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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

油小路 Ⅱ

2014年07月11日 | 京都府
(ハトヤ瑞鳳閣)


此付近 新選組最後の洛中屋敷跡

 京都駅の近く、ハトヤ瑞鳳閣というホテルの前に最近「新選組最後の洛中屋敷跡」という石碑が建立された(下京区西洞院通塩小路角)。
 慶応三年(1867)六月、新選組は「七条堀川下る」に新しい屋敷を構え、入居した。正確な場所は特定できていないが、「此付近」であることは確実のようである。同年十二月の王政復古、それに続く鳥羽伏見の戦争により、新選組は京都を離れることになる。従って、新選組がこの地に本拠を置いたのは、半年余りのことであった。

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霊山・高台寺 Ⅳ

2014年07月11日 | 京都府
(霊山護国神社)


戸原卯橘継明霊

 福岡藩招魂場に、秋月藩(福岡藩の支藩)出身の戸原卯橘(うきつ)の墓がある。戸原卯橘は、天保六年(1835)の生まれ。二十歳のとき熊本の儒者木下業広(韡村)の門に入り、また江戸に出て塩谷世弘(宕陰)に学んだ。秋月藩士海賀宮門と交際して尊王論を唱え、文久二年(1862)久光が上京するや、海賀と平野國臣(福岡藩)に報じ、東西声息を通じようとしたが、このため嫌疑を受けて国元で幽閉された。翌年六月、許されて、八月脱藩して長州に走り七卿に謁した。そこで中山忠光の大和挙兵を聞き、これに応ずるために平野とともに但馬に赴き、生野で兵を挙げた。しかし、利あらず長州藩の河上彌市(南八郎と変名)らとともに妙見山にて自刃した。年二十九。


太田六右衛門雅義墓


明暗寺徒素行墓

 太田六右衛門は但馬国朝来郡竹田町の庄屋出身。幼少の頃から書を好み、武技を嗜んだ。天保七年(1836)、朝来を襲った飢饉では米庫を開いて賑恤し、人望があった。のち会沢正志斎の「新論」を読んで感ずるところあり、子弟を集めて大義を説き、家産を傾けて四方の志士と交わった。文久三年(1863)の生野の挙兵に加わり、澤宜嘉の密書を携えて出石藩に使いしたが、その途次、養父郡米地村で鎮圧出兵の出石藩兵に捕えられて投獄され、元治元年(1864)京都に送られ六角獄舎に投じられた。のち獄死。年四十三。

 太田六右衛門の墓の近くにある「明暗寺徒素行墓」とあるのは、本多素行のものである。
 本多素行(小太郎)は、文政三年(1820)、膳所藩の出身。天下を周遊するため自ら科を犯して永の暇を賜り、京都の明暗寺に入って虚無僧となった。以後、但馬国養父郡明暗寺の出張所に起居し、四方の志士と交わった。文久三年(1863)の生野挙兵では、大和挙兵の破陣を受け、自重を澤宜嘉に説いたが容れられず。僧形に扮して遁れたが、福崎で姫路藩兵に捕らわれ、京都六角獄舎で斬られた。年四十五。


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清水 Ⅲ

2014年07月11日 | 京都府
(善立寺)


善立寺

 慶応三年(1867)三月、新選組を離れた伊東甲子太郎以下十三名は城安寺に入り、翌日五条の善立寺に移った。当時、善立寺は、五条大橋東詰にあったようであるが、第二次世界大戦後、現在地(東山区松原通大和大路東入二丁目轆轤町119-2)に移転している。現在、善立寺は、寺というより外観上は幼稚園にしか見えない。

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