(曹澤寺)
元治元年(1864)十二月三日、天狗党追討の将として京都を出発し、翌四日には大津で軍議を開いた。天狗党が新保宿に着いた十二月十一日には、湖西を通り湖北の海津願慶寺に約八百の兵とともに宿陣した。慶喜隊は、今津の曹澤寺に宿陣した後、海津に向かった。曹澤寺にはその前日まで軍監永原甚七率いる加賀藩兵七百が宿陣していたが、急遽命令を受けて葉原に向かった直後であった。
曹澤寺
(正行院)
正行院
松平康正、通称松平大弐。文政六年(1823)、加賀金沢藩士松平久兵衛の次子として生まれ、宗家松平康職の跡を継いで禄四千石を受けた。安政三年(1856)、小松城番となり、安政五年(1858)には算用場奉行に転じ、万延元年(1860)、藩主泰斉の世子慶寧の側用人に抜擢され、文久三年(1863)、家老となった。元治元年(1864)、命を受けて京都に駐在し、藩邸事務を統括していたが、慶寧が入京し、長州藩のために周旋するに当たり、常に公武の間を奔走した。禁門の変に際し、慶寧は一部の守備兵を留めて退京したが、松平大弐はその進退の責めを一身に負い、八月十一日、近江海津正行院で自刃した。年四十二。
贈従四位大弐松平君碑
正行院には、本堂左手に松平大弐の顕彰碑があり、墓地には大弐の灰塚がある。
加州松平大貮灰塚
(願慶寺)
一橋慶喜が宿陣した願慶寺である。
願慶寺は、江戸時代以前、伊香郡、敦賀、マキノに二十数カ所の末寺を持ち、加賀、越前の諸侯が上洛の際の宿舎になるほどの名刹であった。
境内には木曽義仲の側室であった山吹御前ゆかりの老紅梅がある。その前には井伊直弼の歌を刻んだ碑がある。
願慶寺
古紅梅
元治元年(1864)十二月三日、天狗党追討の将として京都を出発し、翌四日には大津で軍議を開いた。天狗党が新保宿に着いた十二月十一日には、湖西を通り湖北の海津願慶寺に約八百の兵とともに宿陣した。慶喜隊は、今津の曹澤寺に宿陣した後、海津に向かった。曹澤寺にはその前日まで軍監永原甚七率いる加賀藩兵七百が宿陣していたが、急遽命令を受けて葉原に向かった直後であった。
曹澤寺
(正行院)
正行院
松平康正、通称松平大弐。文政六年(1823)、加賀金沢藩士松平久兵衛の次子として生まれ、宗家松平康職の跡を継いで禄四千石を受けた。安政三年(1856)、小松城番となり、安政五年(1858)には算用場奉行に転じ、万延元年(1860)、藩主泰斉の世子慶寧の側用人に抜擢され、文久三年(1863)、家老となった。元治元年(1864)、命を受けて京都に駐在し、藩邸事務を統括していたが、慶寧が入京し、長州藩のために周旋するに当たり、常に公武の間を奔走した。禁門の変に際し、慶寧は一部の守備兵を留めて退京したが、松平大弐はその進退の責めを一身に負い、八月十一日、近江海津正行院で自刃した。年四十二。
贈従四位大弐松平君碑
正行院には、本堂左手に松平大弐の顕彰碑があり、墓地には大弐の灰塚がある。
加州松平大貮灰塚
(願慶寺)
一橋慶喜が宿陣した願慶寺である。
願慶寺は、江戸時代以前、伊香郡、敦賀、マキノに二十数カ所の末寺を持ち、加賀、越前の諸侯が上洛の際の宿舎になるほどの名刹であった。
境内には木曽義仲の側室であった山吹御前ゆかりの老紅梅がある。その前には井伊直弼の歌を刻んだ碑がある。
願慶寺
古紅梅
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