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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

2018年04月21日 | 静岡県
(原宿)


原宿本陣跡

 原宿といえば、渋谷区の原宿を思い出すが、実は東海道にも原宿がある。原宿は、東海道の 十三番目の宿場である。
 原駅を降りて、東海道を右手に進むと、本陣跡を示す石碑がある。原宿の本陣渡邊家は代々平左衛門家を名乗り、問屋、年寄、名主を務めた。現在も本陣跡には、渡邊家の表札が掲げられている。
 慶応三年(1867)韮山農兵の世話係を務めていた世古六太夫(三島宿本陣当主)は、箱根関所を破った薩摩藩邸の副留守居脇田一郎ほか二名を代官手代と協力して原宿一本松にて召し捕っている。

(帯笑園)


帯笑園

 原宿本陣跡の近く、浅間神社の向かい側辺りに帯笑園(たいしょうえん)がある。
 帯笑園は、素封家植松家の私園で、その名称は六代当主與右衛門秀英(蘭渓)の請いにより、漢学者海保青陵が命名したものである。作庭は戦国時代末期とも伝えられるが、江尾時代後期蘭渓の代にほぼ庭園全体の姿ができあがり、その後も代々の当主が花卉銘木の収集や園内の整備に努めてきた。前庭には、当時としては珍しい温室が設けられ、松や蘇鉄の盆栽や当時流行した珍しい品種や舶来の花卉類の鉢植えが並べられていたという。
幕末から明治期には街道一の名園と讃えられ、東海道を往来する大名、公家、文人などが訪れた。シーボルトもその紀行文の中で「私がこれまでにこの国で見たもののうちでいちばん美しく、鑑賞植物も非常に豊富である」と絶賛している。明治に入ってから伊藤博文も当園を訪れた記録が残る。
 その後、時代の変遷とともに、敷地は半分ほどに縮小し、貴重な植物も多くが失われてしまった。
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上野 Ⅸ

2018年04月21日 | 東京都
(報恩寺)
 ペリー来航時の浦賀奉行所与力であった小笠原甫三郎の墓を訪ねて、報恩寺を訪ねた(台東区東上野6‐13‐13)。


報恩寺

 報恩寺の墓地は、報恩寺本堂の北側にあり、入ったところに墓守のおばあさんが待機している。小笠原甫三郎の墓を探している旨を告げると、ここには小笠原姓の墓はないという。念のため墓地を一回りしてみたが、発見できなかった。
 小笠原甫三郎は、文政三年(1820)、幕府御家人山口茂左衛門の子に生まれた。天保十三年(1842)、小笠原貢蔵の養子となって、小笠原家を継いだ。小笠原貢蔵は、蛮社の獄の際、鳥居耀蔵の命を受けて蘭学者の取調にあたったという人物である。甫三郎は幼少より学問を好み、数学を内田弥太郎、測量を奥村喜三郎、砲術を幕府鉄砲方の井上左太夫や田付四郎兵衛に師事した。時代の違いといってしまえばそれまでだが、養父貢蔵とは全く違う人生を歩んだ。嘉永元年(1848)、家督を継いだ助三郎は浦賀奉行所与力を拝命し、当時西洋式砲術の第一人者下曽根金三郎に就いて砲術を修めた。その頃、浦賀に来ていた佐久間象山からオランダからの献上品である大砲や付属の機器の使用方法を教わった。嘉永六年(1853)、富士見宝蔵番に転じ、わずか一年で留役勘定に任命され、文久元年(1861)には神奈川奉行所の支配調役に転じている。文久三年(1863)からは各地の代官を歴任して、元治元年(1864)に発生した天狗党の乱では、支配地で組織した農兵を率いて各地を転戦した。明治十八年(1885)、死去。葬儀には親交のあった栗本鋤雲、福地源一郎、榎本武揚らが参列したという。
 この日は氷川台の荘厳寺で山本金次郎の墓を訪ねたが空振り。継いで小笠原甫三郎の墓にも出会うことができず、収穫のない一日であった。

(永昌寺)


永昌寺

 明治十四年(1881)、嘉納治五郎は、東京大学を卒業し、学習院に奉職したが、翌年より永昌寺内に居住して同寺書院を道場として、柔道を中心とする訓育を始めた。これが講道館の発祥である(台東区東上野5‐1‐2)。道場の広さは十二畳、初年の入門者は九名であった。


講道館柔道発祥之地

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氷川台 Ⅱ

2018年04月21日 | 東京都
(荘厳寺)
 ペリー来航時、浦賀奉行所同心であった山本金次郎の墓が氷川台の荘厳寺にあるというので、行ってみた(練馬区氷川台3‐14‐6)。
荘厳寺の墓地は二か所に分れている。境内に隣接する墓地には三つ、道路を隔てて北側の墓地にも一つ、山本姓の墓を見付けたが、どれが山本金次郎のものか(あるいは金次郎の末裔のものか)断定はできなかった。なお、歌手でタレントの山本コウタロウ氏は、山本金次郎の末裔なのだそうだ。


荘厳寺

 山本金次郎は文政九年(1826)の生まれ。浦賀奉行所の後、安政二年(1855)、長崎海軍伝習所の第一期生として派遣され、蒸気機関を研究した。咸臨丸のアメリカ派遣には機関長次席格として参加した。帰国後も軍艦操練所教授として後進の指導にあたった。病を得て元治元年(1864)、死去。
 このところ、「幕末の海軍」(神谷大介著 吉川弘文館)、「軍艦奉行木村摂津守」(土居良三著 中公新書)、「浦賀奉行所」(西川武臣著 有隣新書)と、幕末の海軍や浦賀奉行所に関連する書籍を立て続けに読んでいる。「山本金次郎の墓は氷川台の荘厳寺」と記載されていたのがどの本だったか、いくら探しても出典が確認できないでいる。


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