史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

日田 Ⅱ

2022年07月09日 | 大分県

(西光寺)

 

西光寺

 

 六年振りの日田である。日田市内で最初に訪ねたのが、城町二丁目の西光寺である。ここで長信成の墓を探したが、長姓の墓石すら発見することができなかった。

 長信成は、天保八年(1837)の生まれ。幼時より父の性を継ぎ豪気。広瀬淡窓に学び、傍ら武を修めた。長三洲ら志士と交わり、諸費を給した。慶應元年(1865)、布政所が農兵を募ったので、これに応じ隊長に任じられた。維新後、松方正義が日田県知事になると、日田県更生に任じられ、明治三年(1870)、管内大分郡庄内の一揆を鎮め、ついで下毛郡の暴動を未然に防いだ。しかし、同年十一月十七日、同郡五馬村に起こった暴動では、鎮圧にあたったが、竹槍によって惨殺された。年三十四。

 

(西教寺)

 

西教寺

 

最後の西国筋郡代窪田治部右衛門鎮勝が着任したのは、元治元年(1864)三月のことである。窪田は、肥後藩家老溝口家の家臣江口秀種の子に生まれ、父方の幕臣の斡旋などもあり、旗本窪田家の名跡を継いだ。体格も良く、武術に優れ、特に馬術、槍術に秀でていたという。もともと郡代は自らの軍事力を備えていなかったが、尊攘派から直接襲撃されることも想定される状勢となった。窪田は商人たちから献金を集め、武器を購入するとともに農兵を組織化した。その総数は最大時二千八百に達したという。「制勝組」と名付けられた直轄部隊は慶應二年(1866)の小倉戦争にも出陣した。

西国郡代の天草出張所(陣屋)は、下島の富岡(現・熊本県苓北町)にあった。ここにも制勝組が配備されていたが、慶應三年(1867)十二月六日、つまり京都で王政復古が宣言される直前、花山院隊は富岡陣屋を襲撃し、多額の公金を奪った。この一報が日田の窪田郡代に届いたのは、同年十二月十日頃と推定される。さらに鳥羽伏見で幕府軍が敗れ(窪田の長男泉太郎もこの戦いで戦死している)、それを知った森藩では日田占領を企てるという不穏な動きもあった。そこへ慶應四年(1867)一月、御許山騒動の報が日田に届く。広瀬淡窓の養子広瀬青邨は、窪田郡代にこの地で戦うことの非を説き、窪田はこれに応じて日田を去ることを決意した。同時に制勝組には解散を命じた。

この結果、日田は一時無政府状態になった。まず隣接する森藩が進入し、続いて筑前藩、久留米藩、肥後藩が入り込み、お互いににらみ合い、緊張が高まった。そこへ薩摩藩兵が乗り込み、薩藩の呼びかけで五藩会議が開かれることになった。この時、薩摩藩が滞陣したのが、西教寺や広円寺であった。

 

(広円寺)

 五藩の藩兵がにらみ合う膠着状態はしばらく続いたが、二月二十一日、新政府から岡藩(現・大分県竹田市)と森藩に対して、日田を警備するよう命が届いた。さらに二月二十四日、薩摩藩の園田彦左衛門と久保田新治郎の二人が日田に入った。これ以降、日田を含む九州の旧幕府領の支配に関して、薩摩藩が大きな影響力を行使するようになった。

 

広円寺

 

(傳照寺)

 日田市街地から大山町の傳照寺まで、距離にして約十キロメートルもあり、しかも山道を走らなければならない。かなりの僻地という印象である。

 傳照寺には、文化九年(1812)六月、伊能忠敬の一行九名が九州地踏査の際に、肥後から北上し、日田へ向かう途中、宿泊したことが記録されている。

 

傳照寺

 

伊能忠敬宿泊の家

 

 

(天ケ瀬出口町)

 

伊能忠敬先生宿泊之地

 

 日田市天瀬町出口(いでぐち)の集落に「伊能忠敬先生宿泊之地」碑がある。左側面には「文化九年六月二十八日 出口村庄屋七郎左衛門宅 伊能忠敬先生測量日記に依る」とある。伊能忠敬は肥後から豊後へと測量を続け、文化九年(1812)、この地で宿泊している。

 この石碑を探し当てることができないまま雨が強くなり一旦撤収を余儀なくされた。翌朝、五時半に日田市内を出て、ようやく出会うことができた。

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