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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

下高井戸

2018年04月06日 | 東京都
(西福寺)


西福寺

 西福寺は、服部頼母増祐なる人物が天正十二年(1584)に開山したといわれる服部家ゆかりの寺である(世田谷区赤堤3‐28‐29)。本堂向かって左には、服部伊賀守墓碑銘が建てられている。駿府奉行、松前奉行、長崎奉行等を歴任した服部貞勝の事績を記したものである。


故伊賀守服部君墓碑銘

 墓地中央には服部一族の墓がある。ここに幕末の当主(貞勝の孫?)服部常純の墓がある。


服部一族の墓

 服部常純は、文化十二年(1815)、禄百石の旗本の家に生まれた。別に帰一(むねかず)、綾雄、佐衛門佐とも称した。安政六年(1859)七月、大番組より天守番之頭に進み、万延元年(1860)三月、二丸留守居、十二月、目付に転じて講武所頭取を兼任した。文久元年(1861)、幕命により外国奉行水野忠徳を長とする小笠原諸島の巡視に参加し、「南島航海日記」を残した。文久二年(1862)十月、小納戸頭取に転じた。文久三年(1863)四月、長崎奉行に進み、外国との折衝に敏腕を振い、済美館を設立して教育に力を尽くした。慶応二年(1866)八月、勘定奉行、翌年五月、海軍奉行並、慶応四年(1868)正月、側衆を歴任して、さらに若年寄に進んだ。徳川家の駿府移封により、沼津に移住して陸軍総括となり、沼津兵学校設立の事務に参与。また移住士族に関する諸制度を確立してその支配に当たった。明治二年(1869)八月、静岡藩の権大参事に任じられ、翌年には大参事に進んで、静岡に転居した。明治四年(1871)、静岡県七等出仕権参事となった。明治六年(1873)、東京に転居して太政官左院に出仕したが、明治八年(1875)左院が廃止された。明治十年(1877)学習院設立とともに教授となり、また自宅において漢学の授業を行った。特に和歌、詩文、書に秀で、武術もよくしたといわれる。明治十二年(1879)、六十五で没。

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巣鴨 Ⅵ

2018年04月06日 | 東京都
(染井霊園 つづき)


香山家之墓(香山栄左衛門の墓?)

 香山家の墓域には栄左衛門の長男、海軍大尉香山永隆(道太郎)の墓がそびえたっているが、栄左衛門が眠るのはその傍らの小さな墓だろうか。
 香山栄左衛門は、嘉永六年(1853)六月三日のペリー来航時、与力取締上席(浦賀奉行所のナンバー3)にあったが、浦賀奉行であり、浦賀最高の役人と身分を偽って接触した。栄左衛門は、「豪華な絹製の、クジャクの羽に似た模様が刺繍されていて、金と銀の縁取りがある」上着を着用していたので、アメリカ側は浦賀奉行と信じて疑わなかった。栄左衛門はサスケハナ号に乗艦し、ブキャナン、アダムス両中佐とコンティ中尉を相手に交渉し、大統領の親書を久里浜で受け取ることを決めた。栄左衛門はペリー側と贈り物の交換や艦上で食事会に招かれ交歓し、信頼関係を築いた。安政元年(1854)のペリー艦隊二度目の来航の際も交渉役を果たし、交渉場所を横浜村の駒形に決めた。しかし、ペリー艦隊が去った直後、富士見宝蔵番に転出した。その後、歩兵指図役頭取、歩兵組改役などを歴任したが、維新後は新政府には仕えなかった。明治十年(1877)、五十七歳にて没。【1種イ5号1側】


宗玄院洞譽澄心義適居士(合原猪三郎の墓)

 合原猪三郎は文政十年(1827)の生まれ。嘉永六年(1853)ペリー艦隊の浦賀来航の際には浦賀奉行所の下役として応接に当り、安政三年(1856)七月、ハリスが下田に来ると、下田奉行支配同心組頭として折衝にあたり、同五年(1868)十一月、下田奉行支配調役並から外国奉行支配調役に進み、万延元年(1860)十月、神奈川奉行支配調役、文久三年(1863)六月、同支配組頭、七月神奈川奉行並を歴任して、十月二丸留守居に進んだ。元治元年(1864)七月、目付に転じて諸大夫となり、伊勢守と称した。慶応元年(1865)五月、持筒頭に転じ、翌閏五月長崎奉行並に任じられたが、さらに翌六月には歩兵頭に転じ、慶応二年(1866)正月、再度目付となり、九月、外国奉行に進み、イギリス在留を命じられたが、十二月役を辞任した。寄合にあること半年、慶応三年(1867)六月、陸軍奉行並に任じ、翌年正月、大目付に進んだが、病気を理由に翌二月辞任した。明治三十四年(1901)、東京本郷竜岡町(現・文京区湯島)にて没した。年七十五。兄合原操蔵も浦賀奉行所与力で、砲術家として知られる。【1種イ7号4側】


釋天心
(岡倉天心の墓)

