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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

土居 Ⅱ

2022年07月02日 | 愛媛県

(暁雨館)

 暁雨館は、入野村の庄屋第十代当主山中時風が自らの住居に名付けた住居号である。寛政七年(1795)には、伊予を訪ねた小林一茶も暁雨館に立ち寄ったと記録されている。

 伊予土居は、寛政の三博士と称された尾藤二洲に学んだ近藤篤山が生まれた場所である。近藤篤山は「伊予聖人」と称された儒者、教育者であるが、その門下から尾埼星山(山人)が生まれ、星山は私塾松菊者を開いて、この地で多くの人材を育てた。星山の門下に合田福太郎や安藤正楽がいる。合田福太郎は中央政界で活躍し、郷土の発展にも尽くした政治家である。安藤正楽は非戦・反差別を主張した政治家であり、思想家でもある。

 暁雨館における展示を見ていると、尾藤二洲以来の思想・学問の流れが脈々と受け継がれたことを理解することができる。

 

暁雨館

 

暁雨館の展示

 

暁雨館の庭園

 

 暁雨館の庭園は、庄屋山中家の築造したものがそのまま受け継がれている。庭は枯山水式の庭園で、多くの飛び石が配され、五葉松をはじめ赤松、シラカシ、イヌマキといった古木が見事である。

 

(井守神社)

 

井守神社

 

日清戦争記念碑

 

 井守神社境内の日清戦争記念碑は、尾埼星山の筆。どういう文字で、何が書かれているのかよく分からない。

 尾埼星山は勤王の志厚い人で、文久三年(1863)、生野の変に敗れて四国に逃れた澤宣嘉を匿い、のちに長州に送り届けた。明治元年(1868)には西条藩学教授となり、学頭に進み、兼ねて藩政参与となり権少参事、文武館総督となったが、明治四年(1871)退官。爾来、私塾を開いて地方青少年の教育に努めた。明治三十六年(1903)、年七十八で没。

 

 

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豊浜

2022年07月02日 | 香川県

(豊浜墓地公園)

 

大平正芳之墓

 

 予報とおり、この日は朝から猛烈な雨だった。豊浜駅から豊浜墓地公園まで凡そ2キロメートルの道のりであるが、ずっと傘をさして歩いた。

 豊浜墓地公園は、豊浜町出身で総理大臣を勤めた大平正芳の出身地である。墓地公園入口には、大平正芳の墓が建てられている。

 私の目的は、大平元首相ではなく、幕末この地から出て尊攘派として活躍した高村大平の墓である。見渡す限り墓石の広がるこの場所で(しかもその多くは合田姓の墓)、目当ての墓を探し当てるのは相当な難度である。雨の中を三十分ほど歩き回ってようやく高村大平の墓を見つけることができた。

 

高村大平橘正容墓

 

 高村太平(たかむらたいへい)は、文化十一年(1814)の生まれ。諱は正容。太平は通称。雅号は小隠と称した。少壮、彫刻を業としてその技に長じ、その作品を藩主京極候に献じて妙技を嘉賞され、小隠の号を賜り、苗字帯刀を赦された。傍ら文墨を弄し、知名の士と交わった。安政元年(1854)、尊攘論が勃興すると、日柳燕石、美馬援造、植田有年らと気脈を通じ、国事に奔走した。文久三年(1863)、澤宜嘉が但馬生野に挙兵して敗れ、伊予西条藩領新居郡垣生村医三木左三の家に匿るるや、赴いて面接して謀議をした。慶應元年(1865)元年五月、日柳、美馬らが幕命により高松藩に捕らえられると、身の危険を察し、二男一朗を伴って国を脱し、微行奔走して情勢を視察、これを長州藩御楯隊に報告、同年十二月、長州に赴いて毛利敬親父子に謁して積日の功を賞された。慶應三年(1867)十二月、王政復古が号されると、慶応四年(1868)、澤卿の募兵の命に応じ、同志を募って京都に派遣し、西園寺公望の出陣に際しても同志を従行させた。積年国事に奔走して、家産を蕩尽したが、なお細民の救済に心を用いた。明治五年(1872)五月、香川県豊田郡第八十五区副戸長、明治八年(1875)三月、名東県第二十四大区四十区戸長に任じられ、民治に尽力した。明治十年(1877)、年六十四で没。

 

(豊浜八幡神社)

 

豊浜八幡神社

 

金貮萬圓 大平正芳

 

大平正芳先生

 

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