(原宿)

原宿本陣跡
原宿といえば、渋谷区の原宿を思い出すが、実は東海道にも原宿がある。原宿は、東海道の 十三番目の宿場である。
原駅を降りて、東海道を右手に進むと、本陣跡を示す石碑がある。原宿の本陣渡邊家は代々平左衛門家を名乗り、問屋、年寄、名主を務めた。現在も本陣跡には、渡邊家の表札が掲げられている。
慶応三年(1867)韮山農兵の世話係を務めていた世古六太夫(三島宿本陣当主)は、箱根関所を破った薩摩藩邸の副留守居脇田一郎ほか二名を代官手代と協力して原宿一本松にて召し捕っている。
(帯笑園)

帯笑園
原宿本陣跡の近く、浅間神社の向かい側辺りに帯笑園(たいしょうえん)がある。
帯笑園は、素封家植松家の私園で、その名称は六代当主與右衛門秀英(蘭渓)の請いにより、漢学者海保青陵が命名したものである。作庭は戦国時代末期とも伝えられるが、江尾時代後期蘭渓の代にほぼ庭園全体の姿ができあがり、その後も代々の当主が花卉銘木の収集や園内の整備に努めてきた。前庭には、当時としては珍しい温室が設けられ、松や蘇鉄の盆栽や当時流行した珍しい品種や舶来の花卉類の鉢植えが並べられていたという。
幕末から明治期には街道一の名園と讃えられ、東海道を往来する大名、公家、文人などが訪れた。シーボルトもその紀行文の中で「私がこれまでにこの国で見たもののうちでいちばん美しく、鑑賞植物も非常に豊富である」と絶賛している。明治に入ってから伊藤博文も当園を訪れた記録が残る。
その後、時代の変遷とともに、敷地は半分ほどに縮小し、貴重な植物も多くが失われてしまった。

原宿本陣跡
原宿といえば、渋谷区の原宿を思い出すが、実は東海道にも原宿がある。原宿は、東海道の 十三番目の宿場である。
原駅を降りて、東海道を右手に進むと、本陣跡を示す石碑がある。原宿の本陣渡邊家は代々平左衛門家を名乗り、問屋、年寄、名主を務めた。現在も本陣跡には、渡邊家の表札が掲げられている。
慶応三年(1867)韮山農兵の世話係を務めていた世古六太夫(三島宿本陣当主)は、箱根関所を破った薩摩藩邸の副留守居脇田一郎ほか二名を代官手代と協力して原宿一本松にて召し捕っている。
(帯笑園)

帯笑園
原宿本陣跡の近く、浅間神社の向かい側辺りに帯笑園(たいしょうえん)がある。
帯笑園は、素封家植松家の私園で、その名称は六代当主與右衛門秀英(蘭渓)の請いにより、漢学者海保青陵が命名したものである。作庭は戦国時代末期とも伝えられるが、江尾時代後期蘭渓の代にほぼ庭園全体の姿ができあがり、その後も代々の当主が花卉銘木の収集や園内の整備に努めてきた。前庭には、当時としては珍しい温室が設けられ、松や蘇鉄の盆栽や当時流行した珍しい品種や舶来の花卉類の鉢植えが並べられていたという。
幕末から明治期には街道一の名園と讃えられ、東海道を往来する大名、公家、文人などが訪れた。シーボルトもその紀行文の中で「私がこれまでにこの国で見たもののうちでいちばん美しく、鑑賞植物も非常に豊富である」と絶賛している。明治に入ってから伊藤博文も当園を訪れた記録が残る。
その後、時代の変遷とともに、敷地は半分ほどに縮小し、貴重な植物も多くが失われてしまった。