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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

まんのう

2020年12月05日 | 香川県

(満濃池)

 金毘羅宮参道入口前のかがわ・こんぴら観光案内所で電動自転車を調達する。ここから約六キロメートル離れた満濃池を目指す。片道三十分足らずで満濃池に到達する。

 

満濃池

 

 かつてこの地方は、晴天が続けば水湿の潤いがなくなり、霖雨が続けば洪水が起こるといわれ、水利の乏しい場所であった。農民の渇望が実現したのが満濃池であった。この池の創築は大宝年中(701~704)頃といわれる。その後も嵩上げ、復旧工事を繰り返したが、弘仁十二年(821)には、弘法大師(空海)が築池別当として派遣され、池畔の護摩壇上で秘法を修し、加護を祈りつつ、弓状堤防などの指図と説法をした。そのおかげで、僅か三か月で難工事を仕上げたとされる。

 明治二年(1869)には、高松藩執政松崎渋右衛門の発議により、豪農長谷川佐太郎などの協力を得て、堤長四十五間半(88・7メートル)、堤高十三間(23・6メートル)の完成を見た。その後も嵩上げ工事を重ね、現在は堤高32・34メートル、貯水量1,540万立米、有効水深21・14メートルに至っている。

 満濃池という名称から連想されるものと違って、実態は巨大な貯水池とダムである。

 

(神野神社)

 

神野神社

 

松坡長谷川翁功徳之碑(長谷川佐太郎功徳碑)

 

 神野神社の門前、満濃池を見渡す場所に長谷川佐太郎功徳碑が建てられている。

 長谷川佐太郎は、文政十年(1827)の生まれ。松坡は雅号。ほかに梧陽堂、小巴など。人となり温良にして義気があった。好んで人の急を救い、つとに尊王攘夷の志を抱き、日柳燕石、美馬援造(君田)らとともに広く天下の士と交わり、松本謙三郎、藤本津之助(鉄石)、久坂玄瑞らは前後して彼のもとを訪れ、事を議した。琴平に潜伏した桂小五郎や高杉晋作らもその庇護を受けた。安政元年(1854)、満濃池の堤防が決壊して、那珂、多度両郡三千余町の田地が荒廃し、修築するにも藩財政窮乏のため思いに任せず、明治に至るまで十五年間も廃池のままの状態であった。佐太郎によって明治二年(1869)修築工事を起工し、翌明治三年(1870)竣工。二十町村の農功旧に復した。この治水事業のため私財を投入して家産傾き貧に窮したが、書画・俳句に遊んで意に介さなかった。維新後、しきりに仕官を勧められたが、「治水が先」と固辞して応じなかった。明治三十二年(1899)、年七十三で没。

 功徳碑は、明治二十九年(1896)の建立。山県有朋の題字、品川弥次郎の撰文。

 

松崎渋右衛門辞世歌碑

 

 神の神社前にはもう一つ注目すべき石碑がある。松崎渋右衛門の辞世碑である。

 松崎渋右衛門は、高松藩尊王派の藩士で、榎井村の日柳燕石とも交流があり、幕末には入獄の憂き目にもあっている。維新とともに赦され、家老職となった。満濃池は、安政元年(1854)以来、結果したまま放置され、復旧の目途がたっていなかった。渋右衛門は、長谷川佐太郎の要請を受け、丸亀支藩多度津藩や倉敷県の間を奔走して藩論をまとめ、明治二年(1870)、着工にこぎつけた。渋右衛門は、自ら満濃池の現地を視察し、従来の木造底樋管に替えて、岩山を石穴で貫く画期的工法を実現させた。今も満濃池の用水は現在もこのトンネルを通って配水されている。

 渋右衛門は、この工事の完遂を見ないまま、明治二年(1869)九月八日、高松城内桜の馬場で旧佐幕派集団に謀殺された。四十三歳であった。

 歌碑には、渋右衛門の辞世が刻まれている。

 

