史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

大洲 Ⅲ

2022年01月22日 | 愛媛県

(寿永寺つづき)

 

大洲藩故大参事源朝臣山本尚徳之墓

 

 山本尚徳の墓も、寿永寺の裏山にある。見つけた時はちょっとした感動であったが、後から思えばこれは序の口であった。この後、前回(十七年前)に果たせなかった国島六左衛門の墓を探して寿永寺の裏山を歩き回った。ほとんど道らしい道はなく、少し歩けば蜘蛛の巣が顔面を襲い、全身汗でびっしょりとなりながら一時間ほど山中を彷徨した。どこをどう歩いたのか分からないが、気が付けば大禅寺の墓地に出てしまった。結局、国島六左衛門の墓には出会うことができないまま、十七年ぶり二度目の撤収となった。

 

(曹渓院)

 

曹渓院

 

 大洲藩主加藤家の墓所は、龍護山曹渓院と如法寺に分かれている。曹渓院は、藩祖加藤光泰の菩提を弔うために初代藩主貞泰によって創建されて寺院で、以後、六代泰衑(やすみち)、八代泰行、十代泰済、十一代泰幹、十三代泰秋の七名が祀られている。

 

加藤光泰霊廟並びに大洲藩加藤家墓所

 

 奥の藩祖加藤光泰の廟所は、覆屋が朱色に塗られており、他の藩主と区別されている。

 十三代泰秋の墓は、その光泰の霊廟に隣接している。加藤泰秋は、弘化三年(1846)、十一代藩主泰幹(やすとも)の子に生まれた。元治元年(1864)十一月、兄泰祉(やすとみ)の急逝を受けて、十九歳で襲封。幕末多難の藩政に当たった。慶應三年(1867)、摂津西宮を警備し、慶應四年(1868)、大阪親征のときは先鋒供奉に当たった。ついで甲府警備につき、奥羽征討にも藩兵を送って功があった。戦後、慰労金二千円を賜った。同年九月、明治天皇東幸の際には藩兵二百を率いて供奉、護衛に当たった。明治二年(1869)、藩学制を改正して、錦絅舎(卒学校)と明倫堂(藩士学校)を合併し、平民の入学も許した。大洲藩知事となったが、明治四年(1871)六月、廃藩により退官した。大正十五年(1926)、年八十一にて没。

 

少年中江藤樹当山天梁に学ぶ

 

 曹渓院境内に「少年中江藤樹当山天梁に学ぶ」と記された石碑がたっている。十歳で大洲に移住した藤樹は、元和七年(1621)、十四歳のとき、曹渓院天梁和尚に書道や漢詩を学んだ。

 

(如法寺)

 

如法寺

 

 大洲藩主加藤家のもう一つの菩提寺である如法寺は、曹渓院が大洲市街地に位置しているのに対し、市街から離れた山の中にある。如法寺は、二代藩主加藤泰興が寛文九年(1669)に最興した寺院で、山内には二代泰興のほか、三代泰恒、四代泰統(やすむね)、五代泰温(やすあつ)、七代泰武、九代泰候(やすとき)、十二代泰祉(やすとみ)の七名が祀られている。

 

洪徳院殿仁岳宗温大居士

(加藤泰祉(やすとみ)の墓)

 

 泰祉の墓は雑草に被われ、ほとんど手入れがされていない。仮にも市指定の史跡とされている藩主の墓所であるし、もう少し保存には気を使って欲しいものである。

 泰祉は、天保十五年(1844)、十一代藩主加藤泰幹の三男として大洲に生まれ、嘉永六年(1853)、十歳で家督を相続した。農業に必要となる資金を調達するための基金制度を整備し、その基金の利子を活用して村々へ融資を行う勧農銀制度を発足させるなど農業振興のほか、連年の災害や不作によって困窮した村を救済するために郡中港波止場(現・伊予市)の砂堀工事などの公共事業を行い、困窮者の救済に努めた。朝廷を尊び、尊王攘夷を掲げた泰祉は、元治元年(1864)、宮廷守衛や勤王活動の功から歴代大洲藩主の中で唯一従四位下に叙されたが、同年大洲において二十一歳で没した。

