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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

堺 Ⅳ

2020年11月14日 | 大阪府

(大浜公園)

 

大浜公園

 

 大浜公園は明治十二年(1879)の開園。明治三十六年(1903)には大阪で開かれた内国勧業博覧会の会場となり、東洋一と称された水族館が開設された。

 大浜公園の隣接地には、明治二十九年(1896)、大阪窯業株式会社の堺分工場が建設され、大量の煉瓦が製造された。

 

大阪窯業煉瓦発祥之跡

 

明治天皇御駐蹕之跡

 

 明治天皇御駐蹕之跡は、明治三十六年(1903)五月五日、第五回内国勧業博覧会に際し、当地に設けられた水族館を天皇が視察し、その翌日には皇后が視察したことを記念したものである。傍らには「明治天皇 昭憲皇太后 幸啓之所碑」がある。

 

(府営堺戎島住宅)

 

明治天皇御駐蹕之跡

 

 府営堺戎島住宅の東南の一画に明治天皇御注駐蹕之跡碑が建てられている。薩摩藩では慶應三年(1867)に洋式紡績工場を開業していたが、二番目の工場を交通の要衝である堺に土地を買い求め、工場を開いた。明治十年(1877)二月十三日、明治天皇がその工場を視察したことを記念したものである。

 

(熊野小学校)

 

玉座

 

 堺市立熊野(ゆや)小学校は堺市内でも最も古い小学校の一つである。正門を入って右手に明治天皇の玉座を保存した建物が置かれており、その前に御製碑と駐蹕碑が建てられている。大正十一年(1922)、玉座を保存する聖蹟顕彰事業が始められ、学校の創立五十周年を記念して玉座が修繕保存されるとともに、御製碑が設けられた。

 明治十年(1877)、二月十三日に視察し、授業を天覧されたことを記念したものである。

 

明治天皇駐蹕之址

 

明治天皇御製碑

 

 御製

 時はかるうつはは前にありながら

 たゆみがちなり人のこころは

 

(寺地町)

 

明治天皇行在所舊蹟

 

 阪堺電車の寺地町駅近くの中央分離帯に明治天皇行在所旧跡碑が建てられている。この石碑は戦災により破壊されたが、戦後繋ぎ合わせて再建されたものである。明治天皇の当地への滞在は、明治十年(1877)二月十三日のことである。

 

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帝塚山

2020年11月14日 | 大阪府

(帝塚山古墳)

 帝塚山といえば、大阪というより関西を代表する高級住宅街として知られている。その名前の由来となったのが、帝塚山古墳である。四世紀末から五世紀初めの造営と推定され、前方後円墳の原型をとどめている。

 厳重に施錠されているため中に入ることができない。精一杯300ミリ望遠レンズを駆使して墳丘上に立つ天皇駐輦碑を撮影した。

 

帝塚山古墳

 

天皇駐輦碑

 

 明治十一年(1878)十一月、明治天皇が帝塚山の墳丘上(高さ19メートル)に上って、陸軍の大演習を統監したことを記念したものである。

 

(帝塚山西二丁目)

 

明治天皇聖躅

 

 帝塚山古墳からさほど離れていない住宅街の中に明治天皇聖躅碑が建てられている。

 

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杉本町

2020年11月14日 | 大阪府

(大阪市立大学)

 

大阪市立大学

 

 私は共通一次試験一期生である。共通一次試験は、共通テストとかセンター試験など名称を変えながら今日まで存続しているが、制度の本質は変わっていないだろう。テストのデキをみて受験する大学を選べるという意味では受験生にもメリットのある制度である。

 私は大阪市立大学を第二希望としていたが、結果的には受験することはなかった。実は今回初めて現地に足を運ぶことになった。

 

五代友厚像

 

