(常磐共有墓地 Ⅴ)
慎亭吉成君墓
吉成(よしなり)又右衛門の墓である。雅号は慎亭。藤田幽谷の門に学び、天保元年(1830)、郡奉行となり、以降十五年にわたり民政に携わった。弘化元年(1844)藩主斉昭の無実を老中牧野忠雅に嘆願して処罰されたが、閑居中に関わらず脱して閣老に上訴して、再び罪を得た。嘉永二年(1849)許されたが、翌年、年五十四で病死。二男恒次郎も国事に奔走している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/ac/9a84f6d716216f4a39f93208d82a9394.jpg)
左一郎宮本先生墓
宮本左一郎は農家に生まれたが、農家を嫌って江戸の岡田十松に入門。武者修行のため諸国を遊歴したのち、水戸に戻って道場を構えた。藤田幽谷らの支援を得て、神道無念流を水戸に根付かせた。天保九年(1838)六十一歳で死去。
留次郎斎藤君墓
斎藤留次郎は、安政五年(1858)に斉昭が処罰されると、雪冤運動に加わった。同年、勅書問題が起き、万延元年(1860)藩論が勅書返納に決すると、勅書の通過を阻止するため、一通の書を認めて城中大広間廊下にて割腹した。年三十二。
新左衛門山中君墓
山中新左衛門は文政元年(1818)に生まれ、天保九年(1839)床几廻に選ばれた。以降、矢倉奉行を経て小姓頭取に進んだ。安政六年(1859)宍戸藩主松平頼徳附属となる。元治元年(1864)、天狗党の騒乱を鎮定するため頼徳とともに水戸に下向したが、入城を阻止されて那珂湊に拠り、新左衛門は事情陳述のため頼徳の書を奉じて城中に達した。しかし、そのまま拘束されて獄に投じられ、死罪に処された。年四十七。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/2d/21084cf9bed41a5be6fea6dc3f0f67e9.jpg)
中陵佐藤先生之墓
佐藤中陵は宝暦十二年(1862)江戸に生まれた。本草学者として水戸藩に招かれ、弘道館教授となった。その間、斉昭の命により「山海庶品」を編纂した。嘉永元年(1848)、死去。佐藤松渓は、中陵の養子である。
松渓佐藤先生墓
従六位野邨鼎實(彜之介)墓
野村彜之介(つねのすけ)は、文政七年(1824)水戸に生まれた。郡奉行、奥右筆頭取、大目付、側用人等の要職に任じられ、天保の藩政改革を補佐して功があった。安政六年(1859)、高橋多一郎とともに薩摩の高崎五六を水戸に迎え、水薩提携の挙兵を合議した。安政の大獄が起きると、金子孫二郎とともに閉居に処された。しかし、桜田門外の変の直前に脱藩して江戸に潜伏。変ののち関鉄之助とともに大阪に入ったが、同志は四散してしまい、彜之介はやむなく水戸に戻った。元治甲子の乱では、上京して鎮撫に尽くした。戊辰戦争では、市川三左衛門らを追討し、継いで奥羽征討にも参加した。のち、水戸藩参事、廃藩後は茨城県典事となった。晩年は常盤神社宮司を務めた。明治二十一年(1888)年六十五で病死。
森五六郎直長 森半蔵長昌 墓
森半蔵、五六郎兄弟の墓である。
兄、半蔵は文政九年(1826)に生まれた。嘉永六年(1853)浪人となって、文久元年(1861)有賀半弥とともに東禅寺のイギリス公使館襲撃を企て、斬り込みをかけたが果たせず。前木新八郎とともに領内に潜伏したが、同年八月、捕吏に探知され自刃した。年三十六。
弟、森五六郎は天保九年(1838)の生まれ。桜田十八士の一人。安政六年(1859)、勅書返納問題のときには長岡駅に屯集して阻止を図った。桜田門外の変では傷を負って、大関和七郎とともに熊本藩邸に自訴。文久元年(1861)七月、死罪に処された。年二十四。
松岡豊田彦次郎墓
豊田彦次郎は雅号を松岡または晩翠。文化二年(1805)に久慈郡賀美村に生まれた。豊田小太郎(香窓)は長男。藤田幽谷の門に学び、東湖とともに博覧強記で知られた。国史志表編集頭取の職にあったが、弘化元年(1844)藩主斉昭の無実を閣老に上呈したことが忌避に触れ、五年の禁固に処された。嘉永六年(1853)赦され復職すると、ロシア、蝦夷の取調を命じられた。安政五年(1858)の勅書問題では勅書奉戴の意見を支持したが、薩摩藩と提携して大老を襲撃する計画には自重論を説いた。元治元年(1865)正月、死去。年六十。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/f0/456c6fe27f115b873f21239f9f1eeb2b.jpg)
慎亭吉成君墓
吉成(よしなり)又右衛門の墓である。雅号は慎亭。藤田幽谷の門に学び、天保元年(1830)、郡奉行となり、以降十五年にわたり民政に携わった。弘化元年(1844)藩主斉昭の無実を老中牧野忠雅に嘆願して処罰されたが、閑居中に関わらず脱して閣老に上訴して、再び罪を得た。嘉永二年(1849)許されたが、翌年、年五十四で病死。二男恒次郎も国事に奔走している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/ac/9a84f6d716216f4a39f93208d82a9394.jpg)