 

(法眼寺)

 新谷の法眼寺は、新谷藩主加藤家の墓所である。山内には六代加藤泰賢(やすまさ)の墓所のほか、中江藤樹の門人で、邸内に祠堂を建てるなどして藤樹を崇敬した新谷藩家老徳田季一、寄一、寄隆の墓もある。

 

日蓮宗普妙山 法眼寺

 

正七位香渡晋奥城

 

 本堂のすぐ近くに香渡晋(こうどすすむ)の墓がある。

 香渡晋は天保元年(1830)の生まれ。安政五年(1858)、江戸に出て藤森天山、大橋訥庵らに師事して尊攘思想を抱き、文久二年(1862)、上京以来、実践的運動に乗り出し、志士たちと交わり、ついで高松保実を介して三条実美以下の諸卿と結んで活躍した。維新後、新谷藩大参事となり藩政に当たった。明治七年(1874)、岩倉具視の招きに応じて上京し、その顧問となって補佐し、伊藤博文ら明治政府首脳と交わり、新政の展開に陰の力となった。のち欽定憲法草案を岩倉に提出し、明治憲法制定に一役を演じた。明治三十五年(1902)、年七十三で没。

 

(興覚寺)

 大洲市八多喜の興覚寺は、大村益次郎暗殺の黒幕と疑われた巣内(すのうち)式部が帰郷して謹慎した寺である。巣内式部は謹慎中興覚寺にて五十五歳で没した。式部の墓も本堂裏手の墓地にある。参道入口には、「巣内式部信善先生墓参道」「巣内式部幽居地並墓」と記された日本の石碑が立っている。

 

興覚寺

 

巣内式部信善先生墓参道

巣内式部幽居地並墓

 

巣内式部先生頌徳碑

 

贈従五位巣内式部墓

 

 巣内式部は、文政元年(1818)、大洲の町人松井八郎兵衛の子に生まれた。長じて須内宇兵衛の養子となった。大洲の国学者常磐井厳戈について尊王思想を身に付け、万延元年(1860)、四十三歳のとき上京し、公卿の高松、西四辻家に仕え、その間、在京の志士たちと交わった。元治元年(1864)、長州在の七卿との連絡、中国諸藩の勤王勧請等の要務を帯びて西国に密行したが、そのために慶應元年(1865)から三カ年京都守護職に禁獄された。王政復古後釈放されると、近江国での挙兵に参加し、やがて第二親兵隊の取締となって、北越方面に転戦し功があった。明治二年(1869)九月、大村益次郎が暗殺されると、下手人処刑後の首級埋葬方を申し出てそのため嫌疑を受けて、翌三年(1870)六月、帰郷して禁固され、興覚寺にて没した。

 

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城川 Ⅱ

2022年01月22日 | 愛媛県

(古市公民館)

 西予市城川町古市は、市村敏麿を生んだ街である。古市公民館の前に「市村敏麿生誕之地」と刻んだ石碑が建てられている。

 市村敏麿は、天保十年(1839)、この地に生まれた。父は古市村庄屋市村芝治左衛門。土佐街道の要地に育った関係で、土佐藩浪士西春松に師事し、同藩の吉村寅太郎、那須信吾らと交友があった。文久三年(1863)、庄屋役を売って脱藩し、長州三田尻の忠勇隊に通じた。慶應年間、伊達宗城の人材登用に応じ、機密掛、時勢見聞方として、長州再征の動きの中で松山藩の動静を探索した。のち宇和島藩庁の役人となり、明治三年(1870)の野村農民騒動に当たっては、首謀者の説得を命じられた。明治十年(1877)以降は、南予農民の無役地事件を闘った。大正七年(1918)、年八十で没。宇和島駅近くの龍光院に墓があるらしいが、見逃してしまった。次回、宇和島を訪ねるときには探してみたい。

