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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「板垣退助」 中元崇智著 中公新書

2020年12月26日 | 書評

筆者がいうように、板垣退助という名前は誰もが知っていながら、「意外にその事績は知られていない」のが実情である。板垣の人生は「一人五生」とも称される。つまり、幕末には土佐討幕派の中心人物であり、戊辰戦争では軍事指揮官としての名声を獲得し、明治初年には藩政改革を指導して明治政府の参議となった。しかし権力闘争に敗れて下野して以降、自由民権運動の指導者として活躍することになる。我が国初の政党内閣である隈板内閣が崩壊すると、急速に指導力を失い政界を引退、その後社会政策の推進にも力を尽くした。

土佐では明治維新を迎える時点で、藩外まで名の知られた志士は悉く落命していた。吉村寅太郎、武市半平太、坂本龍馬、中岡慎太郎、いずれも維新前に無念の死を遂げた。維新前乾退助と称した板垣は、上士の出身であり、勤王党には属していなかったが、土佐藩の上士にしては珍しく尊王攘夷を主張していた。

山内容堂は、そんな板垣を「有為之才」があるとみて、藩の重職に登用した。板垣は容堂に対してたびたび諫言し、時には免職されることもあったが、それでも武市半平太のように命をとられることがなかったのは、(吉田東洋暗殺のような重罪を犯していなかったことは勿論であるが)板垣には「かわいげ」があったからかもしれない。人間が組織で生き残るには様々な能力が必要とされるが、案外「かわいげ」も重要な要素なのである。

鳥羽伏見の戦争が始まると、容堂はこれを薩長と旧幕府(会桑)の私戦とし、土佐藩兵が戦闘に加わることを厳禁した。これに反して板垣が藩の兵制改革で任命した隊長たちが戦闘に参加。鳥羽伏見の戦いは、薩長を中心とする新政府軍の圧勝に終わり、ぎりぎりのところで土佐藩は命運をつなげることができた。板垣は迅衝隊大隊指令兼仕置役に任命され、東山道先鋒総督府参謀として戊辰戦争を戦った。戦後の論功行賞では板垣は後藤象二郎と並んで永世禄千石が与えられた。この時、板垣は土佐閥を代表する存在に躍り出たと言って良いだろう。

明治二年(1869)四月九日には新政府の参与に任命された。政治家板垣退助の誕生である。政治家板垣退助の経歴は平坦ではない。明治六年の政変、さらに明治八年の政変でも権力闘争に敗れ、その後は在野で自由民権運動に傾注した。一般には自由民権運動の象徴的存在と認識されている。

筆者は、板垣の政治力は藩閥政治家の大久保利通や伊藤博文、あるいは大隈重信にも遠く及ばなかったと評する。確かに政治家に必要とされるしたたかさや意表をつく戦略性とは無縁であった。政治家を稼業とするには、あまりに正直で一本気であった(土佐でいう「いごっそう」そのものであった)。

板垣の弱さが如実に現れたのが明治十五年(1882)の外遊問題であった。明治政府は自由党の切り崩しを画策し、板垣総理を外遊させ発足間もない自由党の分断を図った。板垣は、政府の策略にまんまと乗り、明治十五年(1882)から翌年六月までヨーロッパへ渡航した。問題は外遊費の出所であった。馬場辰猪や大石正巳は、土倉庄三郎から出ているというが、その実は政府から間接的に出ていると追及した。これに対し板垣は土倉からのもので間違いないと反論した。後に解明されたところによれば、井上馨の斡旋により三井銀行から後藤に支出されたルートと土倉庄三郎からの二つのルートがあったという。板垣自身は第二のルートしか知らなかったのだろうが、板垣の外遊費を巡る疑惑は立憲改進党からの批判の的となったし、自由党内の党内抗争が激化し、板垣自身の清廉なイメージは著しく低下した。

追い打ちをかけたのが、辞爵事件であった。明治十七年(1884)に華族令が公布された。これを受けて明治二十年(1887)、板垣には伯爵が授与された。当時の首相伊藤博文は、再び活性化し始めていた民権派の機先を制し、在野指導者に叙爵を行うことで「官民調和」を一段と強化しようという政治的意図があった。明治維新以来、封建門閥を批判し、華族制度に反対していた板垣としては、爵位の辞退は当然のことであった。旧自由党系の関係者もほぼ全員が辞爵を薦めていたのである。板垣が自ら華族となれば、将来二院制が設置された場合、板垣は貴族から選出される上院議員にならざるを得ない。