 明治期の美術指導者であり、思想家でもあり、美術史家岡倉天心の墓である。文久三年(1863)、横浜に生まれた。幼名は角蔵(覚蔵とも)。のち覚三と改め、天心と号した。幼くして英語を習得。長じて東京大学を第一期生として卒業し、文部省に出仕。明治十八年(1885)に東京美術学校の前身となる図画取調掛、翌年美術取調委員を経て、明治二十年(1887)に東京美術学校幹事となり、フェノロサ、狩野芳崖らとともに同校開校に向けて尽力。明治二十三年(1890)、同校校長に就任するが、明治三十一年(1898)、校長排斥運動が起こり非職となる。天心に殉じ辞職した橋本雅邦、横山大観、下村観山らとともに、東京谷中に日本美術院を創立。明治三十七年(1904)からボストン美術館の仕事に携わるようになり、中国日本部部長に就任し、日米間を往復した。著書に英文の「東洋の理想」「日本の覚醒」「茶の本」がある。大正二年(1913)没。

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王子 Ⅳ

2018年04月06日 | 東京都
(お札と切手の博物館)


エドアルド・キヨッソーネ像

 今年は明治百五十年という記念の年である。これに因んで、各地で関連施策特別展が開催されている。忙しい一年になりそうである。
 その中の一つ、「日本近代紙幣の礎となった男たち」が王子駅近くの「お札と切手の博物館」で開催されている。
 日本近代紙幣の礎となった男とは、具体的にはイタリア人技師キヨッソーネと薩摩藩出身で初代印刷局長得能良介の二人である。
 キヨッソーネは、1833年にイタリア北西部のジェノバ市アレンツァーノ村で裕福な商店主の息子として誕生した。十四歳のとき、美術学校に入学し、銅板彫刻技術を学んだ。卒業後は教授の工房で修業を積み、その間に手掛けた「サッコのマドンナ」をはじめとする多くの美術複製版画は、イタリア名画の版画集「イタリア・アルティスティカ」として刊行された。1862年、ミラノ王立ブレラアカデミーの名誉会員になった。キヨッソーネがいつ頃紙幣製造の道に入ったのかは定かではないが、1867年にはすでにイタリア王立銀行で紙幣製造に携わっていた。美術版画から証券印刷への転向の背景には、写真技術の普及があった。銅板彫刻による豊かな写実表現を活かした肖像版画や美術作品の複製版画の需要は、写真技術の普及により取って代わられることになった。キヨッソーネは、自らの技量を紙幣製造の場で発揮させようとし、イタリア紙幣の製造に携わっていたヨーロッパ随一の証券印刷会社であったドイツのドンドルフ・ナウマン社に出向し、紙幣創造のノウハウを学んだ。このとき同社と製造契約を締結した日本の紙幣製造に携わっており、これが来日するきっかけとなった。キヨッソーネは、御雇外国人として明治八年(1875)に紙幣寮に奉職した。当初の契約期間は三年で、報酬は月額454円71銭8厘であった。以来、日本人技師が育つまでの間、原版彫刻技術を伝授する傍ら、彫刻技師として自ら製品の原板彫刻を担当した。地券状、煙草鑑札札、煙草印紙のほか、切手や国立銀行紙幣などこの時期のほとんどの紙幣寮の製品の原版彫刻を手掛けた。
 キヨッソーネの伝授した複製技術は、電胎法といい、化学的手法によって原版から反転型をとること繰り返し、複製版をつくるというもので、この技術によって原版の正確な複製を作成することができ、均質な製品の大量製造を実現させた。キヨッソーネのもたらした技術により、偽造防止の面においても飛躍的に向上したが、キヨッソーネ自身は偽造防止に効果を発揮するのは芸術性にほかならないと信じていた。その真骨頂は明治十四年から同十六年(1881~1883)に発行された改造紙幣に表れている。我が国で初めて人物肖像を描いた紙幣で、肖像は記紀に登場する神功皇后であった。キヨッソーネは、史料を読み込んで対象人物のイメージを固めたのち、実在の人物をモデルとしてこの肖像彫刻に臨んだ。明治二十四年(1891)に印刷局を退職するまで原版彫刻技師として第一線で勤務し続け、その実直な人柄と勤勉さをもって印刷局における技術の基盤をつくった。「日本近代紙幣の父」と称される。


得能良介像

 得能良介は、文政八年(1825)、薩摩藩士得能直介の長男に生まれた。十七歳で薩摩藩に出仕し、国事に奔走した。明治三年(1870)、大久保利通の推挙により、民部大丞兼大蔵大丞に任じられた。しかし、明治五年(1872)、出納帳簿の様式改正を巡って渋沢栄一と衝突し、暴力をふるったため免職となり、一旦司法省に出仕した。明治七年(1874)、五十歳のとき、紙幣頭に着任。得能は、国家の経済的基盤をなす紙幣の製造を外国に依存することは危険であるとして、国内生産を主張し、動力機械の導入と外国人技術者の雇用を訴え実現した。明治十一年(1878)には初代印刷局長に就任した。通貨史の編纂を建議し、明治十年(1877)、「大日本貨幣図」全四十六巻に結実した。明治十六年(1883)、在職のまま逝去。五十九歳。


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靖国神社 Ⅶ

2018年04月06日 | 東京都
(二松学舎大学)


中洲三島先生像

 二松学舎大学は、三島中洲(毅)が創立した漢学塾二松學舎を引き継いだ学校である。歴代の舎長には、渋沢栄一や金子堅太郎らが名を連ねる。
 三島中洲は、天保元年(1830)、備中中島村(現・倉敷市)に生まれ、陽明学舎山田方谷に学んだ。維新後は、明治政府に仕えて大審院判事・検事、東京大学教授、東宮侍講等を務めた。明治十年(1877)十月十日、三番町(当時は麹町一番町)に漢学塾二松學舎を創立し、多くの子弟を育成し、漢学、東洋学の発展に尽力した。

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