筆者がいうように、板垣退助という名前は誰もが知っていながら、「意外にその事績は知られていない」のが実情である。板垣の人生は「一人五生」とも称される。つまり、幕末には土佐討幕派の中心人物であり、戊辰戦争では軍事指揮官としての名声を獲得し、明治初年には藩政改革を指導して明治政府の参議となった。しかし権力闘争に敗れて下野して以降、自由民権運動の指導者として活躍することになる。我が国初の政党内閣である隈板内閣が崩壊すると、急速に指導力を失い政界を引退、その後社会政策の推進にも力を尽くした。
土佐では明治維新を迎える時点で、藩外まで名の知られた志士は悉く落命していた。吉村寅太郎、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、いずれも維新前に無念の死を遂げた。維新前乾退助と称した板垣は、上士の出身であり、勤王党には属していなかったが、土佐藩の上士にしては珍しく尊王攘夷を主張していた。
山内容堂は、そんな板垣を「有為之才」があるとみて、藩の重職に登用した。板垣は容堂に対してたびたび諫言し、時には免職されることもあったが、それでも武市半平太のように命をとられることがなかったのは、(吉田東洋暗殺のような重罪を犯していなかったことは勿論であるが)板垣には「かわいげ」があったからかもしれない。人間が組織で生き残るには様々な能力が必要とされるが、案外「かわいげ」も重要な要素なのである。
鳥羽伏見の戦争が始まると、容堂はこれを薩長と旧幕府(会桑)の私戦とし、土佐藩兵が戦闘に加わることを厳禁した。これに反して板垣が藩の兵制改革で任命した隊長たちが戦闘に参加。鳥羽伏見の戦いは、薩長を中心とする新政府軍の圧勝に終わり、ぎりぎりのところで土佐藩は命運をつなげることができた。板垣は迅衝隊大隊指令兼仕置役に任命され、東山道先鋒総督府参謀として戊辰戦争を戦った。戦後の論功行賞では板垣は後藤象二郎と並んで永世禄千石が与えられた。この時、板垣は土佐閥を代表する存在に躍り出たと言って良いだろう。
明治二年(1869)四月九日には新政府の参与に任命された。政治家板垣退助の誕生である。政治家板垣退助の経歴は平坦ではない。明治六年の政変、さらに明治八年の政変でも権力闘争に敗れ、その後は在野で自由民権運動に傾注した。一般には自由民権運動の象徴的存在と認識されている。
筆者は、板垣の政治力は藩閥政治家の大久保利通や伊藤博文、あるいは大隈重信にも遠く及ばなかったと評する。確かに政治家に必要とされるしたたかさや意表をつく戦略性とは無縁であった。政治家を稼業とするには、あまりに正直で一本気であった(土佐でいう「いごっそう」そのものであった)。
板垣の弱さが如実に現れたのが明治十五年(1882)の外遊問題であった。明治政府は自由党の切り崩しを画策し、板垣総理を外遊させ発足間もない自由党の分断を図った。板垣は、政府の策略にまんまと乗り、明治十五年(1882)から翌年六月までヨーロッパへ渡航した。問題は外遊費の出所であった。馬場辰猪や大石正巳は、土倉庄三郎から出ているというが、その実は政府から間接的に出ていると追及した。これに対し板垣は土倉からのもので間違いないと反論した。後に解明されたところによれば、井上馨の斡旋により三井銀行から後藤に支出されたルートと土倉庄三郎からの二つのルートがあったという。板垣自身は第二のルートしか知らなかったのだろうが、板垣の外遊費を巡る疑惑は立憲改進党からの批判の的となったし、自由党内の党内抗争が激化し、板垣自身の清廉なイメージは著しく低下した。
追い打ちをかけたのが、辞爵事件であった。明治十七年(1884)に華族令が公布された。これを受けて明治二十年(1887)、板垣には伯爵が授与された。当時の首相伊藤博文は、再び活性化し始めていた民権派の機先を制し、在野指導者に叙爵を行うことで「官民調和」を一段と強化しようという政治的意図があった。明治維新以来、封建門閥を批判し、華族制度に反対していた板垣としては、爵位の辞退は当然のことであった。旧自由党系の関係者もほぼ全員が辞爵を薦めていたのである。板垣が自ら華族となれば、将来二院制が設置された場合、板垣は貴族から選出される上院議員にならざるを得ない。
板垣は再々辞爵を申し入れたが、度重なる明治天皇の却下を受けて、最後は伯爵位を拝受した。旧自由党系の関係者は「このような無節操な人物と将来ともに政治上の運動をすべきではない」と強く反発した。この辞爵事件も板垣の求心力を低下させる事件となった。
明治二十七年(1894)、日本は清国との戦争に勝利したが、三国干渉を受け遼東半島を放棄することになった。立憲改進党は三国干渉に対する伊藤内閣の責任を追及した。これに対し、自由党は伊藤内閣と提携し、ともに戦後経営を担う決意を表明した。明治二十八年(1895)四月、板垣は第二次伊藤博文内閣の内務大臣に就任した。この時、板垣は六十歳。明治八年(1875)の政変により下野して以来、二十一年という歳月が経っていた。板垣が入閣したことは、在野の政党政治家として名声を得てきた板垣のイメージダウンを招いた。当時のマスコミは「自由主義、自由党の死」と報じ、「板垣は生きているのに、自由は死んだ」と揶揄した。
明治三十一年(1898)、伊藤内閣が崩壊すると、いわゆる隈板内閣が成立した。隈板内閣では、大隈重信が総理大臣、板垣退助が内務大臣に就任した。振り返れば、板垣が総理に就任する最初で最後のチャンスであったが、この頃板垣は「自分は首相の器ではない」と繰り返し口にするようになっており、この頃から政界引退を意識するようになっていた。一方の大隈は、年齢では板垣と一歳違いであったが、首相就任に意欲を見せていた。この差が、板垣を総理にさせなかったのである。
大正八年(1919)七月十六日、板垣は東京芝公園の自宅で死去した。享年八十三。板垣は死に際して自分は一代華族論者であるから、必ず襲爵を辞退するよう嫡子に遺言した。板垣の死は、一代華族論を実行したことと合わせて報じられ、下火になっていた板垣人気に再び火が着いた。各地で銅像が建てられ、彼の政治家としての経歴は「自由党史」で伝説化されていった。決して政治家としては一流とはいえなかったし、成功したともいえないが、何故か板垣の周りには片岡健吉、河野広中、星亨、杉田定一、栗原亮一、植木枝盛といった人たちが集まり、彼を支え続けた。なかなか後世からは見えにくいが、どこか抜けているけど放っておけない人間的な魅力のある人だったのではないだろうか。