史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「西郷隆盛 ―― 手紙で読むその実像」川道麟太郎著 ちくま新書 

2018年01月27日 | 書評
「西郷「征韓論」の真相」「「征韓論政変」の真相」(いずれも勉誠出版)で征韓論論争に一石を投じた川道麟太郎先生の最新刊。新書としては異例の五百ページを越えるボリュームとなっている。うち、川道先生の「真骨頂」というべき維新以降の論説は二百四十ページを過ぎてからとなっており、バランスの取れた配分となっている。
このところずっと「久光はどの時点で討幕を決意したのか」という問いが頭から離れないが、この問いに対する一つの答えが本書で提示されている。慶応三年(1867)五月、四候(久光・春嶽・容堂・宗城)が出そろい、将軍慶喜との交渉も持たれたが、結局、元治元年(1864)の参預会議が崩壊したのと同様、慶喜との折り合いがつかず、失敗に終わる。
その直後の六月十六日、長州藩の山県狂介と品川弥二郎が久光と謁見したときの記録が残っている。山県と品川は連名で国元にこのときのことを報じている。
――― 西郷・大久保・伊地知列座にて小松曰く、今日主人(久光)よりもお話しした通り、幕府の橘詐奸謀は尋常の尽力にてはとても挽回の機これあるまじく、ついては長薩連合同心戮力して大義を天下に鳴らしたく……。ついては不日(まもなく)、吉之助を差し出し、御国一定不抜の御廟議もうかがいたいとのこと、……。(現代語訳筆者)
さらに、山県はこのとき久光から六連発の拳銃を授けられたことに感激して、「向かう仇 あらば撃てよと 賜りし 筒の響きや 世にやなさらん」と詠んでいる。川道先生は、「山県らが聞いていることは、兵力をもって徳川幕府と戦うことにあったと見て間違いはない」「慶応三年五、六月に、薩摩側が言い、長州側が聞いた「挙事」は、純粋に兵力にもとづく「討幕」と理解して問題ない」と言い切る。非常に自然で説得力のある主張である。
明治六年政変に関する論調は、川道先生の従来からのものであるが、それでもいくつか新しい指摘がある。
その一つは、「大久保や木戸が帰国したころに「留守政府はいわゆる『征韓』論でわき返っていた」とするもの。川道先生は、「当時の留守政府の閣僚、三条・西郷・板垣・大隈などが遺した史料を調べてみても、そのように言えるものはどこにも見付からない」と一蹴する。さらに西郷が遣韓使節のことを考えるようになったのは、「副島使節団が帰国した七月二十六日の直後」と推定している。これまた説得力のあるものである。
もう一つは、十月十五日および十七日に西郷が提出したとされる「始末書」の存在について。十七日付の「出使始末書」は現在に伝えられているが、川道先生は十五日付の始末書については、存在していないと指摘する。
さらに司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」にまで批判の筆は及ぶ。「翔ぶが如く」に拠れば、十月二十三日、西郷は大久保を訪ねて暇乞いをしたとされている。それは西郷が「大久保と岩倉のみを信頼し、この両人が政府にあるかぎり、妙な国家になることはあるまいとおもっていた」からだという。しかし、川道先生によれば「むしろ、西郷はふたりを「君側の奸」として憎んだはずで、特に、大久保への憎しみは、若いころから(年下の)朋友であっただけに、特別のものであったはずだ」とする。そして大久保の同日付けの日記に西郷およびその場に同席していたとされる伊藤博文が来訪した記録がないことを根拠に、「暇乞い」を否定している。「翔ぶが如く」は歴史小説であるとはいえ、「事実を歪め、人々から史や現実を直視する目を奪う」ことになると辛辣である。
一次資料を見るかぎり、ご指摘のとおり、西郷が大久保に暇乞いにきたという事実は確認できない。ただ「翔ぶが如く」において、両雄決別のシーンはとても印象深い。かつての幼馴染に戻って、大久保が西郷を詰った後、そのやりとりを聞いていた伊藤が「さきほどのお言葉、あれではちょっとひどすぎるように思いましたが」とたしなめると、大久保が「私もそう思います」と漏らす場面は、「翔ぶが如く」における名場面の一つである。個人的には少し寂しい気もするが、それは川道先生に言わせれば「西郷と大久保の盟友関係を理想化」した結果なのかもしれない。
こうして次々とこれまで史実と思われていたことを否定する手腕は、かつて薩摩藩出身の実証的歴史家重野安繹が児島高徳の実在や楠木正成の数々の逸話を否定し、「抹殺博士」の異名をとったことを連想させる。川道先生は、現代の「抹殺博士」なのかもしれない。
「あとがき」にいう。
――― 勝海舟・中江兆民・内村鑑三といった著名人たちが西郷を持ち上げ、歴史家は西郷を忠君愛国の士や国家のために命を捧げる将士の鑑のように書き、また、征韓論の英雄や大陸計略論の先駆者、あるいは逆に、朝鮮に赴く平和的遣使として語り、明治十年の反乱はいつの間にか「西南戦争」と呼ばれるようになって、人は西郷を悲劇の英雄のように見て、そこに死に方の美学や滅びの美学を夢想するようにもなる。
――― 本書は…もっぱら西郷自身が書いた手紙を史料の中心に置いて、国史上の西郷隆盛ではなく、現実に生きた人間、西郷吉之助の真の姿に光を当てようとしたものである。
西郷のみならず、坂本龍馬もしかり、勝海舟もしかり、我々は歴史上の人物を論じるとき、彼らを頭から神格化、理想化して語っていないだろうか。そのことの危うさを本書は思い起させてくれる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「寺田屋騒動」 海音寺潮五... | トップ | 「志士の峠」 植松三十里著... »

コメントを投稿

書評」カテゴリの最新記事