 

古市公民館

 

維新の先覚 市村敏麿誕生之地

 

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宇和島 Ⅳ

2022年01月22日 | 愛媛県

(大超寺つづき)

 本堂前には宇和島市教育委員会が昭和三十五年に建てた「末広鉄腸の墓」碑もある。

 

末広鉄腸の墓

 

伊能八代永憲夫婦之墓

(伊能友鷗(吉見左膳)の墓)

 

 伊能友鷗は文化十四年(1817)の生まれ。宇和島藩参政中井筑後の弟で、のち吉見長左衛門の養子となり、安政六年(1859)までは吉見左膳、あるいは吉見長左衛門と称した。友鷗は隠居後の雅号である。天保十二年(1841)、伊達宗紀の近習となり、天保十四年(1843)には目付兼軍使として藩政改革に当たった。弘化元年(1844)、伊達宗城襲封後、その信任を受け、側近として藩政の枢機に当り、安政三年(1856)、参政として財政整理、海防強化に努めた。安政五年(1858)、出府して、一橋派の立場に立つ宗城の片腕として活躍したため、翌年重追放処分を受けて帰国した。以後、宗城は「伊達家忠能之臣」を意味する「伊能」と改姓させた。明治元年(1868)、執政となり、明治三年(1870)、引退。幕末維新期の宇和島藩政の中心人物であった。明治八年(1875)、年五十九で没。

 

 墓地の一番奥まった場所に山村家の墓がある。山村家は、高野長英や大村益次郎に学んだ大野昌三郎の家系を継ぐ家である。

 

山村累代之墓(大野昌三郎の末裔の墓)

 

 大野昌三郎は、嘉永年間、来藩した高野長英に蘭学を学び、シーボルト、楠本イネとも昵懇の仲であった。嘉永六年(1853)には、長州の大村益次郎が来宇し、宇和島在住中、世話をした。明治十三年(1880)、没。大野昌三郎の長男が山村姓を名乗り、以来山村姓を引き継いでいる。

 

(選仏寺)

 

選仏寺

 

振洋上甲先生墓

 

 選仏寺は宇和島市内の山の斜面に立っている。墓地からは宇和島城や市内を見渡すことができる。斜面にある墓地の一番高いところに上甲振洋の墓がある。

 上甲振洋は、文化十四年(1817)の生まれ。天保九年(1838)からその翌年まで伊予小松藩儒近藤篤山に学び、天保十一年(1840)から弘化元年(1844)まで江戸昌平黌にて朱子学を研鑽。弘化三年(1846)帰郷し、宇和島藩儒に任命され、やがて藩校明倫館の督学として藩士教育に尽力した。安政元年(1854)、辞職。藩領八幡浜、横浦で私塾青石洞書院を開いて三千人の門弟に朱子学を教授した。明治初年、藩学制の改正に当り、藩学の教頭となったが、間もなく辞職した。以後、再び八幡浜で私塾を開いて地方育英事業に専念した。明治二十一年(1888)、年六十二で没。

 

選仏寺墓地から宇和島城を臨む

 

(大隆寺)

 大隆寺は、宇和島藩主伊達家の墓所で、初代藩主伊達秀宗の夫人亀の墓のほか、五代村候(むらとき)、七代宗紀(むねただ)、九代宗徳(むねえ)らの墓がある。

 

大隆寺

 

正二位侯爵伊達宗徳墓

 

 九代藩主伊達宗徳は、天保元年(1830)の生まれ。父は、七代藩主伊達宗紀。宗城の弟である。天保八年(1837)、伊達宗城の養嗣子となり、安政五年(1858)、宗城の隠居により襲封し、遠江守となった。幕末維新期、宗城が国事に奔走することができたのは、宗徳の藩治が前二代の間に育成された側近上士層補佐のもとに、軍事・生産・教育の各方面にわたって強力に推進されていたことによる。特に富国強兵策を打ち出した慶應の藩政改革、明治二年(1869)から三年(1870)の藩制改革は注目される。明治二年(1869)、藩知事に任命されたが、廃藩置県により免官。明治三十九年(1906)、年七十七で没。

