史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊奈

2022年01月08日 | 埼玉県

(桂全寺)

 伊奈町の桂全寺の最寄駅は、埼玉新都市交通株式会社 ニューシャトルの終着駅内宿である。

 ニューシャトルは大宮駅から内宿までの12・7キロメートルを、約三十分余で結んでいる。大宮の次の駅が鉄道博物館駅である。まだ息子が小学校低学年だった頃、鉄道博物館がオープンしたばかりだったと記憶するが、この時初めてニューシャトルを利用した。その息子も今春から社会人になった。初めての鉄道博物館の前夜に高い熱が出てしまい、急遽取り止めになって、泣きながら寝床に行った姿がついこの間のように思い出される。

 鉄道博物館駅を過ぎると乗客は極端に減る。内宿に着いたとき、車両には乗客は私一人となってしまった。

 

桂全寺

 

 桂全寺には、春日家の墓地がある。春日家は、藤原氏の流れを汲み、足利尊氏から領地を与えられたと伝えられる。戦国時代に菅谷から小針内宿付近を本拠とし、岩槻太田氏に重臣として仕えた。春日下総守景定は、拠点としていた小針内宿に春日家の祖である祖父行忠の菩提を弔うため、桂全寺を開基した。

 岩槻に小田原から北条氏房が送り込まれると、景定は相模国にも領地を与えられ、直接北条氏の指示を受けた。北条氏が滅ぶと、景定とその子家吉は、徳川家康に仕え旗本となった。

 家吉の長男家春は、新たに家を興して、元禄十一年(1698)に旧領小針内宿を与えられ、以後幕末まで伝領された。

 幕末の当主左衛門顕道は、先代邦三郎顕恊(あきつぐ)の養子である。慶應四年(1868)、彰義隊が結成されると、天野八郎らとともに頭並に就いた。上野戦争で敗れると、磐城久之浜へ渡り、徳川陸軍を名乗って平潟口で戦った。のちに陸軍隊と称された。左衛門は仙台に転進し、そこで榎本艦隊に合流して蝦夷に渡った。明治二年(1869)の新年に旧幕軍は洋式に再編成されたが、その時、旧陸軍隊を主体とした第三列士満(レジマン=連隊)の第一大隊長となった。明治二年(1869)五月十一日、左衛門は重傷を負って五稜郭に収容された。この時、左衛門は新選組の田村銀之助を養子にしていたといわれるが、その田村の証言によれば、五月十六日、榎本から与えられた毒薬を服用して自死したという。

 

春日家の墓

 

 中央の五輪塔は、景定の祖父行忠の墓。左は左衛門の妻(顕恊の長女)の墓、右は顕恊の妻と左衛門顕道とその子の合葬墓である。

 

春日左衛門顕道の墓

 

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与野

2022年01月08日 | 埼玉県

(一本杉)

 

一本杉

 

一本杉の仇討跡

 

 与野駅(JR京浜東北線)近くを走る旧中山道沿いにKids Duoさいたま副都心という施設がある。その前に一本杉と刻まれた石碑が建てられている。

 万延元年(1860)、下総国津宮の沖合の船中で、水戸藩士宮本佐一朗と讃岐丸亀藩の浪人河西祐之助が口論の末、斬りあいとなり、宮本佐一朗が命を落とした。河西はこの斬り合いで負傷したが、同じ時期に起こった桜田門外の変の逃亡者と疑われ、吟味を受けた。そのため宮本佐一朗の息子である宮本鹿太郎が河西の居所を知るところとなった。鹿太郎は、四年後の文久四年(1864)一月二十三日、西野里之進、西野孝太郎、武藤道之助の三人の後見人とともに、仏門に入るため不動岡総願寺から江戸へ向かう河西を、針ヶ谷村の一本杉で待ち伏せ、みごとに父の仇を討った。

 その後、一行は針ヶ谷村名主の弥市方に引き取られ、一月二十七日、浦和宿にて幕府に取り調べを受けた後、小石川の水戸藩邸に引き渡された。この事件は、「幕末最後の仇討ち」として、刷り物、はやり歌などで中山道界隈に広まり、語り継がれることになった。

 かつて、当地にあった一本杉は、樹高約十八メートル、周囲約三メートルという巨木で、松並木の中で一際秀でた大樹だったといわれる。

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北浦和

2022年01月08日 | 埼玉県

(廓信寺)

 

廓信寺

 

