(鶴舞小学校)
遠江の浜松藩は、譜代の井上氏が治めていたが、維新後、駿府藩が成立すると上総鶴舞に六万石を与えられ移封された。
最後の藩主、井上正直は二度にわたって老中職にあって、各国使臣を相手にした横浜鎖港談判など、幕末の難局に力を尽くした。鳥羽伏見の戦争の後、藩論は大いに分かれたが、尾張藩からの勤王勧誘使を迎えると、いち早く勤王証書を提出した。藩主正直は東征軍の浜松通過に際して不在だったため(一説には女のところに通っていたとも)、家老が藩主になりすましたという逸話が残る。

鶴舞城本丸之跡
鶴舞藩が成立したのは、明治元年(1868)九月である。翌年には版籍奉還により旧藩主井上正直が藩知事に任じられたが、明治四年(1871)の廃藩置県で免じられた。短期間ではあったが、藩ではこの地に城郭を築こうとしたらしく、堀や土塁の跡が残っている。当然ながら城は完成するには至らなかったが、満々と水を湛える堀を見る限り、相当大規模な城郭を築造する計画だったことが窺われる。
鶴舞藩大井戸
現在、鶴舞小学校の場所が本丸跡である。本丸跡の碑のそばには、井戸も残されている。当時、この辺りは良質の井戸水が豊富に湧出することで有名だったそうである。井上正直が新しい藩領に着任したのは、明治二年(1868)二月のことで、約一年をかけて藩庁知事邸が完成した。
堀の跡
井上正直候(老中)
(鶴舞神社・鶴舞公民館)
鶴舞神社
鶴舞神社の隣に鶴舞公民館があり、公民館の建物の前に幾つか興味深い石碑が建てられている。
鶴舞藩藩校克明館跡
浜松藩では弘化二年(1845)に藩校克明館を開設したが、上総鶴舞転封とともに、藩校もこの地に移設された。学頭には国学者村尾元融が任じられ、石川倉次(日本点字の考案者)、賀古鶴所(森鴎外の親友。我が国耳鼻咽喉科学の創始者)などを輩出した。
石川倉次先生之像
石川倉次(くらじ)は浜松の出身であったが、藩主の転封にともなって鶴舞に転居した。
伏谷如水と清水次郎長ノ碑
伏谷如水は浜松藩の家老で、慶応四年(1868)三月、総督有栖川熾仁親王により駿府町差配役に任命された。このとき如水は、清水港周辺の警護を博徒清水次郎長こと山本長五郎に当たらせた。次郎長にとってこの抜擢登用は人生の転機となった。次郎長は、この後の人生を社会事業に捧げることになった。如水は、浜松藩の移封にともなって鶴舞に移住することになり、明治二十二年(1889)この地で没した。
遠江の浜松藩は、譜代の井上氏が治めていたが、維新後、駿府藩が成立すると上総鶴舞に六万石を与えられ移封された。
最後の藩主、井上正直は二度にわたって老中職にあって、各国使臣を相手にした横浜鎖港談判など、幕末の難局に力を尽くした。鳥羽伏見の戦争の後、藩論は大いに分かれたが、尾張藩からの勤王勧誘使を迎えると、いち早く勤王証書を提出した。藩主正直は東征軍の浜松通過に際して不在だったため(一説には女のところに通っていたとも)、家老が藩主になりすましたという逸話が残る。

鶴舞城本丸之跡
鶴舞藩が成立したのは、明治元年(1868)九月である。翌年には版籍奉還により旧藩主井上正直が藩知事に任じられたが、明治四年(1871)の廃藩置県で免じられた。短期間ではあったが、藩ではこの地に城郭を築こうとしたらしく、堀や土塁の跡が残っている。当然ながら城は完成するには至らなかったが、満々と水を湛える堀を見る限り、相当大規模な城郭を築造する計画だったことが窺われる。

鶴舞藩大井戸
現在、鶴舞小学校の場所が本丸跡である。本丸跡の碑のそばには、井戸も残されている。当時、この辺りは良質の井戸水が豊富に湧出することで有名だったそうである。井上正直が新しい藩領に着任したのは、明治二年(1868)二月のことで、約一年をかけて藩庁知事邸が完成した。

堀の跡

井上正直候(老中)
(鶴舞神社・鶴舞公民館)

鶴舞神社
鶴舞神社の隣に鶴舞公民館があり、公民館の建物の前に幾つか興味深い石碑が建てられている。

鶴舞藩藩校克明館跡
浜松藩では弘化二年(1845)に藩校克明館を開設したが、上総鶴舞転封とともに、藩校もこの地に移設された。学頭には国学者村尾元融が任じられ、石川倉次(日本点字の考案者)、賀古鶴所(森鴎外の親友。我が国耳鼻咽喉科学の創始者)などを輩出した。

石川倉次先生之像
石川倉次(くらじ)は浜松の出身であったが、藩主の転封にともなって鶴舞に転居した。

伏谷如水と清水次郎長ノ碑
伏谷如水は浜松藩の家老で、慶応四年(1868)三月、総督有栖川熾仁親王により駿府町差配役に任命された。このとき如水は、清水港周辺の警護を博徒清水次郎長こと山本長五郎に当たらせた。次郎長にとってこの抜擢登用は人生の転機となった。次郎長は、この後の人生を社会事業に捧げることになった。如水は、浜松藩の移封にともなって鶴舞に移住することになり、明治二十二年(1889)この地で没した。