 

伊達正宗長子秀宗十七世

正二位藤原朝臣宗紀墓

 

 伊達宗紀は、寛政四年(1792)の生まれ。父は、六代藩主伊達村寿(むらなが)。文政七年(1824)、襲封すると、人材を登用し藩主権力を強化した上、藩政改革に着手した。文政八年(1825)以降の厳略、質素倹約、文武の奨励、さらに文政十二年(1829)、大阪商人からの負債の無利息二百ヵ年賦償還、民間の貸借の引き捨て、天保六年(1835)の融通会所の設置、天保十一年(1840)以降の内扮検地実施、農村再建のための救恤策、灌漑施設の整備など、矢継ぎ早の富国策は成功して、藩庫は充実し、幕末宇和島藩活動の基礎を作った。弘化元年(1844)致仕。長生し明治二十二年(1889)、年九十八で没。

 

靖簡院殿悠翁三楽居士(松根図書の墓)

 

 伊達家の墓所に至る途中に松根家の墓所がある。同じ墓所に俳人松根東洋城の墓もある。松根図書は、文政三年(1820)の生まれ。宇和島藩主伊達宗城を補佐画策し、藩内きっての有能な人物として信頼された。嘉永四年(1851)九月、家督を継ぎ、財政・民政をつかさどる家老として、慶応三年(1868)三月、退隠するまで、海産物、蝋、茶などの生産増強、専売制の強化を図るとともに、藩内商人に長崎貿易を経営させるなど富国策をとった。また高野長英、大村益次郎らを招いて、西洋兵学の教授、洋式砲台の建設に当たらせるなど強兵策を推進した。慶應元年(1865)~慶應二年(1866)、イギリス公使パークスが来藩して、宗城らと会談したのも松根図書の画策によるもので、幕末維新の際の宇和島藩活動の源泉を涵養する上で功があった。明治二十七年(1894)、年七十五で没。

 

 大隆寺は伊達家の菩提寺であるとともに松根家ゆかりの寺でもある。境内には松根首塚がある。豪勇で知られた松根家の先祖松根新八郞が諸国を修行中、侍の幽霊から頼まれ、仇討ちの助力をしてやった。その礼にと数日後、幽霊が血の滴る生首を置いて消えた。松根家ではこれを邸内の竹薮に懇ろに葬った。以来、生首を家の旗印として、兜の前立ての飾りにもした。この生首は大隆寺に移され、松根首塚として供養が続けられている。

 

松根首塚

 

韜谷大和尚塔

 

 韜谷(とうこく)和尚は、文化九年(182)の生まれ。父は高松藩士小西七兵衛。幼少のころから仏門に入り、武蔵国宝林寺で伽陵老師について修行。天保六年(1835)、宇和島大隆寺で晦巌和尚の許に入門した。安政二年(1855)、晦巌和尚隠居に当たって、首座高弟であった韜谷は、その跡を継いで第六代住職となり、師が幕末伊達宗城の命を受けて国事に奔走している間、内外これを補佐して遺憾のないようにした。博学多才にして書芸にも通じた傑僧であった。明治十九年(1886)、年七十五で没。歴代住職の墓地の中に墓がある。

 

(仏海寺)

 富沢礼中の墓を探して、仏海寺の墓地を歩いたが、富沢姓の墓石すら発見できない。ほとんど諦めかけたその時、本堂のすぐ裏、墓地の入口付近に富沢礼中、賀古朴庵らの事績を紹介する説明板を発見した。富沢礼中、賀古朴庵の墓は、この説明板のすぐ横に集められている。どうしてこれを見逃してしまったのだろう。

