(林泉寺)
林泉寺
千葉家之墓(佐川藤兵衛の墓)
千葉家の墓に秋田藩の佐川藤兵衛が葬られている。
佐川藤兵衛は、秋田藩。小鷹狩源太組下。慶応四年(1868)八月十一日、羽後横手にて戦死。四十九歳。墓石には「秋田藩家老」とある。
(実沢桐ケ崎屋敷)
櫻田迪君之墓(桜田良佐の墓)
桜田良佐(りょうすけ)は、寛政九年(1797)、仙台藩士桜田景明の二男に生まれた。名は景迪。字は子恵。号は簡斎。幼少より叔父桜田欽斎に従って経史、兵法等を学んだ。初め仙台藩からの出向という形で下野佐野城主堀田正敦(第六代仙台藩主伊達宗村の子)に仕え、その推挙により本藩の大藩士に抜擢された。四十歳とのき召されて仙台藩に帰り、出入司に登用されたが、間もなく辞し、邸内に済美館を設けて文武の教育にあたった。その後、兵学の研究を深め、五十四歳のとき火器を重視した極めて近代的な大成流兵学を創始。六十歳で兵具奉行、翌年には講武所指南役に任じられて、藩の軍政改革に取り組んだが、度重なる飢饉等で極度に悪化していた藩財政はこれを許さなかった。この頃、名声を聞いて訪れた庄内の志士清河八郎と交友。次第に勤王思想に感化され、藩内勤王派の思想的指導者になったが、保守的な仙台藩にあっては少数派にとどまり、六十七歳の時、罰せられて松山村の茂庭氏邸に幽閉された。幽閉は明治維新前年までの五年間に及び、その間、「赧然居士(たんぜんこじ)」と自称してひたすら著述に努めた。維新後は、敗戦処理および旧佐幕派の一掃に努力、さらに藩の議事局議長、勤政庁外事局長として政体復古百度一新の政を実行しようとした。しかし、藩政時代の上層支配武士層を残した仙台においてその志を得ることは難しく、七十四歳の時、勤政庁組織の変更に伴い職を辞した。以降、根白石村に隠棲して世事を談ぜず、明治九年(1876)十月四日、没し自宅の裏山に葬られた。享年八十。明治四十一年(1908)、正五位を追贈された。良佐の墓の向かって右側には妻の墓が置かれている。
少し離れた場所に息桜田景敬の墓がある。景敬は、投機隊の隊長として戊辰戦争に出征し、白河口で戦っている。
櫻田景敬君墓