 君の為 国の為には惜しからじ

 仇に散りなん 命なりせば

 

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琴平 Ⅱ

2020年12月05日 | 香川県

(敷島館)

 

敷島館

 

香川縣史趾 芳橘樓

 

 現在、金毘羅宮参道に面して「ことひら温泉 御宿敷島館」というホテルとなっているが、元「芳橘樓」と呼ばれる旅館であった。幕末には高杉晋作や坂本龍馬も芳橘樓を利用したといわれる。

 

(日柳家墓地)

 琴電榎井駅の近くに日柳家の墓地がある。ちょうどまんのう町と琴平町の境界近くであり、どちらの町に属しているのか判断がつかないが、取り敢えず琴平町としておく。

 

日柳家墓所

 

 ここには、燕石の両親、燕石、三舟(燕石の長男)ほか親族の墓が並ぶ。

 

日柳士煥爪髪瘞表(日柳燕石遺髪墓)

 

 日柳燕石は、慶応元年(1865)、捕らえられて高松の獄に投じられたが、慶応四年(1868)赦免されると直ちに京都に上って書を奉じ、ついで仁和寺宮嘉彰親王に従って越後口に出席した。しかし、永年の獄中生活で健康を損ねており、柏崎まで至ったところで病没した。五十一歳であった。柏崎招魂社に墓がある。

 

三舟先生瘞爪髪表

(日柳燕石長男三舟遺髪墓)

 

 日柳三舟は、維新後大阪に出て学務長を務め、教科書出版に尽くした。今日の教科書の原型は、三舟に始まるといわれる。明治三十六年(1903)、六十五歳にて没。大阪阿倍野墓地に墓がある。

 

(柳谷墓地)

 

美馬援造墓

 

 柳谷墓地は、見渡す限り墓石が広がる広大な墓地である。一番手前に無人の墓地管理事務所があり、その前の小径を上ってすぐ右手に美馬家の墓所があり、そこに「美馬援造」と刻まれた墓石がある。

 美馬援造は、文化九年(1812)の生まれ。雅号に桜水、土仏、君田がある。美馬君田の名の方が知られているかもしれない。幼時、郷里の願勝寺で僧となり、漢学・歴史に傾倒。また詩文、書画をたしなみ、安政元年(1854)、還俗して姓を美馬と改め、諸国を遊歴して高杉晋作や坂本龍馬らと交わった。のち讃岐琴平に移って日柳燕石、植田文郁らと交遊。勤王攘夷国事を痛論したため幕府に忌まれ、慶応元年(1865)、日柳燕石とともに捕らえられ、四年間獄中に苦しんだ。下獄すると桜水と改名した。維新後は、赦免されて琴平に学舎を開いて子弟の教育に従事した。明治七年(1874)、年六十三で没。

 

(広谷墓地)

 

野廣君之墓(野城広介の墓)

 

 今回の旅において最大の収穫は、野城広介の墓の発見であった。墓石の前の花立には「日柳燕石先生の義侠心により建立されしものなれど風雪の浸食甚だしく二〇一〇年六月改修」と記されているので、「発見」というのは少々大げさかもしれないが、広い墓地からだた一つの目的物を見出す作業は、相当の執念と偶然が重ならなければ至難の業であることは間違いない。

 広谷墓地は、龍馬像が建つ牛屋口と金毘羅宮を結ぶ伊予土佐街道に沿って作られた墓地である。金毘羅宮の参道側から向かうと電動自転車でも上れないような急坂を越えなくてはならない。墓地には見るからに古い墓石がぎっしりと並んでいる。野城広介の墓は、その一番奥(高いところ)にひっそりと建っている。

 