 

仏海寺

 

五世賀古朴庵知質(ちかただ)墓

 

 賀古朴庵は、文政元年(1818)の生まれ。諱は知質、通称は宣春、朴庵と号した。弘化三年(1846)、家督を十五人分薬種料十俵にて相続し、藩医となった。嘉永三年(1850)、江戸で大槻俊斎の門に入り、蘭学を学んだ。嘉永五年(1852)、宇和島城下に種痘所が設立され、富沢礼中、砂沢杏雲が主任となり、さらに嘉永六年(1853)には賀古朴庵、谷快堂が追加されて協力した。朴庵は幕末、宇和島で初めて飛行機を考えた人としても知られる。安政六年(1859)、没。

 

清観院竹簷幻露居士(富沢礼中の墓)

 

 富沢礼中は、文化九年(1812)の生まれ。宇和島藩医の家に生まれた。天保四年(1833)、江戸で医学を修業。弘化三年(1846)、藩主伊達宗城の命により蘭医伊東玄朴に入門。療治方格別上達を賞与された。嘉永元年(1848)、藩主の命を受け、高野長英を宇和島に伴い、藩の蘭学振興策を助けた。嘉永二年(1849)には玄朴より中痘痂、種痘針を贈与され、種痘経過について教示された。これに力を得て、同志と協力して、城下に種痘所を設立して診療に努めた。以後、宇和島領民を天然痘から解放した功績は大きい。嘉永六年(1853)、大村益次郎が来宇した際、弟子二人を入門させ、自らも安政二年(1855)、子の松庵を同伴して江戸に再遊学した。明治六年(1873)、年六十二で没。

 

(泰平寺)

 泰平寺には都築温、得能亜斯登という幕末維新期の宇和島藩を代表する二人の藩士の墓がある。

 

泰平寺

 

贈従五位鶴洲都築先生之墓

 

 都築温(あつし)は、弘化二年(1845)の生まれ。父は宇和島藩士末廣雙竹。のち都築燧洋の養子となった。雅号は鶴洲。藩校明倫館に学び、元治元年(1864)、周旋方見習となり、京阪に赴いた。翌慶應元年(1865)帰郷。慶應二年(1866)の第二次征長には広島に出張した。慶應三年(1867)十月、徳川慶喜が薩・土など四十余の藩主、藩臣を二条城に集め、老中をして大政返上の草案を示し、その意見を問い、さらに土佐藩士福岡、後藤と並んで、当時二十三歳の宇和島藩士都築温ら六人から、大政奉還必至の強硬な意見を聞いて、奉還を決意したという。明治元年(1868)、外国官権判事に任じられ、戊辰戦争後の箱館では内外の交渉事務を処理したが、ほどなく退官。帰藩後私塾を開き、部落民の教育を行い、南予中学校長、宇和郡長を歴任した。明治十八年(1885)、年四十一で没。

 

得聖院殿能覚斯登居士

贈従四位得能亜斯登之墓(林玖十郎の墓)

 

 得能亜斯登(とくのうあすと)は、天保八年(1837)の生まれ。維新前は林玖十郎と称した。諱は通顕。安政五年(1858)、伊達宗城の股肱の臣、伊能友鷗が重追放に処されて以降、その小姓として登用されて枢機に与り、慶応三年(1867)までに京阪、防長に使して主君の活躍を援けた。慶應四年(1868)、太政官にて下参与海陸軍務掛を命じられ、有栖川総督宮の下に西郷隆盛、広沢真臣らとともに東征軍の参謀となり、さらに甲斐鎮撫使の下に参謀兼監軍として鎮撫に従い、さらに同年五月には民政をつかさどった。総督より会津藩および松平容保の処分を問われた際に、徹底殲滅を進言したといわれる。明治二年(1869)には箱館府判事に任じられたが、明治四年(1871)、病のため退官帰国した。明治二十九年(1896)、年六十で没。

 

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