(鎌倉霊園)
春風に誘われるように鎌倉を訪ねた。鎌倉駅周辺は観光客でごった返していたが、駅を降りるとすぐにバスに乗って鎌倉霊園に向かう。約二十分で正門前である。昭和四十年(1965)に開園された鎌倉霊園は、五万五千㎡(約十六・七万坪)という広大な敷地を誇っている。小高い場所から見下ろすと、その広さを実感することができる。山本周五郎や子母澤寛といった有名な作家が眠る。
秋山家(秋山真之の墓)
「坂の上の雲」の主人公、秋山真之の墓である。もとは青山霊園にあったが、この地に移設されたものである。墓石の裏に「秋山真之 大正七年二月四日 行年五十一才」と刻まれている。
秋山真之は、慶応四年(1868)松山城下に生まれた。明治二十三年(1890)海軍兵学校を首席で卒業し、日清戦争にも従軍した。明治三十一年(1898)、アメリカに留学し、そのときアメリカ軍が実行したサンチャゴ港閉塞作戦を見学した。この時の経験がのちの旅順港閉塞作戦に活かされたといわれる。日露戦争では、連合艦隊司令長官東郷平八郎のもとで作戦参謀として旗艦「三笠」に搭乗し、日本海海戦における勝利に貢献した。大正七年(1918)、療養先の小田原対潮閣にて死去。【十七区九側】
山本周五郎墓
山本周五郎は本名清水三十六(みとむ)といい、山梨県都留郡初狩村の出身。小学校卒業後、質店に丁稚奉公し、新聞・雑誌記者などを経て作家となった。昭和十八年(1943)には連作『日本婦道記』で直木賞に選出されたが辞退。昭和三十三年(1958)に発表した『樅の木は残った』でその名を不動のものとした。昭和四十二年(1967)、病死。享年六十三。【二十九区四側】
梅谷家之墓(子母澤寛の墓)
子母澤寛の墓である。墓石には本姓である梅谷家と刻まれている。子母澤寛は、本名梅谷松太郎といった。北海道石狩郡の出身。大正七年(1918)、読売新聞社に入社。のち東京日日新聞に移った。記者の傍ら、古老の聞き書きを集め、昭和三年(1928)、『新選組始末記』を発表。以後、次々と歴史小説を発表し、人気を博した。随筆の名手としても知られる。昭和四十三年(1968)、死去。七十六歳。【四区五側】
足立家之墓
足立林太郎の墓は、広大な鎌倉霊園の敷地の中でももっとも奥の三十五区に在る。傍らの墓標に「正七位 足立民治 大正八年八月十六日没 行年七十三才」とあるのが、足立林太郎である。
足立林太郎は慶応三年(1867)六月以降に新選組に入隊し、翌年一月に鳥羽・伏見の戦いにも参加したが、そこで負傷。江戸帰還後に脱走した。維新後は開拓使、札幌区会議員などを勤めた。【三十五区三側】
春風に誘われるように鎌倉を訪ねた。鎌倉駅周辺は観光客でごった返していたが、駅を降りるとすぐにバスに乗って鎌倉霊園に向かう。約二十分で正門前である。昭和四十年(1965)に開園された鎌倉霊園は、五万五千㎡(約十六・七万坪)という広大な敷地を誇っている。小高い場所から見下ろすと、その広さを実感することができる。山本周五郎や子母澤寛といった有名な作家が眠る。
秋山家(秋山真之の墓)
「坂の上の雲」の主人公、秋山真之の墓である。もとは青山霊園にあったが、この地に移設されたものである。墓石の裏に「秋山真之 大正七年二月四日 行年五十一才」と刻まれている。
秋山真之は、慶応四年(1868)松山城下に生まれた。明治二十三年(1890)海軍兵学校を首席で卒業し、日清戦争にも従軍した。明治三十一年(1898)、アメリカに留学し、そのときアメリカ軍が実行したサンチャゴ港閉塞作戦を見学した。この時の経験がのちの旅順港閉塞作戦に活かされたといわれる。日露戦争では、連合艦隊司令長官東郷平八郎のもとで作戦参謀として旗艦「三笠」に搭乗し、日本海海戦における勝利に貢献した。大正七年(1918)、療養先の小田原対潮閣にて死去。【十七区九側】
山本周五郎墓
山本周五郎は本名清水三十六(みとむ)といい、山梨県都留郡初狩村の出身。小学校卒業後、質店に丁稚奉公し、新聞・雑誌記者などを経て作家となった。昭和十八年(1943)には連作『日本婦道記』で直木賞に選出されたが辞退。昭和三十三年(1958)に発表した『樅の木は残った』でその名を不動のものとした。昭和四十二年(1967)、病死。享年六十三。【二十九区四側】
梅谷家之墓(子母澤寛の墓)
子母澤寛の墓である。墓石には本姓である梅谷家と刻まれている。子母澤寛は、本名梅谷松太郎といった。北海道石狩郡の出身。大正七年(1918)、読売新聞社に入社。のち東京日日新聞に移った。記者の傍ら、古老の聞き書きを集め、昭和三年(1928)、『新選組始末記』を発表。以後、次々と歴史小説を発表し、人気を博した。随筆の名手としても知られる。昭和四十三年(1968)、死去。七十六歳。【四区五側】
足立家之墓
足立林太郎の墓は、広大な鎌倉霊園の敷地の中でももっとも奥の三十五区に在る。傍らの墓標に「正七位 足立民治 大正八年八月十六日没 行年七十三才」とあるのが、足立林太郎である。
足立林太郎は慶応三年(1867)六月以降に新選組に入隊し、翌年一月に鳥羽・伏見の戦いにも参加したが、そこで負傷。江戸帰還後に脱走した。維新後は開拓使、札幌区会議員などを勤めた。【三十五区三側】
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