 一本杉で討ち取られた河西祐之助は、観音寺に葬られたが、その後、観音寺は廃寺となり、現在、墓石は廓信寺に引き取られて、供養されている。山門前に「観音寺縁故者供養塔」が建てられているが、その一番右端にあるのが河西祐之助の墓である。墓石表面は剥落し、辛うじて「川」という文字のみが確認できる。

 

河西祐之助の墓

 

小泉蘭斎の墓

 

小泉蘭斎

 

 小泉蘭斎は、文化八年(1810)、三上藩(現・滋賀県)藩士の子として江戸に生まれ、三十八歳のとき藩を辞し、別所村(現・さいたま市浦和区)に移り、寺子屋を開いた。当時の浦和県が浦和宿本陣に郷学校を開くに当り、石川直中校長のもとに蘭斎も招かれ、その教師となった。浦和郷学校は、明治四年(1871)二月、玉蔵院を校舎として正式に開校したが、蘭斎はその翌年の五月、病没した。明治十年(1877)、教え子たちが拠金して廓信寺に墓碑を建てた。背面には蘭斎の事歴を刻む。

 本堂の前に収納庫があり、そこに蘭斎の墓が保管されている。従って、墓石の側面や背面を確認することはできない。

 

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蕨 Ⅲ

2022年01月08日 | 埼玉県

(河鍋暁斎記念美術館つづき)

 二か月前に訪問した際には休館だった河鍋暁斎記念美術館を拝観することができた。蕨駅前から蕨市が運営しているコミュニティバスが通っているが、待てどもバスが来ない。時刻表には「15」と書いてあったので、てっきり十五分間隔でバスが運行されているのかと思ったが、それは全くの勘違いであった。一時間に一本、毎時15分に蕨市を出るということらしく、タイミングが合わなければ使い勝手はあまりよくない。あまり辛抱強い方ではない私は、待ちきれずに電車で一駅移動して、最寄りの西川口駅から歩いた。二十分くらいで到着する。

 西川口駅は、川口市に所在しているが、少し西に行くと戸田市である。河鍋暁斎記念館は市境の蕨市に位置している。西川口駅周辺には、タイ語や韓国語の看板が並び、街を行く人も外国語を話している人が多い。ひと言でいうと猥雑な印象の街であるが、何だか暁斎の多様で雑多な画風にも通じるところがある。

 河鍋暁斎は、狩野派の絵師に分類されているが、伝統的な日本画のみならず、水墨画風の絵も描けば、おどろおどろしい残酷絵や風刺画(現代でいえば、漫画に近い)まで、多様な作品を残した。その背後にはあらゆる技法に通じた暁斎の高度な技術があった。この記念館では暁斎の残した下絵(今風にいうと、デッサン)を中心に展示されているが、ほとんど描き直した形跡がなく、暁斎の確かなデッサン力を物語っている。

 ほかに客はいなかったので、一人占めであった。記念館にはミュージアム・ショップも併設されている。私はここで暁斎筆「百鬼夜行図屏風」と「蛙の人力車と郵便夫」の絵ハガキを購入した。いずれも「鳥獣戯画」を連想させるユーモラスな風刺画である。

 

「百鬼夜行図屏風」

 

(塚越稲荷神社)

 蕨駅から東へ徒歩十分。塚越稲荷神社の境内に高橋新五郎夫妻を祀る機(はた)神社がある。

 

塚越稲荷神社

 

機神社

 

 高橋新五郎は寛政四年(1792)の生まれ。高橋家は代々武蔵国足立郡塚越村の農家で、先代から農閑期には余業として機織りをしていた。新五郎は文化十三年(1816)から父の遺志を継いで鋭意機業の改良に着手し、各地の機織りを参考にして高機を工夫し、青縞織の製造を伝授し、爾来「東屋」の家号をもって栄え、天保八年(1837)には高機一〇二台、藍甕三〇〇余を備えた工場を構えた。その技術を聞いて遠近から伝習に来る者も多く、その人々が開いた弟子機屋、孫機屋と称するものが百数十に及んだという。没後、機祖神として祀られ、毎年七月七日の開業日には祭典が行われている。安政四年(1857)、年六十六で没。

 機神社には、高橋新五郎とその妻いせの座像が置かれているが、合わせて反物や糸取りの道具も納められ木綿糸が巻かれている。また前身は関東大権現社であり、徳川家の葵の御紋も本殿正面に掲げられている。家康の座像も祀られているという。

 

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