 平成二十八年(2016)、大阪市立大学の構内に五代友厚像がお目見えした。

 五代友厚は天保七年(1836)、鹿児島の生まれ。長崎海軍伝習所にて航海術・砲術などを学び、文久二年(1862)には上海に渡って蒸気船の買い入れ調査を行った。二十九歳のとき、森有礼ら十五名の留学生を率いて欧州へ渡り、現地で産業、学校、病院などの視察を行い、時代を拓く若い人材の育成に努めた。明治元年(1868)、明治政府の外国事務局判事として初めて大阪に赴任し、初代大阪税関長に就任した。大阪港の修築により外国貿易の基盤を整備した。また、造幣局の設置にも尽力し、我が国通貨制度の発展にも貢献した。翌年、民間に転じた五代は、鉱山開発や紡績業など数々の新しい産業を興した。大阪商工会議所を設立して初代会頭となり、大阪取引所を開くなど、大阪実業界の父と称えられる。明治十三年(1880)には大阪市立大学の前身、大阪商業講習所の筆頭創立員に名を連ね、その開設に尽力した。大阪商業講習所は、明治十七年(1885)に大阪府立商業学校となり、明治二十一年(1889)の大阪市発足に伴い市立大阪商業学校へと発展した。その後、明治三十四年(1901)に大阪高等商業学校、昭和三年(1928)には大阪商科大学に昇格した。昭和二十四年(1949)には大阪商科大学、大阪市立都島工業専門学校、大阪市立女子専門学校の統合により大阪市立大学が発足した。

 大阪経済発展の礎を築いた五代は、明治十七年(1885)、病により他界した。四十九歳であった。生誕百八十年を記念して構内にこの像が建てられた。書を片手に遠く海外に視線を向ける五代の姿は、大阪市立大学に相応しいものといえるだろう。

 

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住吉 Ⅱ

2020年11月14日 | 大阪府

(住吉大社)

 

住吉大社

 

 住吉大社は全国二千三百社あるといわれる住吉神社の総本社である。神功皇后が西暦211年に新羅遠征に際して住吉大神の加護をもって無事平定を果たしたことをもって、凱旋の際に当地に住吉大神を鎮斎したが起源と伝えられ、非常に古い歴史を持つ神社である。境内でひときわ目を引くのが所狭しと並ぶ石灯篭(常夜灯)である。住吉大神は海から現れたとされることから、海の神様として古来信仰が厚く、海運業者や廻船業者からの寄進が多い。

 

住吉大社 神館

 

 住吉大社の四つある本宮に隣接しているのが神館である。大正天皇の御座所だった建物で、今は結婚式場などとして活用されている。大きな木製の扉が堅く閉じられ、近づくことはできない。扉の下のわずかな隙間にカメラをこじ入れて撮影。

 明治天皇が住吉大社を参拝したのは、慶応四年(1868)三月二十日と明治十年(1877)二月十四日の二回。慶應四年(1868)の行幸は明治天皇が初めて洛外に行幸したもので、大久保利通の発案だったといわれる。この時の大阪滞在は五十日に及んだ。

 

明治天皇聖躅

 

(住吉行宮址)

 住吉行宮跡は、住吉神社の旧祀官津守氏の居館跡で、そのうち正印殿の一部があった場所である。南北朝時代の後村上天皇は、津守國夏の館を御座所と定め、ここに滞在し、崩御された。

 慶應四年(1868)四月二十日、明治天皇が当地を訪れ小休をとっている。

 

住吉行宮正印殿阯

 

明治天皇聖躅

 

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藤井寺 Ⅱ

2020年11月14日 | 大阪府

(道明寺天満宮)

 

大阪夏の陣 道明寺合戦記念碑

 

 道明寺といえば、慶長二十年(1615)の大阪夏の陣で、豊臣方と徳川方が激突した道明寺の合戦が有名である。この戦闘で、豊臣方は後藤又兵衛や薄田隼人(兼相)を失った。駅前に道明寺合戦記念碑が建てられている。

 

道明寺天満宮

 

明治天皇行在所

 

