史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

豊後高田

2022年07月09日 | 大分県

(西光寺)

 杵築を探索した後は、国東半島の根元を西北方向に横断して、豊後高田市の西光寺を目指した。

 西光寺は、浄土真宗豊前学派を大成した高僧東陽圓月を生んだ寺である。安政の大地震により本堂が倒壊したが、平成十五年(2003)、再建された。

 

西光寺

 

西光寺庭園

 

 東陽圓月は、文政元年(1818)、豊前宇佐郡水崎村(現・豊後高田市水崎)、西光寺住職圓超の五子に生まれた。圓月は諱で、烏有子と号した。性聡明にして十一歳のとき本山で得度し、天保十一年(1840)、十四歳で蔵春園に入門して恒遠醒窓に学び、漢籍を修めて都講(塾頭)となった。二十歳で豊前の柳ヶ浦(現・宇佐市長洲)蓮光寺の覚照司教について宗学を学び、二十三歳以降、豊前今津(現・宇佐市今津)浄光寺の円珠勧学のもとでこれを磨き、二十七歳にして本山の学林に入学した。三十二歳にして天台学を島地黙雷に受けた。元治元年(1864)、四十四歳の圓月は、本願寺の命により長崎に御用講のため出張した。長崎で西洋に接した圓月は、西洋文明に深い関心を持つようになった。布教に際しても、医学や本草学の話を交えて民と密着する態度をとった。帰郷して西光寺に東陽学寮を開いている。彼の学識と医学の知識に惹かれた多くの青年たちは、挙って東陽学寮に入門し、やがて発展して修道院となり、さらに修道会となった。五十四歳で助教、五十七歳にして司教に進んだ。五十九歳のとき、宇島の豪商小今井潤治が私財を投じて開いた真宗学校乗桂校の教授を務めた。明治二十年(1887)、真宗学派の学階は勧学に上り、堂班は上座一等に達した。ときに圓月は七十歳に達し、本山の命により教務に従事すること三十七年に及んだ。七十三歳で西光寺に戻って再び東陽学寮を興して、子弟の育成に努めた。生徒数は数千人に及んだとされる。著書百余部に及び、詩歌や俳句をはじめ、茶道、華道のほか諸技に造詣が深かった。明治三十五年(1902)、年八十二にて入寂。

 

浄満院圓月師頌徳碑

 

 庭園に聳え立つ浄満院圓月師頌徳碑は、龍谷勧学、島地黙雷の撰文。浄満院は圓月の諡。近くで見ることはできないが、圓月の履歴が両側面に刻まれている。

 

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