最終的に朝廷に協力することに決し、約三百の兵を奥羽北越に送った。
柳川城は、十丈七尺(約三十五メートル)の天守閣を有し、天守閣の棟には鯱があり、その目は金色に輝いていたといわれる。しかし、明治五年(1872)に焼失し(士族の反乱を抑えるために、立花壱岐が仕組んだ放火といわれる)、現在は柳城中学校の校庭の隅に小丘と石垣の一部を残すのみとなっている。
(西方寺)
西方寺には、高椋新太郎や十時摂津の墓がある。
西方寺
高椋新太郎墓
高椋新太郎は、文化十四年(1817)、商家に生まれた。天保八年(1837)、二十一歳のとき、借金三十両を元手に八百屋町に魚問屋を開き、商才を発揮して財を成した。嘉永元年(1848)以降、藩御用商人となった。安政六年(1859)九月、藩全権に就任した立花壱岐は、新太郎を直接面接して御用商人筆頭に任命した。新太郎は、天草、長崎、日田、大阪などを奔走し、十時兵馬や池辺藤左衛門とともに、大阪の鴻池や加島屋などから三万両の借り受けに成功した。また藩札を発行して、産物会所で集めた産物を長崎で売りさばいて大きな利益をもたらした。王政復古の後、立花壱岐が全権に復帰すると、長崎で蒸気船千別丸を購入し、グラバーとも親しく交わった。壱岐が求める西洋式兵制の整備のために尽力した。維新後も醤油「羽衣」を販売するなど、手広く商売を続け、明治十二年(1879)、柳川の第九十六国立銀行の設立に寄与し、初代頭取に就いた。明治十四年(1881)、六十五歳にて死去。
故正五位十時雪斎之墓(十時摂津の墓)
十時(ととき)摂津は、文政九年(1826)、家老十時三弥助の五人兄弟の長男として生まれた。三男は立花権佐家の養子となった立花壱岐である。摂津は弟の壱岐とともに、横井小楠の「肥後学」を学び、熊本藩家老長岡監物とも親交があった。嘉永元年(1848)には、弟壱岐とともに藩校伝習館の上聞(学校奉行)に就任している。嘉永六年(1853)の黒船来航時には、壱岐組とともに摂津組を率いて江戸湾を警備し、病弱の壱岐を助けて上総富津の警衛にあたった。安政三年(1856)には泉州堺の警衛に当たり、この時薩摩、長州、土佐などの藩士と交わった。安政六年(1859)から壱岐が藩政改革に着手すると、全面的に協力した。元治元年(1864)の長州征討に際して小倉に赴き、密かに西郷隆盛と面談し、三家老の首と引き換えに和議に持ち込む調停案をまとめ、西郷とともに幕府を説得した。慶応二年(1866)、大坂で勝海舟と会見し、京都では土佐の後藤象二郎、薩摩の大久保利通、小松帯刀らと天下の形勢を論じた。慶応三年(1867)柳川に戻り、軍制の改革と藩主の上洛を求めたが叶わず、十月には再度上楽して朝廷と幕府間の宥和に努めた。十二月に王政復古が発せられると、西郷隆盛とともに新政府の参与に任じられた。慶応四年(1868)四月、藩主鏡寛と変隊が「天機伺候」のために上洛し、江戸行きを命じられると、摂津は軍監として同行した。しかし、体調不良のため同年十一月退任して帰国。明治二十六年(1893)、六十八歳で死去。
(良清寺)
良清寺
池邉節松先生之墓(池辺藤左衛門墓)
池辺藤左衛門は、文政二年(1819)、山門郡東山村小田(現・みやま市瀬高町)で生まれた。幼少の頃より学を志し、吉田舎人家に寄宿して藩校伝習館に学んだ。その後、肥後の横井小楠に学び、嘉永元年(1848)には伝習館の寮頭に任じられ、学校改革を唱えた。安政元年(1854)には立花壱岐の根回しにより、侍読として江戸に上り、水戸の藤田東湖と戸田忠太夫に接触した。安政六年(1859)、立花壱岐が藩全権に着くと、藤左衛門は物成約、大阪留守居、その後は中老として実務面で手腕を発揮した。文久二年(1862)、壱岐が病気再発のため職を辞すると、藤左衛門も追放され、慶應元年(1865)までの二年間、牢獄に繋がれた。出所後は「不始末」をもじって「節松」と号した(墓石に刻まれている)。王政復古後、壱岐が復帰すると、藤左衛門も用人格の辞令を受け、情報収集のため長州と京都に派遣された。京都滞在中の慶応四年(1868)三月、壱岐の推挙を受けて新政府の会計官判事に任じられた。新政府においては参与の由利公正とともに金融財政政策を担当した。会計基立金の創設や太政官札の発行など積極的な金融政策を推進したが、太政官札の流通難などに対する批判が高まり、明治二年(1869)由利公正とともに辞職した。柳川に帰った藤左衛門は、明治八年(1875)、東京での再仕官を願ったが、妨害を受けて、その後は八女郡山崎村(現・八女市立花町)に隠遁して小学校の児童を教えた。以降、中学校の校長や伝習館館長などを歴任して、教育の振興に努めた。明治二十七年(1894)、七十六歳にて死去。
(福巌寺)
福巌寺
立花壱岐の墓?
