史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

墨田 Ⅵ

2018年07月13日 | 東京都

(長命寺 つづき)


橘守部之墓

 橘守部は、江戸時代の国学者。天明元年(1781)、伊勢に生まれ、十七歳のとき江戸に出て、十年余り芝新銭座または八丁堀に住み、その間、国学を志したが全くの独学であった。二十九歳のとき武州幸手に移り、四十歳を過ぎる頃より守部と称した。四十八歳の頃、再び江戸浅草弁天山に居を定め池庵と号した。出府後、間もなく「山彦冊子」を板行して名声を挙げ、以来続々と名著を出し、平田篤胤、伴信友、香川景樹らとならんで天保の四大家といわれた。嘉永二年(1849)五月二十四日、六十九歳で歿し、長命寺に葬られた。守部の学は、本居宣長の学説に対抗する意識をもって成立しているといわれる。即ち、宣長の「古事記伝」に対して「日本書紀」神代巻および「記」「紀」の歌謡を訳した「稜威道別(いつのちわき)」「稜威言別(いつのことわき)」があり、「詞の玉の緒」に対し、「助辞本義一覧」などがある。守部の墓の隣には、幸手出身で守部の養子となった橘冬彦(文久三年(1863)没)の墓もある。


橘冬照之墓

(常泉寺)


常泉寺

 常泉寺の前を過ぎようとしたところ、門前にご婦人が二人待ち構えておられ、「お参りしていかれませんか」と声をかけられた。「朝川善庵の墓をお参りできますか」と聞いたところ、墓前までご案内していただいた(墨田区向島3‐12‐15)。嘉永六年(1853)、篤姫の輿入れ成就を祈願するため、島津斉彬がこの寺を訪れている。篤姫は、落飾して天璋院となった後も、常泉寺に厚い信仰を寄せた。


朝川片山 兩家歴世之墓(朝川善庵の墓)

 朝川善庵は、江戸後期の儒学者である。名は鼎、善庵は号。天明元年(1781)、片山兼山の末子として江戸に生まれた。早くに父を亡くし、母の再嫁先の医師朝川黙翁の姓を名乗った。山本北山に学び、黙翁に伴われ京阪へ遊学した。さらに寛政十年(1798)、長崎に赴きその後南九州にも遊歴した。平戸藩松浦家の厚遇を受け、弘化三年(1846)には将軍にも謁見し名を高めた。清国の船が下田に漂着した際には、代官江川氏に招かれ、清人と筆談した。嘉永二年(1849)、六十九歳にて没。

(東京ソラマチ 郵政博物館)


郵政博物館

 東京スカイツリーのたもとは三百以上の店舗が入る東京ソラマチという商業施設になっている(墨田区押上1‐1‐2)。
 水族館や人気の高い飲食店が軒を並べ週末ともなると(八王子周辺ではちょっと経験できないほどの)混雑である。ソラマチの九階まで来ると、先ほどまでの喧噪とは一線を画した空間になっており、そこに郵政博物館がある。この施設は、かつて千代田区大手町で逓信総合博物館として昭和三十九年(1964)に開設されたもので、開設から五十年が経過した平成二十六年(2014)、現在地に移転した。
 ともかく収蔵している切手のボリュームが凄い。日本の切手のみならず、全世界の切手が集められている。私は切手蒐集が趣味でも何でもないが、それでも圧倒される。マニアには堪らない場所であろう。入場料三百円はオトク。


日本郵便の父 前島密像

 入口では日本郵便の父と呼ばれる、前島密像が出迎えてくれる。前島密の建議を受けて、明治四年(1871)東京大阪間に官営の郵便事業が開始された。前島密は、大蔵省や内務省の官僚として仕事をこなしながら、明治三年(1870)から十一年もの長い間、郵政事業の長として熱心に職務にあたり、我が国郵政事業の基礎を築いた。


甲東大久保公書簡

 この日、郵政博物館を訪れたのは、やはり「明治百五十年」を記念して、「幕臣たちの文明開化」展が開かれていたので、それを見ることが第一目的であった。さらにこの日開かれる記念講演会トークセッション「幕末維新よもやま話」が二つ目の目的であった。
 我が国黎明期の郵政事業には、多くの幕臣が関わっていた。前島密も幕臣出身であるし、オランダから電信機を持ち帰った榎本武揚も幕臣である。ほかにもジャーナリスト福地桜痴、成島柳北、栗本鋤雲や実業家渋沢栄一ら、多くの幕臣が紹介されている。
 見所は、前島密の刀と脇差、明治天皇の東幸の際、袋井本陣で使われた行在所の看板、有栖川熾仁親王や三条実美の書、大久保利通から前島密に宛てた書簡(萩の乱について)、西南戦争時に使用された電報など。

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