 道明寺天満宮の境内にある天寿殿(結婚式場と思われる)の前に明治天皇行在所碑が建てられている。行在所の建物も保存されている。明治天皇は、明治十年(1877)二月十二日から翌日まで滞在した。

 

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羽曳野 Ⅱ

2020年11月14日 | 大阪府

(吉村家住宅)

 最寄駅は高鷲駅である。駅から七百メートルの住宅街の中に吉村家住宅がある。吉村家は、天正十九年(1591)には島泉の筆頭、政所と呼ばれており、享保十四年(1729)以降は近在十八ヶ村の大庄屋を務めた名家である。一般公開されていないので、中を覗くことはできないが、重厚な表門(長屋門)がその歴史を物語っている。

 

 吉村家住宅の向かいに明治天皇御小憩所旧跡碑が建てられている。明治十年(1877)二月十二日に滞在したことを記念したものである。

 

吉村家住宅

 

明治天皇御小憩所旧跡

 

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羽曳野 古市

2020年11月14日 | 大阪府

(古市六町墓地)

 大和川の支流石川の土手に小河(おごう)一敏の顕彰碑があるということは、以前から分かっていたが、なかなかその正確な場所が分からず、探しあぐねていた。Google Mapでようやくその場所を特定することができたので、早速訪ねることにした。場所は近鉄古市駅から東に約十分歩いた共同墓地である。

 

小河一敏紀念碑

 

 小河一敏は文化十年(1813)の生まれ。岡藩士。通称は弥右衛門。角田九華に朱子学を学び、のち陽明学、仏典を渉り、国学を究め、さらに易経、国乗、兵法の三科を専らにし、弓馬、槍剣、詩歌、点茶、挿花にも免許を得た。幼時、父を失い十一歳で家督を継ぎ、二十四歳で会計元締役、家老とともに新政を布いた。天保十一年(1840)、俗論党に嫌われ蟄居を命じられた。皇室の式微を嘆き、毎月六回読書会を開いて、尊王の志気を興し、京都中山家と通じた。嘉永六年(1853)、米艦の来航を知り、ひそかに藩を出て両肥、両筑を遊説した。このとき真木和泉、平野國臣らと結んで尊王攘夷を鼓吹し、安政元年(1854)閉門。許されると、長崎より渡航しようとして失敗、謹慎処分に処された。この時点で小河は岡藩尊攘派を代表する存在になっていた。文久二年(1862)、広瀬重武と出奔、真木和泉の幽居に赴き大勢を知って帰藩した。文久三年(1863)、田近陽一郎ら十六人と上京の途上、下関にて西郷隆盛らと国事を談じ、上阪して薩邸に入り、志士とともに島津久光を盟主とし、孝明天皇の大詔渙発を請わんとしたが、有馬新七らが寺田屋に討たれ、真木和泉を捕らわれて計画は失敗した。小河一敏は免れて京摂にあり、岩倉具視、大原重徳の諸卿が天皇の内旨を奉じて一敏に問われたので、一書を献じ叡覧を賜った。久光を通じて天皇より感状を賜ったが、帰藩後、禁固に処された。許されて、同志とともに上京、帰阪してまた禁固された。明治元年(1868)、内国事務権判事などから堺県知事に任じられた。大和川の叛乱により住民が苦しむのを見かね、民部省にかけあって堤防事業を興そうとしたが容れられなかった。一敏は専断をもって断行し、その結果、明治三年(1870)、免官、謹慎に処された。一説に資金を得るために勝手に藩札を発行したためとされる。古市の顕彰碑はそのことを感謝記念したものである。その後、宮内大丞に任じられたが、嫌疑を受けて明治四年(1871)、鳥取に幽閉され、明治六年(1873)、赦されて教部省、太政官、宮内省に出仕し、明治十四年(1881)には宮内省御用掛に任じられた。明治十九年(1886)、年七十四にて没。

 

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