碑面が磨滅しており、これが立花壱岐の墓がどうか、自信が持てない。
立花壱岐は天保二年(1831)の生まれ。父は柳川藩士十時惟治。天保九年(1838)、同藩家老立花親理の養子となり、天保十二年(1841)、養父の跡を継いで大組頭となる。陽明学を修め、池辺節松、横井小楠に学んだ。幕末期柳川藩藩政改革に従事し、殖産興業、軍制、職制改革等を行った。安政元年(1854)、藩主が安房、上総警備を命じられると、藩兵を率いて海防に携わり、安政四年(1857)、再度の出府に際して、橋本左内、藤森恭助(弘庵)、羽倉用九(簡堂)、安島帯刀らと交わった。文久三年(1863)、病気により隠退したが、明治維新に当たり再び出て兵制改革を行い、新軍隊を組織して奥羽征伐に功を立てた。明治二年(1869)、岩倉具視の切望により、病を冒して東上し、旧制を打破し、上下階級を廃し、四民平等の要を説いたが、岩倉がこれを容れることができず、帰国し以後意を世事から断ち、自適の生活を送った。明治十四年(1881)、年五十一で没。
十時兵馬墓
十時兵馬は、文政十一年(1828)、十時惟起(これおき)の長男として生まれ、若い頃から藩主鏡寛の近習として出仕した。安政五年(1858)、用人に昇格し、安政六年(1859)には中老に抜擢された。立花壱岐とは、横井小楠の肥後学派の同志として長い親交があった。兵馬は高椋新太郎らと大阪に出張し、鴻池や加島屋などから一万両の融資を獲得した。また佐賀藩領の大詫間と柳川領の大野島の水利権調整のために佐賀藩と折衝するなど、外交的事務を的確にこなして壱岐を助けた。文久二年(1862)、壱岐が退任すると、兵馬も連座して罷免されたが、藩主鏡寛の強い意向により中老に復帰。密かに壱岐や十時摂津と連携した。慶応二年(1866)の第二次長州征伐に際しても、幕府軍監平山謙次郎と対面し、長州征伐の中止を求めて激論を交わした。他藩にも働きかけ征討反対の声を高め、熊本藩と連携して自主的に兵を引き揚げた。慶応三年(1867)十二月、京都に上り、情報収集に当たった。岩倉具視とも接触して様々な情報を立花壱岐に書き送り、王政復古後も京都に滞在して動静を探り続けた。明治二年(1869)、新政府から徴士に任じられたが、藩主鏡寛と壱岐から懇願されて辞退した。柳川に帰国後、小参事試補に任じられ、次いで権大参事補、権大参事に昇格した。しかし、開明的な彼の言動は、保守派・攘夷派双方から誹謗中傷を受け、キリスト教を擁護した発言への攻撃も高まり、明治四年(1871)、退官に追い込まれた。その後、大阪に転居し、明治十七年(1884)、五十七歳にて死去。
(真勝寺)
真勝寺
真勝寺に海老名弾正の遺髪墓があるというので、墓地を探してみたが発見できず。門前に海老名家の墓と弾正の弟海老名一郎の墓は確認することができた。
それにしても真勝寺の墓地は雑草が伸び放題で歩くのにも難渋した。ここまで手入れがされていない墓地も珍しい。
海老名家之墓
海老名弾正は、安政三年(1856)、柳川藩士海老名平馬助の長男に生まれた。明治四年(1871)、熊本洋学校が設立されると、藩校伝習館から転校し、アメリカ人教師ジェーンズから英語、数学、地理、歴史、物理、化学などを学んだ。のちにキリスト教に帰依し、明治九年(1876)には徳富蘇峰、金森通倫、横井時雄、浮田和民らとキリスト教結社を組織した。これによりジェーンズは解雇され、熊本洋学校は閉鎖に追い込まれた。弾正らはその年の秋から京都の同志社英学校で学んだ。その後、新島襄の故郷上州安中で伝道活動を行い、同志社の第一期生として卒業すると、安中で牧師となった。明治十九年(1886)には東京で本郷教会を設立。熊本で熊本英学校と熊本女学校の創設に尽力した。明治二十三年(1890)、日本基督教伝道会社社長。大正九年(1920)には第八代同志社総長となり、三期九年を務めた。昭和十二年(1937)、八十二歳で死去。東京多磨霊園にも墓がある。
(宝満宮)
三橋町五拾町の宝満宮の境内に綿貫吉直の墓がある。
宝満宮
綿貫吉直墓
綿貫吉直君墓表
綿貫吉直は天保二年(1831)、山門郡三橋町五拾町に生まれた。綿貫家はもと従士であったが、長州征伐のとき幕府目付安藤治左衛門付となり、ついで組付侍に抜擢された。慶応四年(1868)、戊辰戦争に際し、柳川藩英隊の大砲隊に編入され、奥州磐城平城攻略に偉功を立て、翌明治二年(1869)、海軍参謀附属を命じられ、箱館戦争に参加した。同年東京府巡査奉職中、米沢藩士雲井龍雄の党類逮捕の功により賞を受けた。明治三年(1870)三月、東京府権大属に任じ、七月大属に進み、明治五年(1872)、少警視に転じ、以後累進して警視副総監まで昇った。明治二十二年(1889)、年五十九にて没。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます