(大龍寺)
山本家之墓
これも大河ドラマ効果だろうが、大龍寺墓地には山本家の墓を示す看板が随所に出ており、迷うことなく行き着くことができる。墓所の題字は新島八重直筆。裏側には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七歳」とある。
大龍寺の過去帳によると、文化年間(すなわち八重の高祖父の時代)から山本家は大龍寺を菩提寺としていた。昭和六年(1931)、八重は点在していた山本家の墓を一か所に集め、この墓所を整備した。八重が亡くなったのは、墓所整備の翌年、昭和七年(1932)のことであった。享年八十七。
新島八重歌碑
たらちねの 御墓(みはか)のあとを とふことも 今日をかきりと なくほととぎす
丹羽蔟(にわやから)能由墓
無縁墓石群の中に丹羽蔟の墓石がある。
丹波蔟は百石。代官。兵糧方総督。慶應四年(1868)八月七日、大沼郡野尻村にて自刃。五十四歳。
吉田家の墓地に七名の連名墓がある。そのうち「勇戦良義居士」という法名が戊辰役で戦死した吉田義助のものであろう。
吉田義助は預方。慶応四年(1868)八月二十三日、若松大和町にて戦死。
勇戦良義居士
(吉田義助の墓)
忠心院戦山義勝墓(佐藤次郎八の墓)
佐藤次郎八は、武八父。堀隊。慶應四年(1868)一月五日、淀にて戦死。三十八歳。
永井氏七人之墓
永井左京、永井スミ、永井ツル、永井英記、永井フヂ、永井ヤエ、永井某(名前不詳)の七名の墓である。
永井左京は四百石。青竜隊士中三番木本隊小隊頭。慶応四年(1868)八月二十三日、若松本二ノ丁の自宅にて自刃。三十五歳、以下、いずれも左京の家族で同日自宅にて自刃している。
スミ…左京の妻、三十歳、ツル…左京の母、六十二歳、フヂ…左京の娘、十四歳、英記…二男、十一歳、某…三男、八歳。ヤエ…左京の姉、三十八歳。
鏡清院殿壽室妙觀大姉
妙臺院殿英照鏡湏大姉
清要院室圓妙真大姉
誠光院觀室一露大姉
(沼沢道子 貞子 やや子 すが子の墓)
沼沢家の女性四名の合葬墓である。
沼沢道子は沼沢九郎兵衛(千石)の妻。慶応四年(1868)八月二十三日、若松自邸で姑貞子を介錯後、娘二人とともに自刃。五十二歳。
貞子は小八郎の祖母。西郷氏。八十六歳(八十二歳とも)。
ゆや子は小八郎の姉。二十七歳。すが子は二十三歳。
沼沢家家臣の墓
墓石表面は摩耗により文字が読み取れない。葬られているのは、沼沢家家臣内川源吾と鈴木勝之丞の両名である。
内川源吾(源吉とも)は慶應四年(1868)八月二十三日、若松甲賀町の沼沢家前にて戦死。三十歳。柳津町藤にも墓がある。
鈴木勝之丞も同じく主家前で戦死。五十二歳。
義○院殿智山良戦居士 ○○院殿義道了居士
(赤埴酉四郎、赤埴定蔵の墓)
赤埴酉四郎、赤埴定蔵の連名墓である。
赤埴酉四郎は平八の弟。十石三人扶持。大砲士中一番隊小原隊嚮導。慶応四年(1868)八月二十三日、若松城埋門(天寧寺町とも)にて戦死。二十一歳。
赤埴定蔵は、平八の叔父。遊撃隊相沢隊。慶応四年(1868)九月一日、若松郊外西方(船渡山とも)にて戦死。五十四歳。
源明院義山良忠居士
忠徳院殿義翁祖心居士
心如院源忠智徳居士
(国府辰次郎 篤三郎 源十郎の墓)
国府(こくふ)辰次郎、篤三郎、源十郎兄弟の墓である。
国府辰次郎は、源十郎の弟。集義隊小隊頭。慶應四年(1868)閏四月二十五日、磐城白河にて戦死。三十七歳。
篤三郎も源十郎の弟。朱雀士中三番原田隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松町西堀端にて戦死。二十歳。
源十郎は四百石。白虎士中小隊頭。慶応四年(1868)九月六日、若松城二ノ丸にて戦死。四十二歳。
赤埴平八の墓
赤埴(あかはに)平八は、二百六十石。遊撃隊三宅隊小隊頭兼力士隊頭。慶應四年(1868)八月十四日、越後赤谷にて戦死。三十四歳。
唐津藩士の墓