左一郎宮本先生墓
宮本左一郎は農家に生まれたが、農家を嫌って江戸の岡田十松に入門。武者修行のため諸国を遊歴したのち、水戸に戻って道場を構えた。藤田幽谷らの支援を得て、神道無念流を水戸に根付かせた。天保九年(1838)六十一歳で死去。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/06/2e/d479dbf7c376088c4da1739efb4189d5.jpg)
留次郎斎藤君墓
斎藤留次郎は、安政五年(1858)に斉昭が処罰されると、雪冤運動に加わった。同年、勅書問題が起き、万延元年(1860)藩論が勅書返納に決すると、勅書の通過を阻止するため、一通の書を認めて城中大広間廊下にて割腹した。年三十二。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/ee/e479a467c5ab24fe0e317ffd60c097d2.jpg)
新左衛門山中君墓
山中新左衛門は文政元年(1818)に生まれ、天保九年(1839)床几廻に選ばれた。以降、矢倉奉行を経て小姓頭取に進んだ。安政六年(1859)宍戸藩主松平頼徳附属となる。元治元年(1864)、天狗党の騒乱を鎮定するため頼徳とともに水戸に下向したが、入城を阻止されて那珂湊に拠り、新左衛門は事情陳述のため頼徳の書を奉じて城中に達した。しかし、そのまま拘束されて獄に投じられ、死罪に処された。年四十七。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/2d/21084cf9bed41a5be6fea6dc3f0f67e9.jpg)
中陵佐藤先生之墓
佐藤中陵は宝暦十二年(1862)江戸に生まれた。本草学者として水戸藩に招かれ、弘道館教授となった。その間、斉昭の命により「山海庶品」を編纂した。嘉永元年(1848)、死去。佐藤松渓は、中陵の養子である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/c7/1639033ee425a5410098c2b433638c16.jpg)
松渓佐藤先生墓
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/ab/7939d5c3988406db6d357845cf2575dc.jpg)
従六位野邨鼎實(彜之介)墓
野村彜之介(つねのすけ)は、文政七年(1824)水戸に生まれた。郡奉行、奥右筆頭取、大目付、側用人等の要職に任じられ、天保の藩政改革を補佐して功があった。安政六年(1859)、高橋多一郎とともに薩摩の高崎五六を水戸に迎え、水薩提携の挙兵を合議した。安政の大獄が起きると、金子孫二郎とともに閉居に処された。しかし、桜田門外の変の直前に脱藩して江戸に潜伏。変ののち関鉄之助とともに大阪に入ったが、同志は四散してしまい、彜之介はやむなく水戸に戻った。元治甲子の乱では、上京して鎮撫に尽くした。戊辰戦争では、市川三左衛門らを追討し、継いで奥羽征討にも参加した。のち、水戸藩参事、廃藩後は茨城県典事となった。晩年は常盤神社宮司を務めた。明治二十一年(1888)年六十五で病死。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/33/def5621911aab352b8dc67d5ed1f1a6e.jpg)
森五六郎直長 森半蔵長昌 墓
森半蔵、五六郎兄弟の墓である。
兄、半蔵は文政九年(1826)に生まれた。嘉永六年(1853)浪人となって、文久元年(1861)有賀半弥とともに東禅寺のイギリス公使館襲撃を企て、斬り込みをかけたが果たせず。前木新八郎とともに領内に潜伏したが、同年八月、捕吏に探知され自刃した。年三十六。
弟、森五六郎は天保九年(1838)の生まれ。桜田十八士の一人。安政六年(1859)、勅書返納問題のときには長岡駅に屯集して阻止を図った。桜田門外の変では傷を負って、大関和七郎とともに熊本藩邸に自訴。文久元年(1861)七月、死罪に処された。年二十四。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/11/e212649ef7fafaedc8ac7f032fac4d01.jpg)
松岡豊田彦次郎墓
豊田彦次郎は雅号を松岡または晩翠。文化二年(1805)に久慈郡賀美村に生まれた。豊田小太郎(香窓)は長男。藤田幽谷の門に学び、東湖とともに博覧強記で知られた。国史志表編集頭取の職にあったが、弘化元年(1844)藩主斉昭の無実を閣老に上呈したことが忌避に触れ、五年の禁固に処された。嘉永六年(1853)赦され復職すると、ロシア、蝦夷の取調を命じられた。安政五年(1858)の勅書問題では勅書奉戴の意見を支持したが、薩摩藩と提携して大老を襲撃する計画には自重論を説いた。元治元年(1865)正月、死去。年六十。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます