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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「ビゴー日本素描集」「続ビゴー日本素描集」 清水勲編 岩波文庫

2014年04月27日 | 書評
近々、実家が大阪から京都に引っ越すというので、両親が片付けに追われている。この本は父親の本棚から出てきたもので、昭和六十一年(1986)に発刊された、少し古い本である(続編の方は、平成四年(1992)の発刊)。
フランス人ビゴーは、明治十五年(1882)二十一歳のとき来日し、明治三十二年(1899)までの十八年間、日本を描き続けた風刺画家である。その旺盛な好奇心と観察眼、取材意欲に圧倒される。
冒頭紹介されているのは、明治二十二年(1889)に東京・神戸間が開通した東海道線の様子である。当時の車両は一等から三等に分れていた。当時、新橋―神戸間の三等車両の運賃は三円七十六銭。二等は、その倍以上の七円五十三銭。一等になると十一円二十八銭というから、三等の三倍以上となる。当時の巡査の初任給が八円というから、運賃の水準が実感できるだろう。ビゴーは卓越した観察眼で、一等・二等・三等の乗客を描き分ける。一等の乗客となると、華族、高級官僚、実業家という富裕層である。現代でも「格差社会」が問題になっているが、明治のわが国は、現代以上に格差社会であったことが一目瞭然である。
この時代の人たちのファッションにも注目である。和服に西洋風の帽子と色眼鏡を着用し、足もとは草履や下駄という和洋折衷のいでたちが目につく。ビゴーにしてみれば、このファッションだけでも十分笑えただろう。日本人にとっては当たり前で記録するに値しないような事柄でも、外国人であるビゴーには興味の対象となったのである。ビゴーのスケッチを通じて、我々は当時の風俗を知ることができる。登場する日本人の多くが出っ歯の猿のように描かれているのは少々気になるが…
ビゴーは明治十五年(1882)から二年間、陸軍士官学校の画学教師を務めた。その立場を利用したものか、普通では目にすることができないような軍の内側をいつくも描いている。身体検査の様子や、酔っ払って朝帰りする兵士の姿、憲兵につかまって兵営に連れ戻される脱走兵など、今となっては貴重な証言である。
次に紹介されている「芸者の一日」「娼婦の一日」では、さらに裏舞台に潜入している。上半身裸になって洗顔する娼婦や入浴する芸者など、どうやってスケッチしたのか分からないが、相当な執念がないと描くことができないものである。
続編の方では、日露戦争へと突き進む日本の事件を対象にしたものを多く紹介している。第一回総選挙や鹿鳴館の様子を描いた風刺画は、今日、我々が風刺画と聞いて連想するような(たとえば山藤章二氏の風刺画のような)アイロニーの効いた作品となっている。
著者清水勲氏は、漫画・風刺漫画研究の第一人者。ビゴーの観察眼も鋭いが、そのビゴーの風刺画を見る著者の眼もまた鋭い。


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「殿様は「明治」をどう生きたのか」 河合敦 洋泉社歴史新書

2014年04月27日 | 書評
江戸時代、ピラミッドの頂点にいた殿様は、明治を迎えるとまさに「過去の遺物」となった。これが建物や工芸品であれば朽ちて埋もれてしまえば済む。しかし、殿様は生身の人間である。彼らも明治という新しい時代を生きていかなければならなかった。
当然ながら、全国三百藩を治めていた殿様には、その数だけ生き様があった。うまく明治の世に適合できた人もいれば、不遇に終わった人もいる。
本書では十四人の殿様の後半生を取り上げている。勝ち組・負け組が明確に分けられるわけではないが、ざっと見た限り、過半は明治の世にうまく適合できなかったのではないか。本書で紹介されている人物で、成功例といえるのは徳川家達、蜂須賀茂韶、浅野長勲、岡部長職くらいのものだろうか。当事者には申し訳ないが、新しい世で必死にもがいている姿を俯瞰するのは大変興味深い。それが本書の面白味である。
松平容保、定敬、徳川慶勝兄弟や林忠崇、山内容堂、徳川家達、上杉茂憲などは、他書でも読むことができる比較的著名な例である。欲をいえば、もっと知られざる殿様を紹介して欲しかった。