板垣は再々辞爵を申し入れたが、度重なる明治天皇の却下を受けて、最後は伯爵位を拝受した。旧自由党系の関係者は「このような無節操な人物と将来ともに政治上の運動をすべきではない」と強く反発した。この辞爵事件も板垣の求心力を低下させる事件となった。

明治二十七年(1894)、日本は清国との戦争に勝利したが、三国干渉を受け遼東半島を放棄することになった。立憲改進党は三国干渉に対する伊藤内閣の責任を追及した。これに対し、自由党は伊藤内閣と提携し、ともに戦後経営を担う決意を表明した。明治二十八年(1895)四月、板垣は第二次伊藤博文内閣の内務大臣に就任した。この時、板垣は六十歳。明治八年(1875)の政変により下野して以来、二十一年という歳月が経っていた。板垣が入閣したことは、在野の政党政治家として名声を得てきた板垣のイメージダウンを招いた。当時のマスコミは「自由主義、自由党の死」と報じ、「板垣は生きているのに、自由は死んだ」と揶揄した。

明治三十一年(1898)、伊藤内閣が崩壊すると、いわゆる隈板内閣が成立した。隈板内閣では、大隈重信が総理大臣、板垣退助が内務大臣に就任した。振り返れば、板垣が総理に就任する最初で最後のチャンスであったが、この頃板垣は「自分は首相の器ではない」と繰り返し口にするようになっており、この頃から政界引退を意識するようになっていた。一方の大隈は、年齢では板垣と一歳違いであったが、首相就任に意欲を見せていた。この差が、板垣を総理にさせなかったのである。

大正八年(1919)七月十六日、板垣は東京芝公園の自宅で死去した。享年八十三。板垣は死に際して自分は一代華族論者であるから、必ず襲爵を辞退するよう嫡子に遺言した。板垣の死は、一代華族論を実行したことと合わせて報じられ、下火になっていた板垣人気に再び火が着いた。各地で銅像が建てられ、彼の政治家としての経歴は「自由党史」で伝説化されていった。決して政治家としては一流とはいえなかったし、成功したともいえないが、何故か板垣の周りには片岡健吉、河野広中、星亨、杉田定一、栗原亮一、植木枝盛といった人たちが集まり、彼を支え続けた。なかなか後世からは見えにくいが、どこか抜けているけど放っておけない人間的な魅力のある人だったのではないだろうか。

 

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「車中泊入門」 武内隆著 ヤマケイ新書

2020年12月26日 | 書評

ということで、いきなりであるが、「車中泊入門」である。

これまで史跡を訪ねる中で、北海道、新潟、山形、宮城、岐阜などで車中泊を体験した。昨年のゴールデンウイークには、竹さんご夫妻と車中泊で広島県内を回った(考えてみれば、ご夫婦+おじさん一人という三人組の車中泊は珍妙だったかもしれない)。

振り返っていえるのは、どの車中泊でも良く眠れたことはない。寒さでとても寝付けなかったこともあるし、車の座席がフラットではなくて寝心地が悪かったこともある。人によっては「どこでも寝られる」という人もいるが(竹さんは間違いなくそのタイプであった)、私は睡眠に関しては他人より神経質なようである。だから、これまでできるだけ車中泊は避けてきた。

しかし、どれくらいの時間で目的の墓を発見できるか読めない史跡の旅は、どこで日が暮れて、どこで泊まることになるのか、事前に読めないことが多い。最後はいつも日没との戦いになってしまうし、手配していたホテルまでまだ距離があることもある。実は史跡の旅と車中泊は相性が良いのである。

来年の三月には定年を迎える。まだしばらく会社にはお世話になる予定であるが、これを機に、心地よい車中泊が可能な専用車を購入したいと思っている(その前に嫁さんを説得しないといけないが…)。

