何時ともしれない箱館史跡旅行のことを夢見ながら、少しずつ情報を集めているところである。箱館戦争に関する書籍は、本屋に行けばいくらでも見つけられるが、この本は、彰義隊に焦点を当てたところがユニークである。そもそも彰義隊と振武軍が箱館まで移動して抗戦していたことなど、この本で初めて知った次第である。
彰義隊は、江戸で徹底抗戦を主張する天野八郎らと、慶喜が水戸へ退去した以上、江戸で抗戦すべきでないとする渋沢成一郎らとの間で意見が対立し、遂に渋沢らは隊を離脱して振武軍を結成する。
彰義隊が上野戦争で敗北したのは周知のとおり。振武軍も飯能で撃退された。彰義隊、振武軍も、その一部が箱館に移って、そこで最期の戦いに挑んだのである。
箱館に集結した彰義隊は、菅沼三五郎、池田大隅、大塚霍之丞、丸毛牛之助(靱負)らを幹部とする大彰義隊と、渋沢成一郎らを首領とする小彰義隊とに再分裂する。彰義隊が箱館で分裂した詳細は不明であるが、松前城突入の際、渋沢成一郎が金蔵へ行って天保銭を持ちだしたことが理由ともいう。いずれにせよ、渋沢派と反渋沢派両派の間には、修復不可能な溝ができてしまった。
渋沢成一郎は、維新後渋沢喜作と名を変え、財界で活躍した人物であるが、リーダーシップのある人であると同時に、個性の強い人だったのかもしれない。人間の集団というものは、対立や衝突がつきものであるが、一方で軍事組織というのは、「戦争に勝つ」という目的に向かって、シンプルでなければならない。そこに対立や衝突が生じ、さらには組織のトップである榎本武揚までが乗り出して両派の調停を図ることになった。渋沢成一郎という人は、あまり一軍のリーダーには、向かない人だったのかもしれない。
彰義隊は、江戸で徹底抗戦を主張する天野八郎らと、慶喜が水戸へ退去した以上、江戸で抗戦すべきでないとする渋沢成一郎らとの間で意見が対立し、遂に渋沢らは隊を離脱して振武軍を結成する。
彰義隊が上野戦争で敗北したのは周知のとおり。振武軍も飯能で撃退された。彰義隊、振武軍も、その一部が箱館に移って、そこで最期の戦いに挑んだのである。
箱館に集結した彰義隊は、菅沼三五郎、池田大隅、大塚霍之丞、丸毛牛之助(靱負)らを幹部とする大彰義隊と、渋沢成一郎らを首領とする小彰義隊とに再分裂する。彰義隊が箱館で分裂した詳細は不明であるが、松前城突入の際、渋沢成一郎が金蔵へ行って天保銭を持ちだしたことが理由ともいう。いずれにせよ、渋沢派と反渋沢派両派の間には、修復不可能な溝ができてしまった。
渋沢成一郎は、維新後渋沢喜作と名を変え、財界で活躍した人物であるが、リーダーシップのある人であると同時に、個性の強い人だったのかもしれない。人間の集団というものは、対立や衝突がつきものであるが、一方で軍事組織というのは、「戦争に勝つ」という目的に向かって、シンプルでなければならない。そこに対立や衝突が生じ、さらには組織のトップである榎本武揚までが乗り出して両派の調停を図ることになった。渋沢成一郎という人は、あまり一軍のリーダーには、向かない人だったのかもしれない。