(西念寺)
西念寺に行き着いた時には雨はいよいよ本降りとなっていた。ここに原古処、采蘋父子、吉田平陽の墓などがある。
西念寺
原古処先生墓
原采蘋墓
原古処は、寛政十二年(1800)より秋月藩校稽古館の教授。文化九年(1812)、江戸において職を解かれ、翌年十一月に隠居した。以後、秋月において私塾古処山堂や甘木で詩塾天城詩社を開いて指導にあたった。その間、采蘋は自ら漢詩や漢学を学びながら父を助けた。また、古処に従って各地を旅し、文人墨客で交流を深めた。
文政九年(1826)、病を得て、翌十年(1827)正月、死去。
采蘋は寛政十年(1798)古処の娘に生まれる。古処没後、古処の詩集出版のため上京し、京都で頼山陽や梁川星巌、江戸で松崎慊堂らの支援や指導を受けた。采蘋は二十年にわたり江戸に滞在して詩作に励んだ。嘉永元年(1848)、母親の看病のため帰国。以後、母とともに屋永村(現・朝倉市)次いで山家(現・筑紫野市)に移り住み、私塾宜宜堂を開いた。安政六年(1859)六月、病のため死去。六十二歳。
吉田平陽墓
吉田平陽は寛政二年(1790)生まれ。江戸在勤中、佐藤一斎の門で学んだ。帰国して勘定奉行、大阪蔵奉行に任じられ、藩校稽古館教授を兼ねた。文久三年(1863)二月、七十四歳で死去。
墓石の赤い字は存命中を意味していると聞いたことがあるが、西念寺には吉田平陽の墓をはじめ赤い字で彫られている墓がある。どういう意味があるのだろうか。
(ろまんの道)
ろまんの道
現在、「ろまんの道」というカフェのような店舗となっているが、この周辺が原古処の塾跡に当たる。「ろまんの道」の中に原采蘋像が建てられている。
原先生古処山堂跡
原采蘋像
(秋月小学校跡)
秋月小学校跡
秋月のちょうど真ん中に市営駐車場があり、そこに車を停めて、歩いて街を散策するのが便利であろう。
この駐車場は、元秋月小学校の敷地である。秋月小学校は明治六年(1873)に設立され、昭和四十五年(1970)までほぼ百年間この地にあった。
(秋月郷土館)
この日は久留米を早朝五時過ぎに出発し、秋月に入ったのは六時のことであった。従って、郷土館の中には入れなかったが、この場所は戸波半九郎屋敷跡である。戸波半九郎は秋月党の幹部の一人で、郷土館には秋月党幹部の直筆辞世が展示されているそうだが、残念ながら拝観することはできなかった。
秋月郷土館
稽古館跡
秋月郷土館の向いが安永四年(1775)に開設された藩校稽古館である。学問(四書五経、大学、孟子等)のほか、武芸(弓、槍、剣、柔、砲術等)の指導が行われた。
(秋月城址)
秋月城長屋門
秋月藩主黒田家の居城秋月城である。石垣のほか、この長屋門が唯一の現地に残る遺構となっている。かつては秋月城の裏手門として使用されていたものである。
杉の馬場
秋月城前の登城道は、往時には杉の並木が両側に生い茂り、その中で武士たちが馬術の腕を競った。江戸中期に杉は伐採され、明治に入って日露戦勝記念に桜が植えられた。恐らく桜のシーズンは見事な花のトンネルを見ることができるだろう。毎年四月には春祭りが開かれるそうである。
(臼井六郎生誕地)
臼井六郎生誕地
この場所が臼井六郎の生誕地であり、彼の両親(父・亘理、母・清子)が干城隊によって斬殺されたところでもある。
(中島衝平屋敷跡)
中島衝平は陽明学者で、臼井亘理の師でもあった。慶応四年(1868)五月二十四日、臼井亘理が斬殺された夜、同じく干城隊の手により惨殺された。
中島衝平屋敷跡
(緒方春朔屋敷跡)
緒方春朔屋敷跡
緒方春朔は、久留米に生まれ、八代秋月藩主黒田長舒に藩医として召し抱えられ、寛政二年(1790)、人痘種痘法により我が国で初めて成功した。
(貝原東軒)
貝原東軒夫人誕生地
貝原益軒(1630~1714)夫人、東軒は秋月中小路の武家屋敷で生まれ、名を江崎初、号を東軒と称し、十六歳のとき、益軒と結婚した。益軒の多くの著書も、夫人が代筆したといわれている。
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