(高木家)
中央高速道路の八王子インターを越えて北進したところが、八王子市左入(さにゅう)町である。代々左入村の名主を務める小峰家から、幕末真田範之介(旧名小峰軍司)という一人の志士が出た。
真田範之介は天保六年(1835)の生まれ。初め戸吹村の松崎和多五郎に入門し、その後、下恩方村の山本万次郎のもとで天然理心流の剣術を修めた。続いて北辰一刀流の玄武館で腕を磨いた。ここで水戸藩士らと交友を深め、元治元年(1864)三月の天狗党挙兵に参加した。しかし、天狗党が藩内抗争の様相を呈するようになると、範之介は別行動をとることになり、同志とともに横浜を目指した。しかし、鹿島で幕府軍に敗れ壊滅した。範之助は江戸に潜入したが、新徴組の知るところとなり、同年十月、深川にて襲われて絶命した。
真田範之介誕生の地 天然理心流剣士
高木家之墓
名主小峰家を引き継いだ高木家の庭に「真田範之介誕生の地」と刻んだ石碑が建てられている。
ここから数十メートル南下した住宅街の一角に高木家の個人墓がある。範之介、小峰松之介兄弟の父、墓標によれば小峰久治郎もここに眠っている。しかし、小峰松之介の墓は他所に移されたようである(探しているが、なかなか見つからない)。
斬殺された兄の仇を討とうと、実弟小峰松之介(このとき十五歳)は、新選組が甲陽鎮撫隊と名を変えて勝沼で交戦し、敗れて八王子を通過する機会をとらえて近藤勇を斬ろうとした。ちょうど大和田の渡し(現在は大和田大橋が架けられている辺り)という。しかし、背後から斬りつけた刀は、近藤勇の背中にも届かず、かすり傷さえ負わせることはできなかった。同じ幕府側とはいえ、新徴組と新選組とは別組織であり、近藤にしてみればとんだとばっちりであった。
大和田大橋
(横川家)
横川家
JR西八王子駅から徒歩二十分、バス停横川の直ぐ目の前が横川家である。横川家は千人同心の家系で、今も広大な敷地と風格を伝えている。
幕末、この家から横川左馬太郎(別名勇太郎)という志士が出た。左馬太郎は弘化四年(1847)生まれで、左入村の真田範之介に従って文久三年(1863)秋、尾高新五郎、長七郎兄弟を中心として結成した天朝組に加った。天朝組は高崎城を乗っ取る計画であった。計画は頓挫して未遂に終わっているが、真田範之介、横川左馬太郎は翌年の天狗党挙兵にも参加している。前述のとおり、範之介は江戸で惨殺されたが、左馬之介は範之介の指示で帰郷して難を逃れた。
なお、横川左馬之介の妹楳子は、八王子における女子教育の創始者として名を成し、都立南多摩高校の校庭に胸像が設置されている。
中央高速道路の八王子インターを越えて北進したところが、八王子市左入(さにゅう)町である。代々左入村の名主を務める小峰家から、幕末真田範之介(旧名小峰軍司)という一人の志士が出た。
真田範之介は天保六年(1835)の生まれ。初め戸吹村の松崎和多五郎に入門し、その後、下恩方村の山本万次郎のもとで天然理心流の剣術を修めた。続いて北辰一刀流の玄武館で腕を磨いた。ここで水戸藩士らと交友を深め、元治元年(1864)三月の天狗党挙兵に参加した。しかし、天狗党が藩内抗争の様相を呈するようになると、範之介は別行動をとることになり、同志とともに横浜を目指した。しかし、鹿島で幕府軍に敗れ壊滅した。範之助は江戸に潜入したが、新徴組の知るところとなり、同年十月、深川にて襲われて絶命した。
真田範之介誕生の地 天然理心流剣士
高木家之墓
名主小峰家を引き継いだ高木家の庭に「真田範之介誕生の地」と刻んだ石碑が建てられている。
ここから数十メートル南下した住宅街の一角に高木家の個人墓がある。範之介、小峰松之介兄弟の父、墓標によれば小峰久治郎もここに眠っている。しかし、小峰松之介の墓は他所に移されたようである(探しているが、なかなか見つからない)。
斬殺された兄の仇を討とうと、実弟小峰松之介(このとき十五歳)は、新選組が甲陽鎮撫隊と名を変えて勝沼で交戦し、敗れて八王子を通過する機会をとらえて近藤勇を斬ろうとした。ちょうど大和田の渡し(現在は大和田大橋が架けられている辺り)という。しかし、背後から斬りつけた刀は、近藤勇の背中にも届かず、かすり傷さえ負わせることはできなかった。同じ幕府側とはいえ、新徴組と新選組とは別組織であり、近藤にしてみればとんだとばっちりであった。
大和田大橋
(横川家)
横川家
JR西八王子駅から徒歩二十分、バス停横川の直ぐ目の前が横川家である。横川家は千人同心の家系で、今も広大な敷地と風格を伝えている。
幕末、この家から横川左馬太郎(別名勇太郎)という志士が出た。左馬太郎は弘化四年(1847)生まれで、左入村の真田範之介に従って文久三年(1863)秋、尾高新五郎、長七郎兄弟を中心として結成した天朝組に加った。天朝組は高崎城を乗っ取る計画であった。計画は頓挫して未遂に終わっているが、真田範之介、横川左馬太郎は翌年の天狗党挙兵にも参加している。前述のとおり、範之介は江戸で惨殺されたが、左馬之介は範之介の指示で帰郷して難を逃れた。
なお、横川左馬之介の妹楳子は、八王子における女子教育の創始者として名を成し、都立南多摩高校の校庭に胸像が設置されている。
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