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「西郷隆盛の首を発見した男」 大野敏明 文春新書

2014年04月27日 | 書評
明治十年(1877)九月二十四日、官軍の総攻撃の前に遂に薩軍は壊滅する。このとき西郷隆盛の生死は、政府にとって非常に重要な問題であった。もし、西郷の死が確認できなければ、西郷生存説が流れ、政府はいつまでも西郷の幻影におびえることになるだろう。実際、西郷の戦死が確認されたにもかかわらず、庶民の間では「西郷は生きている」「ロシアに渡った」「いや、インドにいる」といった噂が飛び交った。仮に西郷の首が見つからなければ、こういった噂はさらに信憑性を増して人々の話題に上ったことだろう。
西郷の首が発見された場面を、司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」で見てみる。
――― ほどなく首が発見され、千田という中尉が、首級を発見した前田恒光という兵卒をつれてそれを持参した。首は泥で汚れていた。山県がそれを付近の泉で洗わせた。

ここに登場する「千田という中尉」が本書における主人公である。「翔ぶが如く」には恐らく数千という人物が登場するが、千田登文中尉が登場するのはこの場面だけである。本書では千田が残した「履歴書」をもとに幕末から明治を生き抜いた一人の軍人の生涯を描いてみせた。
千田登文は、加賀藩士である。藩主の命を受けて戊辰戦争に従軍したのを皮切りに、西郷の首を発見するという大手柄を立てた西南戦争、さらに日清・日露戦争にも参戦した。代表的な明治軍人の履歴である。また四人の息子は全員が陸軍士官学校に入り、娘婿四人のうち三人までが陸軍士官学校、陸軍大学校を優秀な成績で卒業したエリートであった。
千田が残した「履歴書」は、陸軍が将校の経歴書を作成するために提出させたものらしく、事務的に事実を羅列しているに過ぎない。それでも長男登太郎が戦死、三男木村三郎は切腹するなど、波乱に富んだ生涯をうかがい知ることができる。
各方面から千田登文に送られた文書が掲載されるが、「人と為り謹厚瑞厳」「品行端正」「人格高潔識見高邁」「志操堅固」という文字が続く。この人の生き様が透けて見えるようである。
三男木村三郎は、皇太子(のちの昭和天皇)御行啓のもと大演習で敗北する失態を演じ、それを恥じて切腹して果てた。まだ三十三歳という若さで、あとには妻と幼い三人の子が残された。このことについて「履歴書」には「責任観念のため自刃」と事務的に記されているのみである。
木村家では、武家のしきたりそのままに食事の際は、当主、前当主、次期当主だけが膳を並べて食事したという。そのような精神風土だったからこそ、演習の失態という、我々からみれば「それくらいのことで」自分の命を差し出してしまうのである。既に大正の世を迎えていたが、まだ武士の精神が生きていた時代でもあった。


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「ある幕臣の戊辰戦争」 中村彰彦 中公新書

2014年04月27日 | 書評
本書は「脱藩大名の戊辰戦争」の姉妹編である。副題に「剣士伊庭八郎の生涯」とある通り、本書の主役は伊庭八郎である。脱藩大名こと林忠崇の戊辰戦争は、常識破りの奇行であった。伊庭八郎のとった行動も、林忠崇ほどのインパクトはないにしろ、我々の心を捕えて放さないものがある。
箱根における戦闘で、伊庭八郎は左腕を失う。この負傷で戦闘意欲を失うどころか、益々戦闘的になっていく。美加保丸で榎本艦隊とともに北を目指した。しかし、美加保丸は銚子沖で遭難し、伊庭八郎らは、命からがら上陸した。八郎はこのアクシデントにもくじけず、箱館行きを切望する。隻腕となった彼が単身潜行するのは不可能であった。彼は「北走の望み全く絶え果てば、必ず自尽すべし」(尺振八が伊庭八郎を救いたる始末)と覚悟を決めていたらしい。周囲の知人友人が寄ってたかって八郎の箱館行きを支援した。尺振八、中根香亭、本山小太郎らの献身的な支援により、彼は榎本軍との合流を果たす。伊庭八郎は「眉目秀麗、俳優の如き美男子」だったといわれるが、女性だけでなく、同性からも慕われる好い男だったのだろう。
伊庭八郎は、明治二年(1869)五月、木古内における戦闘で被弾し、その傷がもとで戦死した。立ち会った田村銀之助の証言によれば、薬を飲み干して眠るが如く落命したという。命よりも名を惜しむという美的感覚はこの時代特有の価値観かもしれないが、現代人の心を揺さぶるものがあるのも事実である。