本書は、車中泊日数2500日以上という筆者の車中泊ノウハウが詰め込まれた一冊である。車中泊の旅をしようという人には、筆者が提唱する「車中泊マナー10カ条」を胆に銘じておくべきであろう。特に「ルールに従う」「迷惑をかけない」「マナー違反にならないか、判断しかねたらやめておこう」「ひっそり静かにが基本であることを忘れずに」というご指摘は、なるほどごもっともである。

足もとは、新型コロナ感染が終息しておらず、気安く地方に旅行できる雰囲気ではない。何時になったら、車中泊の旅を楽しめるのか全く先が見通せないが、当面は地図を見ながら頭の中で旅をシュミレーションするしかない。

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「暗殺の幕末維新史」 一坂太郎著 中公新書

2020年12月26日 | 書評

本書「はじめに」では「日本の近代化のスタート地点とされ、奇跡のような革命と称賛されることが多い「明治維新」など、一歩踏み込めば暗殺および暗殺未遂事件のオンパレード」と解説しているが、そのとおりであろう。ペリー来航から明治改元までの十数年間で「百件を超える暗殺事件」が起こったという。比較的治安が良いといわれる我が国であるが、この時代に限っていえば、血で彩られていたといって過言ではない。

現代においては、たとえ相手が犯罪者であっても暗殺やテロは、非難の的となる。(一昔前のことになるが)オーム真理教の幹部や悪徳商法で社会問題化した豊田商事の会長が刺殺された事件でも、犯人は殺人者として裁かれた。

現代の目で幕末維新時の暗殺やテロを批判することは容易であるが、あまり意味のあることとも思えない。とはいえ、無抵抗のターゲットを斬殺しその首を衆人のもとにさらしたり、外国商船を砲撃して「洋夷与し易し」と浮かれる長州藩士を戒めた中島名左衛門を暗殺した事件など、狂気の沙汰としか思えない。明治政府は、テロ実行犯を靖国に合祀し贈位して顕彰したが、当時の道徳に照らしても褒められるような行為ではなかったのではないか。

思えば当時の武士階級は、殺傷能力の高い日本刀を常時携帯していた。銃社会である現代アメリカにおいて、乱射事件や殺傷事件が絶えないのも、手を伸ばせば身近なところに武器があるからであり、銃を無くせばそのような惨劇は減るのは自明のことである。同様に当時の日本は、武器を手にしていた(しかも切捨御免の特権まで与えられた)人がウロウロしていたわけで、テロや暗殺が横行したのもある程度の必然性があったのかもしれない。

本書は幕末維新期に発生した暗殺、テロ事件を羅列しているだけでなく、一つの興味深い論争を紹介している。明治十一年(1878)、大久保利通が暗殺されると、政府は直ちに官位を追贈し、大久保家を継いだ利和は侯爵に列せられた。

これを知った井伊家旧臣の遠城謙道は、井伊直弼への追贈を明治天皇に訴え出た。井伊直弼も大久保利通と同じように「忠君愛国」に身を捧げたにもかかわらず、いまだ冤罪が晴れていないとし「利通倘シ追賞スベクレバ、直弼モ亦追賞スベシ。直弼決シテ追賞ス可ラザレバ、利通モ亦決シテ追賞ス可ラズ。請フ、陛下其一拓ニテ此ニ処シ玉ンコトヲ」というのである。もちろん太政官はこの建白を受け入れなかった。

明治政府は一貫して井伊は悪役、井伊を暗殺した水戸浪士を「烈士」として顕彰してきた。しかし、世の中が落ち着くにつれ、旧臣の間から井伊直弼を「開国の恩人」として復権させようという動きが起こる。彼らは井伊の顕彰碑や銅像を建立しようとしたが、政府の圧力を受けてなかなか実現しなかった。横浜の戸部に井伊直弼の銅像が建てられたのは、明治四十二年(1909)のことである。

銅像の除幕式は、各国大使を招いて盛大に開かれるはずであった。ところが、当時はまだ維新に活躍した志士たちが健在であった。伊藤博文、井上馨、松方正義の三元老は憤慨し式をボイコット。元老大臣で出席したのは大隈重信だけであった。関係者が存命のうちは、冷静に事件を論じるのは難しい。その端的な例といえる。

今年は桜田門外の変から百六十年。十分な時間が経ったといえるが、大久保を顕彰し、井伊直弼は顕彰しない、あるいは水戸浪士を顕彰し、大久保暗殺犯はそうしないことを論理的に説明するのは難しい。