 野城広介は、天保十四年(1843)、上総国市原村山田橋の生まれ。平田銕胤、権田直助の門人でつとに勤王を志し、文武にも通じた。文久三年(1863)、上京して岩倉、三条両卿の内意によって活動を始めた。同志と京都等持院の足利三代の木像を梟首し、その斬奸高札を書いた。逃れて丸亀藩下に来り、同志村岡宗四郎方に潜伏した。小橋安蔵一家や日柳燕石一派と密合して長谷川鉄之進と国事を謀っていたが、同年八月親征の挙があることを聞き、これに加わるため村岡邸秘蔵の兵器火薬等を携え同志とともに上坂したが、朝議一変して親征中止となり、帰国の途次、船中にて熱病に罹り、丸亀村岡方地下室にて病没した。年二十一。

 同志は捕吏の追及を憚り、匿名して「野廣君之墓」とのみ彫した。美馬援造の揮毫。

 

(春日神社)

 呑象楼近くの春日神社には、日柳燕石の顕彰碑が建てられている。山縣有朋の篆題。大正九年(1920)十一月の建碑。

 

春日神社

 

日柳燕石翁之碑

 

(丸尾本店)

 

長谷川佐太郎旧家

 

 丸尾本店は、「凱陣」というブランドの日本酒を醸造販売しているが、長谷川佐太郎の住居跡でもある。

 

(日柳燕石生家跡)

 丸尾本店の前の道を二百メートルほど東へ行くとその突き当りが日柳燕石の生家跡である。日柳燕石は、文化十四年(1817)三月十四日の生まれ。父は質商を営む加島屋惣兵衛といった。十三歳で琴平の医者三井雪航に学び、十八歳で家に帰った。侠気をもって知られ、郷党浮浪の徒を集めてその首領となった。また勤王の志が厚く、天下の志士と交わりを結び、国事のために私財を投げ出して尽力した。

 

日柳燕石先生生家跡

 

(長谷川家墓所)

 住宅街の一画に狭い墓地があり、その真ん中に長谷川佐太郎の墓がある。

 同じ墓地に女子栄養大学の創始者香川昇三の墓もある。

 

正七位長谷川佐太郎之碑

 

慈済院釈昇導居士(香川昇三の墓)

 

 香川昇三は、明治二十八年(1895)の生まれ。東京帝国大学卒業後、母校の医局でビタミンの研究にあたり、昭和八年(1933)、妻の綾とともに自宅に家庭食養研究会(女子栄養大学の前身)を開設。栄養学の普及に努めた。昭和二十年(1945)、五十一歳にて死去。

 

(呑象楼跡)

 

呑象楼の跡

 

 現在、榎井小学校の隣にある呑象楼は移築されたもので、もとはそこから五百メートルほど西にいったJR土讃線に近いところにあった。小さな石碑が残っているのみである。

 

(興泉寺)

 

興泉寺

 

燕石ゆかりの井戸

 

 興泉寺には燕石ゆかりの井戸がある。嘉永六年(1853)、呑象楼に移り、約十二年間ここに起居した。この頃、親交のあった興泉寺十三代住職廓榮に井戸枠を贈ったとされる。井戸枠に日柳政章の刻名が見える。政章は、燕石の諱である。

 

 これでまんのう・琴平の史跡巡りは終了。当初の見込みとおり二時間半で自転車を観光案内所に返却し、次の目的地丸亀へ向かうことができた。

 

 

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新居浜 Ⅲ

2020年12月05日 | 愛媛県

(瑞応寺)

 瑞応寺は、住友家や別子銅山と所縁の深い曹洞宗の禅寺である。別子で発生した火災や水害の犠牲者の墓などがある。本堂左手の長泉堂には、別子銅山の殉難者を祀っている。

 

瑞応寺

 

別子銅山殉難流亡者碑

 

 この石碑を求めて瑞応寺を訪ねること少なくとも四回、ひょっとしたら五回に及んだ。この日は朝一番で新居浜駅まで行って、そこでレンタサイクルを調達して、汗だくになって訪問してやはり行き当らず。夕刻、仕事を終えて出直し、お寺の受付にいた女性に尋ねて、女性が「詳しい人」に電話をして確認してくれて、ようやく場所が分かった。瑞応寺に隣接するひかり幼稚園の西側から山に入ると、その西側に住友金属鉱山㈱別子事業所が管理する墓地が広がっている。宝篋印塔の右側から登っていくと、そこに鉱山殉難者の墓地があり、そこに建っている。ようやく行き着くことができて感無量であった。