大龍寺には小笠原長時の墓がある。小笠原長時(永正十一年(1514)~天正十一年(1583))は信濃守長棟の子。弓馬および礼式の名家として代々信州林の館に住した。長時はしばしば武田信玄と戦い、破れて上杉謙信を頼り越後に逃れ後将軍足利義輝の弓馬の師範となった。義輝が三好氏らに滅ばされたため会津に逃れ、芦名盛氏に身を寄せていたが逆臣に妻子ともに殺害された。いわゆる小笠原流の祖とされる。
その長時の墓の前に唐津藩士(小笠原家六万石)六名の墓がある。
名前が刻まれているのは、水野忠右衛門、高須大次郎、吉倉晚三郎、田邊銕三郎、市川熊雄、吉川七之助。いずれも慶應四年(1868)八月二十一日、会津勝軍山にて戦死。
(浄光寺)
真勇院忠道日義居士(原新五右衛門の墓)
原新五右衛門は二百石。幼少寄合組小隊頭。慶応四年(1868)八月二十三日、若松甲賀口にて戦死。五十歳。
(宗英寺)
宗英寺
上島良介は、繁記父。十五石三人扶持。青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十六歳。
露照院堅道良固居士(上島良介の墓)
(極楽寺)
極楽寺
宗川家之墓
宗川家の墓に会津藩の儒者宗川茂弘が葬られている。通称勇之進。十歳で日新館素読所を修了し、十五歳で第一等に進んだ。藩主松平容敬、松平容保の侍講となる。戊辰戦争では徹底抗戦を主張し軍務局に出仕した。敗戦後、小樽、余市の郷校で教鞭をとり、札幌資生館長も務める。明治十年(1877)会津に帰り、郷童を教育した。明治十五年(1882)没。享年八十六。墓前に門人が寄贈した石燈籠が置かれている。
私たちが宗川家の墓に釘づけになっているうちに竹様が山室家の墓誌で、明治元年(1868)没の二人の殉難者を確認していた。山室家の墓は、墓地の一番奥にある。
山室鉄三郎は、卯之助の子。別撰組佐川隊。慶応四年(1868)一月五日、鳥羽にて戦死。二十八歳。法名「喚譽得忠居士」
山室鉄蔵も同じく卯之助の倅。青龍中三番木本隊。右筆上席。慶応四年(1868)九月、会津飯寺にて負傷。十月二十七日、南原にて死亡。三十六歳。
山室家累代墓
山本家之墓
これも大河ドラマ効果だろうが、大龍寺墓地には山本家の墓を示す看板が随所に出ており、迷うことなく行き着くことができる。墓所の題字は新島八重直筆。裏側には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七歳」とある。
大龍寺の過去帳によると、文化年間(すなわち八重の高祖父の時代)から山本家は大龍寺を菩提寺としていた。昭和六年(1931)、八重は点在していた山本家の墓を一か所に集め、この墓所を整備した。八重が亡くなったのは、墓所整備の翌年、昭和七年(1932)のことであった。享年八十七。
新島八重歌碑
たらちねの 御墓(みはか)のあとを とふことも 今日をかきりと なくほととぎす
丹羽蔟(にわやから)能由墓
無縁墓石群の中に丹羽蔟の墓石がある。
丹波蔟は百石。代官。兵糧方総督。慶應四年(1868)八月七日、大沼郡野尻村にて自刃。五十四歳。
吉田家の墓地に七名の連名墓がある。そのうち「勇戦良義居士」という法名が戊辰役で戦死した吉田義助のものであろう。
吉田義助は預方。慶応四年(1868)八月二十三日、若松大和町にて戦死。
勇戦良義居士
(吉田義助の墓)
忠心院戦山義勝墓(佐藤次郎八の墓)
佐藤次郎八は、武八父。堀隊。慶應四年(1868)一月五日、淀にて戦死。三十八歳。
永井氏七人之墓
永井左京、永井スミ、永井ツル、永井英記、永井フヂ、永井ヤエ、永井某(名前不詳)の七名の墓である。
永井左京は四百石。青竜隊士中三番木本隊小隊頭。慶応四年(1868)八月二十三日、若松本二ノ丁の自宅にて自刃。三十五歳、以下、いずれも左京の家族で同日自宅にて自刃している。
スミ…左京の妻、三十歳、ツル…左京の母、六十二歳、フヂ…左京の娘、十四歳、英記…二男、十一歳、某…三男、八歳。ヤエ…左京の姉、三十八歳。
鏡清院殿壽室妙觀大姉
妙臺院殿英照鏡湏大姉
清要院室圓妙真大姉
誠光院觀室一露大姉
(沼沢道子 貞子 やや子 すが子の墓)
沼沢家の女性四名の合葬墓である。