 

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「明治維新の舞台裏」 石井孝著 岩波新書

2020年12月26日 | 書評

「創刊80周年限定復刊」と銘打って、岩波新書が往年の名著から厳選して復刊している。本書は、昭和五十年(1975)にその時点で十五年余りが経過していた旧版に、その後筆者自ら誤りや妥当性を欠いたものを訂正して再刊されたものである。だから「第二版」となっている。それにしても、今から四十五年も前のことであり、著者石井孝先生も平成八年(1996)にお亡くなりになっている。もはや古典的作品と呼んでもおかしくない本であるが、内容は刺激的である。昨今、「明治維新は薩長の謀略」「明治維新は、徳川から薩長が政権を略奪しただけ」だと主張する奇説が幅をきかせているが、本書を一読すれば、この時代において謀略は薩長の専売特許ではなく、幕府もそれに負けじと策略を巡らせていたことが分かる。

本書は「明治維新の舞台裏」と名付けられている。政局の裏側で外国人が大きく策動して日本人を操ろうとしている。そうした外国人の動きを明らかにしようというのが執筆の動機となっている。

薩摩藩、長州藩は、外国公使に対し「外交には反対ではなく、それどころか領内の港を開く用意もあるけれども、外国貿易を独占して大名の貿易への参加を排除しようとして、大君(将軍)がそれを妨げている」と主張した。長州藩は少なくとも四か国連合艦隊による下関襲撃までは攘夷を藩是としていて、部分的にはこの主張に違和感はあるが、貿易の利を幕府が独占していたのは事実である。雄藩は何とかして貿易による利益の分け前を自分たちにも…と要請するが、幕府は頑としてその一線は譲らなかった。

薩摩藩は「外交には反対ではない」と言いつつ、兵庫開港を幕府を揺さぶるための「最後の切札」として最大限利用した。薩摩藩は、家茂が亡くなり将軍が空席となった間隙を縫って、兵庫開港問題を雄藩による大名会議(諸侯の合議政治)によって協議して決することを画策した。薩摩藩の動きを察知した慶喜は、将軍に就任するや英・米・仏・蘭の四国代表を大阪城に招待し、そこで兵庫開港を言明した。将軍慶喜の政治的勝利であった。

この頃、幕府の親仏派・徳川絶対主義者たちは、フランスからの借款を得るために蝦夷地産物の開発権を抵当に入れるという劇薬を採ろうとしていた。筆者は「権力者にとっては、自国の独立よりもその権力の存続のほうがはるかに重大な関心の対象」であり「幕府はその断末魔にさいして、ただ一つの頼みの綱、借款を実現するために、蝦夷地の利権を外国の銀行に売り渡そうとした」と批判する。幸いなことに重大使命を帯びた栗本鋤雲がフランスで交渉に当たっている最中に、幕府は倒壊しこの借款は実現することはなかった。

兵庫開港を契機に、幕府は兵庫商社を設立して、貿易の利の独占を目論んだ。同時にフランス側でも「フランス輸出入会社」が設立され、フランスは日本の生糸を独占的に輸入しようとたくらんだ。幕府はその収益で武器弾薬を手に入れようとした。これが実現進展すれば日本の半植民地化は避けられなかったであろう。

大政奉還後、慶喜は大名から構成される上院と各藩一人ずつの藩士で構成される下院の上下両院制度を構想していた。自ら上院の議長を兼ね、両院会議で議事が決しないときは採決権を有するというものであった。

一見すると、明治政府が目指した公議政体論と似た構想のようでもある。しかし、飽くまでも徳川家の存続と繁栄を目指すトクガワ・ファーストであった。日本の近代化のためには遅かれ早かれ徳川家は排除されるべき存在だったのだろう。

本書を読むと、幕末の舞台裏でイギリスとフランスという二大国が暗闘していたことが手に取るように理解できる。我が国が西欧列強の植民地にならなかった理由について、巷間様々な説が唱えられている。もちろん市場としての魅力が劣っていたことが大きいと思うが、それに加えて両二大国が互いに牽制しあっていたことが結果的に日本にとって幸運だったように思う。

読み終わった本を本棚に並べようとして、四十五年前に買った同じ本を発見した。またやっちまった。

 

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