 

 この碑は、明治三十二年(1899)の台風で別子銅山関係者が五百人以上も亡くなった慰霊の碑である。その三周忌に建立され、法要が営まれた。住友別子工業所はこの大災害を受けて、新居浜に移転した。撰文は西園寺公望の実弟住友吉左衛門。西園寺公望筆。明治三十四年(1901)八月建立。

 

(正法寺)

 有り難いことに新居浜駅前の駐輪場でレンタサイクルが始まった。朝六時半にホテルの近くのバス停からバスで駅に移動する。貸し切りであった。

 仕事を終えて、正法寺に向かった。ホテルから大生院の正法寺まで距離にして七・五キロメートルもあり、しかも緩やかな上りとなる。自転車で正法寺に到達したときには、汗がしたたり落ちた。

 

石鉄山正法寺

 

近藤篤山詩碑

 

 新居浜市大生院にある正法寺は、「小松聖人」とも称される近藤篤山が訪れた寺院である。寺の駐車場に近藤篤山の詩碑が建てられている。

 

大生院山下偶成

 

 渓水清如玉

 鏘々咽石鳴

 不妨只濯足

 山客無冠桜

 

 

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宝積寺

2020年12月05日 | 栃木県

(高根沢町立阿久津中学校)

 

阿久津中学校

 

 明治四十二年(1909)、陸軍の大演習が那須野ヶ原で行われた。演習最終日となった十一月九日には宝積寺の高台にある阿久津小学校に行在所が置かれ、天皇は見晴らしのよい校庭から演習を統監し、終って講評を行った。小学校跡地の現・阿久津中学校にはこの時の記念碑が建てられている。

 

天皇駐蹕之跡

 

 場所は非常に分かりにくい。体育館の裏にひっそりと建っている。

 

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宇都宮 Ⅶ

2020年12月05日 | 栃木県

(向明児童公園)

 

史蹟 行在所向明館跡入口

 

 ちょうど二荒山神社の向かい側、ドン・キホーテや餃子屋が入っているビルに隣接して、児童公園がある。周囲の賑やかさと比べると、忘れられたような空間である。

 この場所は、豪商鈴木(津山)久右衛門の邸宅であった。明治六年(1873)六月、明治天皇が宇都宮城で行われた練兵を天覧した折、鈴木邸が行在所に選ばれた。明治十四年(1881)、東京鎮台、仙台鎮台合同大演習の際にも行在所となった。

 

史蹟 行在所向明館跡

 

 向明館は昭和二十年(1945)の戦災で焼失し、現在は児童公園として利用されている。

公園内には三つの石碑が建てられている。左から「史蹟 行在所向明館跡」「明治天皇行在所向明館ノ由来」「明治天」と読める。

 

(御幸町)

 

天皇駐蹕之所

 

 宇都宮市御幸町という地名は、明治十四年(1881)、明治二十五年(1892)そして明治四十二年(1909)の三度に渡り、明治天皇が当地を訪れ、明治四十二年(1909)以降「御幸ヶ原」と呼ばれるようになったことに由来している。

 洋服のAOKIの前に天皇駐蹕碑が建てられている。

 

(岡本駅)

 

明治天皇駐蹕之處

 

 JR岡本駅西口に明治天皇駐輦之處碑が建てられている。

 明治四十二年(1909)、明治天皇が帝國陸軍秋季特別大演習を統監するため、同年十一月十日に宝積寺から岡本駅まで御召列車で移動し、下車後、馬車にて現地において統裁された。このことを記念して、昭和十二年(1937)十一月に建立されたものである。撰文は陸軍大将奈良武次。

 

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