(西福寺)

西福寺
西福寺は、服部頼母増祐なる人物が天正十二年(1584)に開山したといわれる服部家ゆかりの寺である(世田谷区赤堤3‐28‐29)。本堂向かって左には、服部伊賀守墓碑銘が建てられている。駿府奉行、松前奉行、長崎奉行等を歴任した服部貞勝の事績を記したものである。
故伊賀守服部君墓碑銘
墓地中央には服部一族の墓がある。ここに幕末の当主(貞勝の孫?)服部常純の墓がある。

服部一族の墓
服部常純は、文化十二年(1815)、禄百石の旗本の家に生まれた。別に帰一(むねかず)、綾雄、佐衛門佐とも称した。安政六年(1859)七月、大番組より天守番之頭に進み、万延元年(1860)三月、二丸留守居、十二月、目付に転じて講武所頭取を兼任した。文久元年(1861)、幕命により外国奉行水野忠徳を長とする小笠原諸島の巡視に参加し、「南島航海日記」を残した。文久二年(1862)十月、小納戸頭取に転じた。文久三年(1863)四月、長崎奉行に進み、外国との折衝に敏腕を振い、済美館を設立して教育に力を尽くした。慶応二年(1866)八月、勘定奉行、翌年五月、海軍奉行並、慶応四年(1868)正月、側衆を歴任して、さらに若年寄に進んだ。徳川家の駿府移封により、沼津に移住して陸軍総括となり、沼津兵学校設立の事務に参与。また移住士族に関する諸制度を確立してその支配に当たった。明治二年(1869)八月、静岡藩の権大参事に任じられ、翌年には大参事に進んで、静岡に転居した。明治四年(1871)、静岡県七等出仕権参事となった。明治六年(1873)、東京に転居して太政官左院に出仕したが、明治八年(1875)左院が廃止された。明治十年(1877)学習院設立とともに教授となり、また自宅において漢学の授業を行った。特に和歌、詩文、書に秀で、武術もよくしたといわれる。明治十二年(1879)、六十五で没。

西福寺
西福寺は、服部頼母増祐なる人物が天正十二年(1584)に開山したといわれる服部家ゆかりの寺である(世田谷区赤堤3‐28‐29)。本堂向かって左には、服部伊賀守墓碑銘が建てられている。駿府奉行、松前奉行、長崎奉行等を歴任した服部貞勝の事績を記したものである。

故伊賀守服部君墓碑銘
墓地中央には服部一族の墓がある。ここに幕末の当主(貞勝の孫?)服部常純の墓がある。

服部一族の墓
服部常純は、文化十二年(1815)、禄百石の旗本の家に生まれた。別に帰一(むねかず)、綾雄、佐衛門佐とも称した。安政六年(1859)七月、大番組より天守番之頭に進み、万延元年(1860)三月、二丸留守居、十二月、目付に転じて講武所頭取を兼任した。文久元年(1861)、幕命により外国奉行水野忠徳を長とする小笠原諸島の巡視に参加し、「南島航海日記」を残した。文久二年(1862)十月、小納戸頭取に転じた。文久三年(1863)四月、長崎奉行に進み、外国との折衝に敏腕を振い、済美館を設立して教育に力を尽くした。慶応二年(1866)八月、勘定奉行、翌年五月、海軍奉行並、慶応四年(1868)正月、側衆を歴任して、さらに若年寄に進んだ。徳川家の駿府移封により、沼津に移住して陸軍総括となり、沼津兵学校設立の事務に参与。また移住士族に関する諸制度を確立してその支配に当たった。明治二年(1869)八月、静岡藩の権大参事に任じられ、翌年には大参事に進んで、静岡に転居した。明治四年(1871)、静岡県七等出仕権参事となった。明治六年(1873)、東京に転居して太政官左院に出仕したが、明治八年(1875)左院が廃止された。明治十年(1877)学習院設立とともに教授となり、また自宅において漢学の授業を行った。特に和歌、詩文、書に秀で、武術もよくしたといわれる。明治十二年(1879)、六十五で没。