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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

平塚 Ⅲ

2020年11月21日 | 神奈川県

(ホテルサンライフガーデン)

 茅ヶ崎方面から相模川を渡って平塚に入ると右手に見えるのがホテルサンライフガーデンである。ホテルの前に明治天皇馬入御小休所趾碑が建てられている。

 

明治天皇馬入御小休所趾

 

 この場所は、実業家杉山久五郎の屋敷があったところで、明治六年(1873)八月三十日、明治天皇、昭憲皇后が東海道通行の際、ここに立ち寄り休息した。明治十一年(1878)十一月八日には、明治天皇が再度立ち寄っている。この石碑は昭和十五年(1940)の建立。子爵金子堅太郎の揮毫。

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大磯 Ⅲ

2020年11月21日 | 神奈川県

(神明神社)

 

神明神社

 

内侍所御羽車奉安之所

 

 明治元年(1869)九月二十日、京都を出発した明治天皇は、同年十月九日、小田原宿をたち、昼には大磯宿の小島本陣に到着した。昼食後、天皇の長旅を慰めようと、北浜海岸で沖の岩の上に群がっているカラスに向かって一斉射撃を試みたが、呼吸が合わず全部逃げられてしまった。明治天皇は初めてのことなので、とてもお喜びになったという。この日、明治天皇は小島本陣に宿泊し、内侍所御羽車(賢所 天照大神の御霊代であるヤタノカガミを祀る腰輿)は神明神社に奉安された。

 

(北浜海岸)

 

明治天皇観漁紀念碑

 

 明治天皇が大磯に到着すると、大磯の漁師は地引網を入れた。地引網を引き上げようとすると、網が海底の岩に引っ掛かってしまったため、漁師が我も我もと海に飛び込み、何とか引き上げた。網に入った魚をたらいに泳がせ、掛け声勇ましく裸のまま天皇の御前に抱えて来た。明治天皇は人々のありのままの姿を目にすることができて非常に喜んだという。

 現在、北浜海岸には「明治天皇観漁紀念碑」が海に向かって建てられている。

 

(原敬大磯別荘跡地)

 大磯には政治家が競うように別荘を建てた。松本良順謝恩碑に近い住宅街の中に原敬別荘跡地がある。

 原敬は、明治二十九年(1896)、四十歳のときに大磯に別荘を購入したが、それまでに妻貞子の病気療養などを名目に、何度も大磯を訪れており、相当お気に入りだったのであろう。大正二年(1913)、内務大臣のとき、鎌倉腰越に別荘用地を購入して、大磯の別荘は手放している。

 

原敬大磯別荘跡地

 

(明治記念大磯邸園)

 「明治150年」関連施策の一環として、国、神奈川県、大磯町との連携の下、明治記念大磯邸園を設置することとなった。園内には伊藤博文、大隈重信、陸奥宗光、西園寺公望の四名にゆかりのある邸宅があり、これを保全整備して活用しようという計画があるらしい。

 令和二年(2020)十月、私がこの地を訪問したとき、エントランス部分の工事が行われていた。公開される日を楽しみに待ちたい。

 

明治記念大磯邸園

 

(旧島崎藤村邸)

 島崎藤村は、明治五年(1872)筑摩県馬籠村(現・岐阜県中津川市)の本陣の家に生まれた。大磯の温暖な地をこよなく愛し、昭和十六年(1941)の春、この地に住み、絶筆となった「東方の門」を執筆した。昭和十八年(1943)、八月二十一日、静子夫人が「東方の門」の原稿を朗読中、頭痛を訴え倒れた。翌日、七十一歳で永眠。遺言により、大磯地福寺に葬られた。

 

旧島崎藤村邸

 

旧島崎藤村住宅 静の草屋

 

(地福寺)

 

地福寺

 

島崎藤村墓

 

 地福寺に入って左手に島崎藤村夫妻の墓がある。表に島崎藤村墓と刻まれた質素な墓である。

 

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戸塚

2020年11月21日 | 神奈川県

(澤邉本陣)

 

明治天皇戸塚行在所阯

 

 戸塚宿は東海道五十三次の五番目の宿場で、旅籠数は小田原に継ぐ規模を誇った。現在もJR戸塚駅の近くを東海道が南北に走る。

 戸塚宿には、澤邉本陣と内田本陣があった。澤邉本陣の初代澤邉宗三は戸塚宿創設時の功労者であった。また、明治天皇の東下の際には、澤邉本陣が行在所となった。

 

(脇本陣跡)

 

脇本陣跡

 

