史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

浦賀 Ⅴ

2018年03月09日 | 神奈川県
(顕正寺)
 東浦賀の顕正寺は、天正元年(1573)に顕正坊日実大徳が庵を結んだのが創建と伝えられる。本堂右手の墓地に、江戸時代中期の陽明学者中根東里の墓があるほか、咸臨丸艦長春山弁蔵、浦賀奉行所与力岡田井蔵らの墓がある。
 どういう縁だか分からないが、作家にしてエッセイスト山口瞳の墓も同寺にある。


顕正寺


故海軍大尉香山君碑

 本堂参道の右手に香山道太郎(永隆)の顕彰碑がある。香山道太郎は、浦賀奉行所与力香山栄左衛門の子。浦賀明神崎台場の警衛を担当し、長崎海軍伝習所、軍艦操練所での勤務を経て軍艦役並に就任したが、榎本艦隊には従わず、海軍教育のため明治政府に出仕し、明治四年(1871)には海軍大尉へ昇進した。この顕彰碑は、道太郎が病死した直後の明治十三年(1880)に建てられたものである。


岡田井蔵墓

 岡田井蔵は、与力岡田増太郎の子で、万延元年(1860)の咸臨丸の渡米の際にも機関方としてサンフランシスコに渡っている。幕府海軍では軍艦役並勤方・蒸気役一等。榎本艦隊に従軍せず、明治三年(1870)、工部省に出仕して横須賀製鉄所に勤務。造船技師となり海軍省成立義後は主船少師・製図掛主任を務め、明治十五年(1882)に一等師となり、以降は製図掛機械部主任、機械課工場長などを歴任した。墓の側面には業績が刻まれている。


春山弁蔵の墓

 明治元年(1868)八月、榎本艦隊は江戸を出港した。この中に咸臨丸副長春山弁蔵の姿もあった(浦賀奉行所・同心)。しかし、出航三日目、艦隊は台風に襲われ、咸臨丸はマストを切り倒して転覆を逃れたが、走行不能に陥って伊豆下田に漂着。その後、船体を修理するため清水港に向かったが、そこで官軍の軍艦、富士山、飛龍、武蔵と遭遇し、砲撃を受けた。春山らは甲板上で白旗を振ったが、攻撃はやまず、遂には咸臨丸船上での戦いとなり、春山は壮絶な戦死を遂げた。咸臨丸は拿捕され、幕府側の戦死者の遺体は海に投げ捨てられた。この時、清水次郎長が遺体を引き揚げて「壮士墓」を建てて手厚く葬ったことは広く知られる。
 春山弁蔵は、文化十四年(1817)に生まれ、天保六年(1835)に奉行所に出仕し、同心に就いた。安政二年(1855)には長崎海軍伝習所に派遣され、約三年にわたって造船学を修めた。万延元年(1860)には幕府の命を受けて「千代田形」の建造に、構造設計の担当として加わった。我が国、海軍草創期の指折りの造船技術者の一人であっただけにその死は多くの関係者に惜しまれた。


西野前知 田中勝子 墓

 西野前知(さきとも)は、江戸時代の後期から明治にかけて浦賀を中心に三浦半島の歌壇をリードした人物。文政五年(1822)の生まれ。嘉永六年(1853)には、父の後を継いで回船問屋の八代目市郎左衛門を名乗った。維新後は新政府の浦賀役所に出仕した。愛宕山の中島三郎助の招魂碑建立にあたっては、濱口英幹らとともに発起人の一人として名を連ねている。

(寿光院)
 浦賀奉行所跡に近い寿光院は、常福寺の隠居所としての境外仏堂である。墓地には咸臨丸副艦長格としてアメリカに渡った浦賀奉行所与力濱口與右衛門(英幹)の墓がある。


寿光院


海軍少故監従六位勲六等濱口英幹之墓

 濱口與右衛門(英幹)は、浦賀奉行所同心。大番格軍艦役並勤方・軍艦役を務めたが、榎本艦隊には従わず、戊辰戦争後は大蔵省・兵部省に出仕している。明治五年(1872)、海軍省が新設されると同省に配属され、明治九年(1876)から横須賀造船所勤務となり、海軍一等師・海軍少匠師・海軍三等技師として明治海軍の建艦実務を支えた。墓石側面には「月や雪はなを友なるひとり旅」という辞世が刻まれている。

(浦賀燈明堂)


浦賀燈明堂(再建)

 燈明堂は浦賀港の入口にあって、今日の灯台の役割を果たす航路標識施設であった。燈明堂の歴史は古く、慶安元年(1648)、幕府の
命によって築造されたと伝えられる。当初は勘定奉行の所管であったが、後に浦賀奉行に所管替えとなり、明治になって神奈川府の書簡となった。明治五年(1872)四月に廃止となるまで、約二百二十年間にわたって夜間の海上安全の守り役として活躍した。現在、再建されている燈明堂は平成元年(1989)に往時の姿そのままに復元されたものである。


燈明堂

 燈明堂の背後の山には平根山台場が設けられていた。天保八年(1837)、アメリカ商船モリソン号が日本人漂流民を送り届けるために来航した際、最初に砲撃したのが平根山台場であった。


地蔵菩薩蔵供養塔

 燈明堂付近はかつて浦賀奉行所の処刑場だったといわれ、首切場とも呼ばれた。地蔵菩薩は、死者を供養するために天保十一年(1840)に建立されたものである。
 地蔵菩薩の近くの千代岬瘞骨志碑には、千代ヶ崎台場の工事中に出土した人骨を埋骨したこと、その人骨は北条氏と里見氏の合戦による戦死者ではないかと推測していることなどが記されている。


千代岬瘞骨志碑

(千代ケ崎)


千代ケ崎

 幕末、浦賀沿岸には外国船の来航に備えて多くの台場が築造されたが、千代ケ崎台場はその中の一つである。東京湾と思えないほど綺麗な海である。
 ここからトンネルを抜けて久里浜まで歩いた。途中で力尽きて路線バスに乗ったが、浦賀と久里浜は背中合わせで意外と近いということを実感した。

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