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「赤い人」 吉村昭 講談社文庫

2014年04月27日 | 書評
先月、北海道を旅し、月形町まで足を伸ばしたこともあり、吉村昭の「赤い人」を読んでみたいと思った。司馬遼太郎先生は、この本を読んで「数日茫然とした」と評している。
題名の「赤い人」というのは、当時の囚人が全身朱色の囚人服を身にまとっていたことに拠っている。佐賀の乱から西南戦争に至る内乱が続発し、明治十年代の我が国には、監獄が追いつかないくらい国事犯が多数牢に繋がれていた。そこで政府は、彼らを人民から隔離するため北海道に集治監を開くことを決定する。
札幌の街を出て、江別、当別、樺戸と北上すると、見渡す限り平原が広がる。ドライブするにはちょっと退屈な風景であるが、樺戸集治監が開かれた明治十年代、この辺りは手着かずの原生林であった。時の明治政府は、囚人を労働力としてこの未開の原野を開拓しようとしたのである。この単調に続く平野が、実は囚人の血で贖われたものだと知ってしまうと、この風景を見る目が変わってくるだろう。北海道に住む人、北海道を旅行しようという方には、是非読んでいただきたい一冊である。
現代の人権意識を、そのままこの時代に持ち込んで批判することは意味の無いことであるが、それにしても薄い毛布を与えられただけで、手袋も足袋もなく厳冬の地で労働に従事させられるのは、ほぼ死刑宣告を受けたに等しい。実際に、十分な食事も与えられない囚人たちは、凍傷により耳や手足を失い、次々と斃死する。ざっと二割の囚人が命を落としていった。
座して死を待つよりも、一か八か脱走して自由を手に入れようと考えるのも、人間として当然の成り行きであろう。雪解けを待っていたかのように、次から次へと脱走者が出るが、彼らは看守たちの執拗な追捕の網にかかって連れ戻される。その場で抵抗すれば斬殺されるだけである。彼らの命は、虫けらよりも軽い。
現代の刑務所事情は、明治の頃を思えば格段の改善である。暖房完備、栄養の行き届いた食事が供される環境に戻りたくて、出獄後、再び罪を犯す不届者までいるというから、余程居心地が良いのだろう。今さら明治の監獄に戻すというのはあり得ないが、服役を目的とするのであれば、「二度とあの場所に戻りたくない」と思わせるものでなければいけない。
月形町の町名は、初代典獄(署長)月形潔に因んだものである。彼がこの地を集治監の開設場所に選んだこと、そして彼の指導のもと囚人たちの手によりこの地が開拓されたことが、今日の月形町の出発点になったことは間違いない。月形潔はこの地に骨を埋める覚悟であった。典獄として着任する際、戸籍をここに移したという。月形自身も、この過酷な環境下での激務に耐えかね体調を崩し、遂には療養のため集治監を離れることになった。彼自身も樺戸集治監の犠牲者だったのかもしれない。しかし典獄として、あと少しの配慮と熱意があれば、もう少し囚人の命を救うことができたのではないか。虫けらのように死んでいった無名の囚人のことを考えると、手放しで月形潔のことを称揚するのもどうかという気がするのである。
囚人を道路工事や炭山や硫黄鉱山労働に従事させることは、国家の方針でもあった。金子堅太郎は欧米の滞在経験を持つ、当時としては見識のある人物であるが、彼をして「囚人は暴戻の悪徒ゆえに苦役に耐えず斃死すれば国の支出が軽減される」と言わしめているのである。これが当時の政府高官の大方の見解であった。
わずか百年余り前の我が国では、国会の開設や自由民権運動が華やかに展開される裏舞台で、目を覆いたくなるような人権無視の歴史が存在していた。しかも、それが国家の意思として行われていたのである。国家権力の恐ろしさを痛切に感じることができる一冊でもある。


コメント (4)
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