 澤邉本陣と内田本陣のちょうど中間あたりに脇本陣跡がある。戸塚宿には三軒の脇本陣があったという。

 

(戸塚郵便局)

 

内田本陣跡

 

 現在、戸塚郵便局のある辺りにもう一つの本陣があった。内田本陣は、間口十八間(三十二・八メートル)、奥行十四間(二十五・五メートル)で、畳敷は百五十二畳もあったという。

 

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天王町

2020年11月21日 | 神奈川県

(橘樹神社)

 相鉄線天王町駅から徒歩五分。かつて橘樹(たちばな)神社は、祇園社、牛頭天王社、天王宮と呼ばれ、天王町の由来となった神社である。境内に明治天皇東幸を記念した石碑が建てられている。明治二年(1869)、明治天皇御東幸の際、当社境内を浄地と定め、内侍所(三種の神器の一つである八咫鏡を祀る場)が奉安された。

 

橘樹神社

 

明治天皇東幸遺蹟碑

 

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東神奈川 Ⅱ

2020年11月21日 | 神奈川県

(神奈川台場公園)

 

神奈川台場公園

 

 知らないうちに神奈川台場跡の一部が公園化されていた。公園化されているのは、台場へ続く西取渡り道の一部である。平成二十年(2008)、横浜開港百五十年を記念して、神奈川台場跡の発掘調査が行われた。その結果、西取渡り道の位置や構造が明らかになったほか、地震等の自然災害により相当な破壊を受けていたことが判明した。

 

地図と絵に見る神奈川台場の歴史

 

 公園には、神奈川台場の歴史を展示するコーナーも設けられている。万延元年(1860)に竣工した台場は、明治三十二年(1899)に廃止されるまで、礼砲や祝砲を交換する役割を担った。

 

(星野町公園)

 

開港百五十周年記念 神奈川台場跡

 

神奈川台場石垣

 

 星野町公園は、神奈川台場の扇型部分の先端部分に位置している。公園に発掘された神奈川台場の石垣が展示されている。

 

(滝の川公園)

 滝の川公園の一角に明治天皇が宿泊したことを示す石碑が建てられている。書は陸軍大将一戸兵衛。

 

滝の川公園

 

明治天皇行在所之蹟

 

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八王子 Ⅻ

2020年11月21日 | 東京都

(八日市宿)

 八王子宿は甲州街道の宿場町で、八王子十五宿とも呼ばれる。八王子十五宿は、横山宿と八日市宿(八王子市八日町8‐1)を中心に繁栄した。元治元年(1864)にはスイスの貿易商カスパー・ブレンワルドが八王子宿を訪れている。彼の残した日記には「たった一本の広くて長い道がこの町を作っており、家々は横浜よりずっと美しくて大きいものだった。公の建物はその大きさと優雅さで群を抜いていた。日本では何もかも非常に清らかに保たれている。」と描写されている。

 当時の八王子宿は道幅九間(約十六メートル)、街並みは横山宿から八木宿の外れまで約二キロメートル続いた。

 

甲州道中 八日市宿跡

 

 ブレンワルドは、八王子宿の大勢の子供につきまとわれ「唐人! 馬鹿!」など、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられた。食事をすれば、大衆が集まってきて好奇心むき出しでじろじろと見る。食事を済ませて散歩に出ようとすると、あまりに多くの人が集まってきたので、身の危険を感じて茶屋に戻っている。当時、八王子宿周辺までが外国人遊歩区域とされていたので、時々外国人が町に現れた。当時としては珍しい外国人を八王子の人びとは好奇の目で見たのであろう。

 

(禅東院)

 

禅東院

 

 禅東院は、八王子夢美術館の裏側(北側)に位置している(八王子市本町17‐19)。

 元治元年(1864)、天狗党約千人余が常陸を出て、利根川を越えて本庄宿(現・埼玉県本庄市)に向かったとの情報を得て、若年寄田沼意尊は、川越藩に対して今市、越生、扇町屋(現・埼玉県入間市)、八王子周辺への出兵を命じた。天狗党の一部が箱根ヶ崎から横浜へ向かうとの風評があったため、川越藩兵約三百は同年十一月十六日、禅東院に宿陣した。

 さらに江川代官の手代や幕府歩兵隊、若年寄本多能登守忠紀の一隊、講武所奉行堀親義など入れ替わり八王子宿に現れ、かつてない慌ただしさと緊張が走った。結局、天狗党が八王子宿に近づくこともなかったため、十二月二日には駐屯していた川越藩兵も去っていった。

 

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