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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

新宿 Ⅲ

2014年07月06日 | 東京都
(正受院)


正受院


川邨閑斎寿蔵碑(川村脩就墓)

 正受院は、明治二十六年(1893)十二月、松平容保が死去した際に、当初葬られた寺院である(のちに会津若松の松平家院内御廟に改葬)。
正受院墓地には幕臣川村脩就(ながたか)の墓がある(新宿区新宿2‐15‐20)。川村脩就は、天保十四年(1843)、それまで長岡藩領であった新潟港が天領となって、新潟奉行が置かれることになると、その初代奉行に抜擢された。背後には、時の老中、水野忠邦の強い後ろ盾があったと言われる。その後も堺奉行、大阪町奉行、長崎奉行といった要職を歴任した。慶応三年(1867)に家督を譲ったが(閑斎と号す)、以降も東京に居住し、明治十一年(1878)に八十四歳で没した。
正受院の墓の前には、脩就の没後、彼を慕う人たちが献呈した石燈籠があったが、平成十七年(2005)に新潟市(歴史博物館?)に寄贈されたそうである。

(太宗寺)


太宗寺

 太宗寺の広い境内は、新宿の繁華な街に囲まれている(新宿区新宿2‐9‐2)。太宗寺は、新宿に下屋敷(現・新宿御苑)を有していた信州高遠藩主内藤氏の菩提寺として発展した寺で、入口近くには江戸六地蔵の一つである銅製の地蔵菩薩が安置されている。


内藤頼直墓

 墓地を入って正面に突き当りが高遠藩主内藤家の墓域である。正面が五代正勝のものである。かつて内藤家墓地には三百坪、五十七基もの墓があったらしいが、昭和二十七年(1952)、都の区画整理事業に伴い現存の三基に改装したという。
 幕末の藩主十三代頼直は、安政六年(1859)に家督を継いで以来、文久元年(1861)の和宮下向や翌年の生麦事件、元治元年(1864)の天狗党の藩領通過、慶応四年(1868)の戊辰戦争など、多事多難な時代の藩主を務めた。明治十二年(1879)死去。

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四ツ谷 Ⅴ

2014年07月06日 | 東京都
(宗福寺)


宗福寺


大道院義心居士 俗名山浦環 刀名源清麿墓

 源清麿は江戸後期を代表する刀工の一人で、本名を山浦環といった。文化九年(1812)、信州小諸に生まれ、上田の刀匠河村寿隆について鍛冶を学び、天保六年(1835)、江戸に出て幕臣窪田清音のもとで兵学を学ぶ傍ら、刀工として精進した。その後、四ツ谷北伊賀町(現・三栄町)に居を構えて刀剣の製作に励み、名も源清麿と改めた。新々刀(江戸時代後期の刀)の第一人者として、天保・弘化年間に活躍した。その刀の切れ味は、正宗のようだといわれ、「四谷正宗」と呼ばれた。安政元年(1854)、四十二歳にて自害。自害の理由については諸説あり、酒毒のため作刀できなくなったことを悲観したとも、幕府に追われた末の自害ともいわれる。


水心子天秀之墓

やはり江戸後期に活躍した新々刀の刀工、初代水心子天秀と三代水天子正次の墓が、源清麿の墓と並べられている。

(西念寺)


西念寺

 西念寺は、服部半蔵正成の開いた寺で、服部氏の菩提寺である。半蔵が守役を務めた徳川信康(家康の長男)の供養塔も境内にある。


西蓮院殿従五位下朝散太夫梵誉勝運大居士
(勝田充の墓)

 墓地入口近くに勝田充の墓がある。墓石の左右には儒官古賀茶渓の墓碑銘が刻まれている。
 勝田充(みつる)は勝田弥十郎の二男で、通称は次郎といった。安政元年(1854)、勘定吟味役、同五年(1858)には神奈川開港取調掛を命じられ、外国奉行を補佐して横浜開港を実現させた。万延元年(1860)には箱館奉行から再び勘定吟味役となって江戸城本丸普請掛に出精し、時服・黄金などを下賜された。


山口義方墓

 山口義方は、山城国川嶋村の庄屋の出身。通称は薫次郎。晩年は山口直と名乗った。勤王志士と交わり、地元に塾を開いて尊王を説いた。安政の大獄に嫌疑を受けて、一時丹波に潜んだ。その後、長州藩公用を務めた。禁門の変で妻子が捕縛され、家財を没収された。毛利家の家臣として終身禄を与えられた。維新後、ようやく帰郷することができた。明治六年(1873)、東京にて死去。五十八歳であった。小さな墓石の側面には、「山城国葛野郡川嶋住 京都府士族山口氏」と彫られている。この墓もなかなか見つけられなくて、二回目の訪問で遭遇することができた。出身地である京都市西京の冷聲院にも墓がある。

(全勝寺)


全勝寺

 全勝寺(新宿区舟町11)は、明和事件で処刑された尊王家山県大弐の墓および記念碑がある。幕末とは時代が異なるが、明治維新の百年も前に幕府を批判し、幕末の志士にも大きな影響を与えたといわれる。


真諦院殿徹信忠翁大居士(佐久間信久墓)

 佐久間信久は幕臣。近江守、遠江守を称した。歩兵奉行。慶応四年(1868)一月三日、鳥羽伏見にて戦死。三十六歳。
 正面に戒名を刻んだ墓には、側面に「慶應四年正月十六日 佐久間氏」と記されている。


朝比奈家累代之墓(朝比奈昌広墓)

 朝比奈昌広は元治元年(1864)長崎奉行。慶応元年(1865)には長崎奉行を兼任。慶応二年(1866)二月、イタリア使節アルミニョンと日伊通商条約を結んだ。翌年、外国惣奉行並と江戸南町奉行を兼て、江戸の外国人居留地の管理を取り仕切った。同年十二月の薩摩藩三田屋敷の焼き討ちには最後まで反対した。朝比奈家累代の墓に合葬されるが、側面に「徳眼院殿閑水圓悟大居士 明治三十八年八月二十一日」とある。享年七十七。

(西迎寺)


西迎寺 阿弥陀如来像


松平家累代之墓(松平信敏の墓)

 松平信敏は、幕臣。通称勘太郎。文久三年(1863)五月、大阪西町奉行となり、勝海舟と製鑑所創設のため神戸に出張。元治元年(1864)長州藩の大挙上京をいちはやく大阪城代に報じた。慶応元年(1865)十月、英仏蘭艦隊が大阪湾に現れると、仏艦キャンシャン号に出向いて来意を糺した。その後、大目付、大阪東町奉行を経て、慶応四年(1868)一月には勘定奉行に就いたが、在職わずか二十三日で寄合席に移された。明治三十六年(1903)四月、没。


齋藤家之墓(中野梧一の墓)

 中野梧一の墓である。旧姓斎藤辰吉といい、斎藤家の墓に合葬されている。
 文久二年(1862)、勘定評定所留役介に出仕。元治元年(1864)、出羽国屋代郷の農民一揆鎮圧に赴き、過酷な弾圧を行った。慶応四年(1868)彰義隊に加わった。箱館に走って、降伏後、東京で禁錮。明治三年(1870)釈放されると、中野梧一と改名した。明治四年(1871)、井上馨に抜擢されて、山口県に赴任。翌年、権令に進んで、全国に先んじて地租改正を断行した。明治八年(1875)、山口県令を辞して大阪に移り、財界に入ったが、明治十六年(1883)、謎の猟銃自殺を遂げた。四十三歳。
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