史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「幕末の水戸藩」 山川菊栄著 岩波文庫

2013年03月23日 | 書評
最近すっかり古本づいているが、「幕末の水戸」も古本屋で見つけた一冊である。つい最近まで普通に書店で入手できたのだが、いつの間にか姿を消していた。
この日、息子の通う高校の学園祭を見に行くために国立を歩いていて、ふいと立ち寄った駅前の古本屋で、この本を発見した。四百円だったので、定価より安い。
著者山川菊栄は、社会運動家山川均夫人で、祖父は水戸藩の儒学者青山延寿である。幕末の水戸といえば、激しい派閥間闘争が展開されたが、学者の家だけに比較的青山家は中立であったといえよう。それでいて抗争を近くで観察していた家だけに、臨場感のある証言が盛り沢山である。
戊午の密勅の返還問題が持ち上がったとき、返還に反対する尊攘激派は、水戸街道の小金宿に集合した。彼らを説得するために斉昭の命を受けて派遣されたのが、当時の青山家の当主、青山延光であった。斉昭の信任の厚かったことが覗われる。青山家が一枚岩だったかというと、そういうわけではない。このとき末弟延寿は、尊攘派に合流して気勢を上げていたのである。
桜田門外の変に参加した水戸浪士は、桜田烈士と称えられヒーロー扱いされているが、その中の一人、佐野竹之助を「有名なあばれ者」という表現を用いて、非常に批判的に描いている。
かたや同じく桜田門外の変の実行部隊の一人で、維新後まで生き残った海後磋磯之介に対しては「まことにおちついた、口数の少ない、いい人」と好意的である。同じ桜田烈士と呼ばれる人たちでも、人物品格は様々ということなのだろう。
戊午の密勅で活躍した鵜飼父子については「水戸の事情にうとく、人柄も大したものでない鵜飼父子」「梅田源次郎のようなうすっぺらいアジテータにのせられて、密勅奏請のような出過ぎたことをしでかした」とかなり手厳しい。
元治甲子の乱で悲劇的最後を遂げた武田耕雲斎についても、「天狗党の中でも最も鈍物で不決断で、事あるごとにあわてて何に策ももち合わせず、ただ家柄のために利用され、もちあげられているばかり」とばっさり切り捨てる。
一方で、天狗党からは親の敵のように憎まれ、ついには抹殺された結城寅寿については、「天狗に泡をふかせるような、特に新しいすぐれた政治的主張や政策はあったらしくもない。故老の話ではどちらが政権をとっても同じこと、ただ役人の入れ替えに留まったというから、要するに政治的な意味よりお家騒動的な派閥争いに堕落しつつあった感じが強いのは、どちらにとっても失態としかいいようがない。」と客観的に分析している。要するに、天狗党、諸生党両派とも私怨のために水戸を壊滅させた愚者であって、筆者としては受け入れることができないのであろう。
幕末期における水戸藩の混乱は色んな要素が考えられるが、そのもっとも大きな原因を藩主斉昭の個性に求めることができる。水戸藩は尊王攘夷の大本山のように信奉されていたが、その頂点にあったのが斉昭であった。しかし、その斉昭にしても「意地もあり虚栄心もあって攘夷の看板をはずさずに終わったが、越前春嶽へ送った手紙には、老人の自分はこのままで通すが、貴君は若くもあり、大いに新しい情勢に順応して働けといい、開国の必然を認めている」というのである。恐らくこれが掛け値なしの実態だったのだろう。結局、斉昭の死後、この事態を収拾できるのは斉昭以外にはいなかった。定見のない慶篤では火に油を注ぐだけであった。
筑前の平野國臣に対しては「和歌の心得があって人を動かす歌を詠んだりするだけで軽挙妄動、底の浅い人物だといわれるが、不用意な生野の旗あげはたちまちやぶれて同志は四散」とある。平野國臣は生野義挙の計画には関与していたが、八一八の政変とそれに続く天誅組の失敗を知って、むしろ生野では自重を説いた。その平野を「軽挙妄動、底の浅い人物」と言い切ってしまうのは、ちょっと言い過ぎのような気がしないでもない。

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2 コメント

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Unknown (鳴門舟)
2013-03-27 04:43:37
 関東では、桜が開花しているようですが、暖かいはずの当地では、まだつぼみのままです。
 さて、来月、友人の誘いでやっと念願の会津旅行に出かけます。
 ここで思うのは、以前にも書いたと思いますが、植村様がここまで仕上げられた、資金と時間の事ですね。
 一ヶ所行くのでさえ大変です。
 とても、真似ができません。
 さて、私は今、慶喜のその後を扱った本を二冊平行して読んでいます。
 その内の、「女聞き書き、徳川慶喜残照」というのがとても面白いです。
 慶喜のお孫さんとか、まわりでお世話をしていた女性達の体験話なので、実際はこんなだったのかと、興味が付きません。
 慶喜のお孫さんが嫁がれた先の義祖父には、お付のものがいて、「手洗(ちょうず)」と言えば、お付も一緒で、ズボンから、お付のものが例の物を引き出す、なんて話も載っています。
 また、お姫様などは一年に1,2度しか髪を洗わなかったとか。面白い話が一杯です。
 もう、読まれていますか。
Unknown (植村)
2013-03-27 23:01:56
鳴門舟様

有り難うございます。会津旅行楽しんできて下さい。私もGWは喜多方方面を予定しています。
書籍の推薦、有り難うございます。早速、本屋で探してみます。

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