(本願寺岐阜別院)
本願寺岐阜別院
今年の夏は、直前まで帰省するつもりでいたのだが、一向にコロナ感染者が減る気配もなく、万が一高齢の両親にウイルスを移してもいけないので、帰省は諦めることにした。代わりに岐阜に一泊だけして岐阜から三重の史跡をレンタカーで巡ることにした。
朝五時半にホテルをチェックアウトして目指したのは市内西野町の本願寺岐阜別院である。
明治天皇岐阜行在所
山門の前には、明治十一年(1878)、明治天皇の東北北陸巡幸の際に行在所となったことを記念した石碑が建てられている。
(上加納山墓地)
いったん岐阜駅まで引き返し、バスで移動する。金園町九丁目バス停で下車。そこから歩いて十分ほど北上すると、斎場が並ぶ一帯に至る。岐阜市斎苑の北側の金華山の山裾に上加納山墓地が広がる。
かなり広い墓地で、ここを当てもなく歩いて、水野弥三郎の墓を探し当てるのはかなり困難である。墓地の地図くらい掲示されていれば良いのだが、それらしいものもない。因みに水野弥三郎の墓は、「弥八下」という名称の墓域内にあった。
釋専志信士(水野弥三郎の墓)
勇肝鉄心信士(殉死した生井幸治の墓)
水野弥三郎は、岐阜矢島町に本拠を置く博徒で通称弥太郎ともいった。美濃から尾張一帯に勢力を張る博徒の巨魁であった。弥三郎は文化二年(1805)、医師の子に生まれたが、医業を嫌って一心流の鈴木長七郎に入門。めきめきと腕を上げたが、一方で実家からは破門された。博徒となって頭角を現し、関小左衛門、神戸政五郎と並んで美濃三人衆と称される大親分へと成長した。実家である水野家は文雅に富んだ家であった。京風の文化を好み、やがて尊王運動にも共感するようになったと言われ、新選組から離脱した伊東甲子太郎の一派と接点があったとされる。赤報隊が美濃を目指して進軍を始めると、それに呼応するように手下七十人を引き連れて竹中陣屋に乗り込んで接収にあたった。慶應四年(1868)一月十九日、赤報隊の先鋒二百が加納宿に入ったがその七割は弥三郎の手下であった。やがて相楽総三の一番隊が合流するが、その中には弥三郎と兄弟分である黒駒勝蔵もいた。加納宿はあたかも博徒に占領されたかの様相を呈した。博徒の狼藉に加え、勝手に年貢半減令を布告したことに業を煮やした東山道鎮撫総督府は、弥三郎を大垣の本陣に呼び出し、奸計をもって搦め捕った。絶望した弥三郎は、三日後に自ら首をくくって死を選んだ。墓石側面には「水野彌三郎源維光 終年六拾四歳」とある。墓の隣には殉死した子分生井幸治の墓が並べられている。
(切通陣屋跡之碑)
旧中山道は岐阜駅の南を東西に走っている。旧中山道を東に一里進むと、切通陣屋跡がある。
切通陣屋跡之碑
陸奥磐城平に移封となった安藤家が、享和三年(1803)に美濃国内で一万八千石余を加増され、美濃支配のために切通村に陣屋を設けた。平藩では、郡奉行二人、代官四人、与力五人、同心五人など二十二名を配置していた。文政八年(1825)には「長森騒動」と呼ばれる紛争も起きている。
切通陣屋において、安藤家七代、六十七年に及ぶ支配が続いたが、明治に至り廃藩と同時に廃止され、笠松県に統合された。
(上宮寺)
上宮寺
新加納陣屋移築門
前一色の上宮寺には新加納陣屋(現・各務原市)門が移築されている。
(EXEX GARDEN)
EXEX GARDEN
加納城二の丸移築門
EXEX GARDENという結婚式場に加納城の二の丸門と江戸時代後期に建てられたといわれる代官屋敷が移築されている。
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