沼沢道子は沼沢九郎兵衛(千石)の妻。慶応四年(1868)八月二十三日、若松自邸で姑貞子を介錯後、娘二人とともに自刃。五十二歳。
貞子は小八郎の祖母。西郷氏。八十六歳(八十二歳とも)。
ゆや子は小八郎の姉。二十七歳。すが子は二十三歳。
沼沢家家臣の墓
墓石表面は摩耗により文字が読み取れない。葬られているのは、沼沢家家臣内川源吾と鈴木勝之丞の両名である。
内川源吾(源吉とも)は慶應四年(1868)八月二十三日、若松甲賀町の沼沢家前にて戦死。三十歳。柳津町藤にも墓がある。
鈴木勝之丞も同じく主家前で戦死。五十二歳。
義○院殿智山良戦居士 ○○院殿義道了居士
(赤埴酉四郎、赤埴定蔵の墓)
赤埴酉四郎、赤埴定蔵の連名墓である。
赤埴酉四郎は平八の弟。十石三人扶持。大砲士中一番隊小原隊嚮導。慶応四年(1868)八月二十三日、若松城埋門(天寧寺町とも)にて戦死。二十一歳。
赤埴定蔵は、平八の叔父。遊撃隊相沢隊。慶応四年(1868)九月一日、若松郊外西方(船渡山とも)にて戦死。五十四歳。
源明院義山良忠居士
忠徳院殿義翁祖心居士
心如院源忠智徳居士
(国府辰次郎 篤三郎 源十郎の墓)
国府(こくふ)辰次郎、篤三郎、源十郎兄弟の墓である。
国府辰次郎は、源十郎の弟。集義隊小隊頭。慶應四年(1868)閏四月二十五日、磐城白河にて戦死。三十七歳。
篤三郎も源十郎の弟。朱雀士中三番原田隊。慶応四年(1868)八月二十九日、若松町西堀端にて戦死。二十歳。
源十郎は四百石。白虎士中小隊頭。慶応四年(1868)九月六日、若松城二ノ丸にて戦死。四十二歳。
赤埴平八の墓
赤埴(あかはに)平八は、二百六十石。遊撃隊三宅隊小隊頭兼力士隊頭。慶應四年(1868)八月十四日、越後赤谷にて戦死。三十四歳。
唐津藩士の墓
大龍寺には小笠原長時の墓がある。小笠原長時(永正十一年(1514)~天正十一年(1583))は信濃守長棟の子。弓馬および礼式の名家として代々信州林の館に住した。長時はしばしば武田信玄と戦い、破れて上杉謙信を頼り越後に逃れ後将軍足利義輝の弓馬の師範となった。義輝が三好氏らに滅ばされたため会津に逃れ、芦名盛氏に身を寄せていたが逆臣に妻子ともに殺害された。いわゆる小笠原流の祖とされる。
その長時の墓の前に唐津藩士(小笠原家六万石)六名の墓がある。
名前が刻まれているのは、水野忠右衛門、高須大次郎、吉倉晚三郎、田邊銕三郎、市川熊雄、吉川七之助。いずれも慶應四年(1868)八月二十一日、会津勝軍山にて戦死。
(浄光寺)
真勇院忠道日義居士(原新五右衛門の墓)
原新五右衛門は二百石。幼少寄合組小隊頭。慶応四年(1868)八月二十三日、若松甲賀口にて戦死。五十歳。
(宗英寺)
宗英寺
上島良介は、繁記父。十五石三人扶持。青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十六歳。
露照院堅道良固居士(上島良介の墓)
(極楽寺)
極楽寺
宗川家之墓
宗川家の墓に会津藩の儒者宗川茂弘が葬られている。通称勇之進。十歳で日新館素読所を修了し、十五歳で第一等に進んだ。藩主松平容敬、松平容保の侍講となる。戊辰戦争では徹底抗戦を主張し軍務局に出仕した。敗戦後、小樽、余市の郷校で教鞭をとり、札幌資生館長も務める。明治十年(1877)会津に帰り、郷童を教育した。明治十五年(1882)没。享年八十六。墓前に門人が寄贈した石燈籠が置かれている。
私たちが宗川家の墓に釘づけになっているうちに竹様が山室家の墓誌で、明治元年(1868)没の二人の殉難者を確認していた。山室家の墓は、墓地の一番奥にある。
山室鉄三郎は、卯之助の子。別撰組佐川隊。慶応四年(1868)一月五日、鳥羽にて戦死。二十八歳。法名「喚譽得忠居士」
山室鉄蔵も同じく卯之助の倅。青龍中三番木本隊。右筆上席。慶応四年(1868)九月、会津飯寺にて負傷。十月二十七日、南原にて死亡。三十六歳。
山室家累代墓
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