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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

市原

2011年08月14日 | 千葉県
(鶴舞小学校)
 遠江の浜松藩は、譜代の井上氏が治めていたが、維新後、駿府藩が成立すると上総鶴舞に六万石を与えられ移封された。
 最後の藩主、井上正直は二度にわたって老中職にあって、各国使臣を相手にした横浜鎖港談判など、幕末の難局に力を尽くした。鳥羽伏見の戦争の後、藩論は大いに分かれたが、尾張藩からの勤王勧誘使を迎えると、いち早く勤王証書を提出した。藩主正直は東征軍の浜松通過に際して不在だったため(一説には女のところに通っていたとも)、家老が藩主になりすましたという逸話が残る。


鶴舞城本丸之跡

 鶴舞藩が成立したのは、明治元年(1868)九月である。翌年には版籍奉還により旧藩主井上正直が藩知事に任じられたが、明治四年(1871)の廃藩置県で免じられた。短期間ではあったが、藩ではこの地に城郭を築こうとしたらしく、堀や土塁の跡が残っている。当然ながら城は完成するには至らなかったが、満々と水を湛える堀を見る限り、相当大規模な城郭を築造する計画だったことが窺われる。


鶴舞藩大井戸

 現在、鶴舞小学校の場所が本丸跡である。本丸跡の碑のそばには、井戸も残されている。当時、この辺りは良質の井戸水が豊富に湧出することで有名だったそうである。井上正直が新しい藩領に着任したのは、明治二年(1868)二月のことで、約一年をかけて藩庁知事邸が完成した。


堀の跡


井上正直候(老中)

(鶴舞神社・鶴舞公民館)


鶴舞神社

 鶴舞神社の隣に鶴舞公民館があり、公民館の建物の前に幾つか興味深い石碑が建てられている。


鶴舞藩藩校克明館跡

 浜松藩では弘化二年(1845)に藩校克明館を開設したが、上総鶴舞転封とともに、藩校もこの地に移設された。学頭には国学者村尾元融が任じられ、石川倉次(日本点字の考案者)、賀古鶴所(森鴎外の親友。我が国耳鼻咽喉科学の創始者)などを輩出した。


石川倉次先生之像

 石川倉次(くらじ)は浜松の出身であったが、藩主の転封にともなって鶴舞に転居した。


伏谷如水と清水次郎長ノ碑

 伏谷如水は浜松藩の家老で、慶応四年(1868)三月、総督有栖川熾仁親王により駿府町差配役に任命された。このとき如水は、清水港周辺の警護を博徒清水次郎長こと山本長五郎に当たらせた。次郎長にとってこの抜擢登用は人生の転機となった。次郎長は、この後の人生を社会事業に捧げることになった。如水は、浜松藩の移封にともなって鶴舞に移住することになり、明治二十二年(1889)この地で没した。

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館山

2011年08月14日 | 千葉県
(城山公園館山市立博物館)
 平日の観光地は空いているのは有り難いが、「月曜日休館」には注意したい。せっかく訪れた館山市立博物館であったが、休館でがっかりした。現在、城山山頂には三層の模擬天守が築かれているが、江戸後期、稲葉氏の治世でここに城郭が築かれたことはなく、城山の南麓に陣屋があったのみである。


館山城(八犬伝博物館)


館山城跡より館山市を臨む

 館山藩は一万石という小藩であったが、幕末には稲葉正巳という逸材を生んだ。稲葉正巳は、幼くして父を失い家督を継いだ。大阪加番を皮切りに、講武所奉行や若年寄など要職を歴任した後、神戸海軍操練所創立や幕府の軍制改革などに敏腕を振るった。慶応二年(1866)には老中格に昇任し、海軍総裁となって英国伝習事務を管掌することになった。明治元年(1869)二月、公職を辞職して隠居。江隠と称した。明治十一年(1878)六十四歳で死去。
 館山藩では、戊辰戦争が起こると藩内は意見が分かれ、なかなか態度を決することができなかったが、最終的には恭順と決した。


八遺臣の墓

 館山は、戦国の武将里見氏の故郷である。城山の麓には、「南総里見八犬伝」のモデルといわれる八遺臣の墓がある。元和八年(1622)、里見氏最後の当主里見忠義が倉吉で没すると、八人の家臣が殉死した。彼らの遺骨を分骨して供養したものである。

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富津

2011年08月14日 | 千葉県
(富津公園)
 震災の影響は、梅雨の明けた真夏を迎えた今も続いている。会社では、始まって以来初のサマータイムを導入し、遠距離通勤者には過酷な夏となった。同時に土曜日を出勤として、代わりに月曜日を公休とするカレンダーが採用された。このチャンスを逃す手はない。早速、房総半島まで史跡訪問を兼ねた日帰り旅行を敢行することになった。久々に嫁さんと二人でドライブを楽しむことになった。
 房総半島へはアクアラインを利用するのが近道である。途中、「海ほたる」に立ち寄った。三浦半島から横浜、川崎、東京の街並みを遠望できる。残念ながら富士山は見えなかったが、気分爽快であった。
 第一目的地は、富津公園である。東京湾に突き出た富津岬は、幕末から重要な防衛拠点であった。台場の建造は比較的早く、松平定信の提案を受けて文化七年(1810)に着手されている。維新後、台場は要塞化されたが、今でもその遺構を見ることができる。


富津公園 中の島

 明治十四年(1881)から三年の歳月をかけて中の島には砲台が築造された。この砲台は元洲砲台と呼ばれた。


富津元洲砲台跡

富津岬の突端は、明治百年記念公園となっている。大きな展望台が築かれており、頂上からは、岬のみならず対岸の三浦半島や第一海堡などが見渡せる。


明治百年記念公園 展望台より


第一海堡跡

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