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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「上野彰義隊と箱館戦争史」 菊池明著 新人物往来社

2013年03月23日 | 書評
何時ともしれない箱館史跡旅行のことを夢見ながら、少しずつ情報を集めているところである。箱館戦争に関する書籍は、本屋に行けばいくらでも見つけられるが、この本は、彰義隊に焦点を当てたところがユニークである。そもそも彰義隊と振武軍が箱館まで移動して抗戦していたことなど、この本で初めて知った次第である。
彰義隊は、江戸で徹底抗戦を主張する天野八郎らと、慶喜が水戸へ退去した以上、江戸で抗戦すべきでないとする渋沢成一郎らとの間で意見が対立し、遂に渋沢らは隊を離脱して振武軍を結成する。
彰義隊が上野戦争で敗北したのは周知のとおり。振武軍も飯能で撃退された。彰義隊、振武軍も、その一部が箱館に移って、そこで最期の戦いに挑んだのである。
箱館に集結した彰義隊は、菅沼三五郎、池田大隅、大塚霍之丞、丸毛牛之助(靱負)らを幹部とする大彰義隊と、渋沢成一郎らを首領とする小彰義隊とに再分裂する。彰義隊が箱館で分裂した詳細は不明であるが、松前城突入の際、渋沢成一郎が金蔵へ行って天保銭を持ちだしたことが理由ともいう。いずれにせよ、渋沢派と反渋沢派両派の間には、修復不可能な溝ができてしまった。
渋沢成一郎は、維新後渋沢喜作と名を変え、財界で活躍した人物であるが、リーダーシップのある人であると同時に、個性の強い人だったのかもしれない。人間の集団というものは、対立や衝突がつきものであるが、一方で軍事組織というのは、「戦争に勝つ」という目的に向かって、シンプルでなければならない。そこに対立や衝突が生じ、さらには組織のトップである榎本武揚までが乗り出して両派の調停を図ることになった。渋沢成一郎という人は、あまり一軍のリーダーには、向かない人だったのかもしれない。

コメント (4)
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「合葬」 杉浦日向子著 ちくま文庫

2013年03月23日 | 書評
そもそも漫画にアレルギーがある。それに大の大人が電車で漫画を開いてニヤけている姿など、恥ずかしくて他人様に見せられたものではない。というわけで、久しく漫画を読んだことはなかったのだが、たまたま本屋で「幕末を描いた作品は数あれど 間違いなく傑作」「営業担当者がオススメします 読み終えた後しばらく心が震えました」という帯の売り文句を見て、これにつられて購入した。
作品は江戸の三人の若者が上野戦争に巻き込まれる様子を描いたものである。江戸文化に造詣の深い作者の時代考証の正確さが見て取れる。その点では安定感のあるものである。
とはいえ、やはり漫画を読みなれないせいか、登場人物を絵だけで識別するのが難しく、途中からどれが誰だか分からなくなってしまった。作品は全部で二百ページに満たない程度のボリュームなので、通勤の片道で十分読み終えることができる。二回繰り返して読んでようやくストーリーを理解することができた。そんな調子では、とてもとても感動したり、心が震えたりすることもなく、結局漫画に対する苦手意識が増幅しただけであった。

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「幕末の水戸藩」 山川菊栄著 岩波文庫

2013年03月23日 | 書評
最近すっかり古本づいているが、「幕末の水戸」も古本屋で見つけた一冊である。つい最近まで普通に書店で入手できたのだが、いつの間にか姿を消していた。
この日、息子の通う高校の学園祭を見に行くために国立を歩いていて、ふいと立ち寄った駅前の古本屋で、この本を発見した。四百円だったので、定価より安い。
著者山川菊栄は、社会運動家山川均夫人で、祖父は水戸藩の儒学者青山延寿である。幕末の水戸といえば、激しい派閥間闘争が展開されたが、学者の家だけに比較的青山家は中立であったといえよう。それでいて抗争を近くで観察していた家だけに、臨場感のある証言が盛り沢山である。
戊午の密勅の返還問題が持ち上がったとき、返還に反対する尊攘激派は、水戸街道の小金宿に集合した。彼らを説得するために斉昭の命を受けて派遣されたのが、当時の青山家の当主、青山延光であった。斉昭の信任の厚かったことが覗われる。青山家が一枚岩だったかというと、そういうわけではない。このとき末弟延寿は、尊攘派に合流して気勢を上げていたのである。
桜田門外の変に参加した水戸浪士は、桜田烈士と称えられヒーロー扱いされているが、その中の一人、佐野竹之助を「有名なあばれ者」という表現を用いて、非常に批判的に描いている。
かたや同じく桜田門外の変の実行部隊の一人で、維新後まで生き残った海後磋磯之介に対しては「まことにおちついた、口数の少ない、いい人」と好意的である。同じ桜田烈士と呼ばれる人たちでも、人物品格は様々ということなのだろう。
戊午の密勅で活躍した鵜飼父子については「水戸の事情にうとく、人柄も大したものでない鵜飼父子」「梅田源次郎のようなうすっぺらいアジテータにのせられて、密勅奏請のような出過ぎたことをしでかした」とかなり手厳しい。
元治甲子の乱で悲劇的最後を遂げた武田耕雲斎についても、「天狗党の中でも最も鈍物で不決断で、事あるごとにあわてて何に策ももち合わせず、ただ家柄のために利用され、もちあげられているばかり」とばっさり切り捨てる。
一方で、天狗党からは親の敵のように憎まれ、ついには抹殺された結城寅寿については、「天狗に泡をふかせるような、特に新しいすぐれた政治的主張や政策はあったらしくもない。故老の話ではどちらが政権をとっても同じこと、ただ役人の入れ替えに留まったというから、要するに政治的な意味よりお家騒動的な派閥争いに堕落しつつあった感じが強いのは、どちらにとっても失態としかいいようがない。」と客観的に分析している。要するに、天狗党、諸生党両派とも私怨のために水戸を壊滅させた愚者であって、筆者としては受け入れることができないのであろう。
幕末期における水戸藩の混乱は色んな要素が考えられるが、そのもっとも大きな原因を藩主斉昭の個性に求めることができる。水戸藩は尊王攘夷の大本山のように信奉されていたが、その頂点にあったのが斉昭であった。しかし、その斉昭にしても「意地もあり虚栄心もあって攘夷の看板をはずさずに終わったが、越前春嶽へ送った手紙には、老人の自分はこのままで通すが、貴君は若くもあり、大いに新しい情勢に順応して働けといい、開国の必然を認めている」というのである。恐らくこれが掛け値なしの実態だったのだろう。結局、斉昭の死後、この事態を収拾できるのは斉昭以外にはいなかった。定見のない慶篤では火に油を注ぐだけであった。
筑前の平野國臣に対しては「和歌の心得があって人を動かす歌を詠んだりするだけで軽挙妄動、底の浅い人物だといわれるが、不用意な生野の旗あげはたちまちやぶれて同志は四散」とある。平野國臣は生野義挙の計画には関与していたが、八一八の政変とそれに続く天誅組の失敗を知って、むしろ生野では自重を説いた。その平野を「軽挙妄動、底の浅い人物」と言い切ってしまうのは、ちょっと言い過ぎのような気がしないでもない。

コメント (2)
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