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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊丹

2010年04月10日 | 兵庫県
(菩提寺)
 阪急伊丹駅から徒歩七~八分の場所に菩提寺がある。広い墓地には、伊丹明倫堂初代教頭橋本半助、太田北山の墓がある。


橋本静庵之墓(左から二基目)

 橋本半助。号は静庵或いは香坡(こうは)。生まれは上野国沼田。十五歳のとき大阪に移り、篠崎小竹に学んで篠門四天王の一人に数えられた。天保九年(1838)、伊丹昆陽口村に学問所明倫堂が開設されると、初代教頭に招かれた。慶応元年(1865)藤井藍田と親交があったことから、投獄され獄中死した。生前自分の墓を父母の墓に並べて建てた。


太田北山先生之墓

 太田北山は、文政十年(1827)肥前小城の生まれ。江戸で儒学を学び、帰藩後、指南役などを務めたが、維新を機に退職。大阪に移って私塾成章館を開いた。明治十七年(1884)、伊丹に移って私塾弘深館を開いた。門下生は千人を下らなかったという。
 北山の墓は新しく建て替えられたらしい。歴史が感じられないのは、少々残念である。

(柿衛文庫)


柿衛文庫

 文政十二年(1829)十月、頼山陽や篠崎小竹、田能村竹田(文人画家)、高橋草坪らが、箕面での紅葉狩りの帰途、伊丹の銘酒「剣菱」の醸造元の坂上桐陰家に集った。その宴席に供された珍しい台柿の味に一同は心打たれ、その感興を詩文や絵画に残した。「柿衛(かきもり)」は、この銘木を衛るという意味である。


頼山陽遺愛の台柿(二世)

(頼山陽歌碑)


頼山陽歌碑

紅楓相暎じ酔慈顔 侍得たり帰輿未だ遽に還らず
今歳此遊圧尾に堪えたり 将に佳酒を携えて
佳山を看んとす
 母の西下を送り伊丹を過ぎて遂に箕尾に遊ぶ 山陽外史

(寺本児童公園)
 阪急伊丹駅からバスで十分足らず、寺本東のバス停から歩いて数分のところに、寺院が密集している地域がある。その一角に小さな公園があり、加納諸平と伴林光平の歌碑が建てられている。どういう関係で二つの歌碑がこの場所に建立されたのか、詳しい背景は分からないが、隣り合う正覚寺に加納諸平の父、夏目甕麿の墓があることが関係しているのかもしれない。伴林光平は、加納諸平の門下で、天誅組の変に参加し、捕らえられて京都六角の獄舎で斬首されている。


加納諸平歌碑

こをだにと折り取る袖に且つ落ちて露よりもろき玉椿かな


伴林光平歌碑

分来てし其世は夢と成りぬるを何たとらるる猪名のささ原

(正覚院)


正覚院


萩園之奥(夏目甕麿)墓

 正覚院には、加納諸平の父、夏目甕麿の墓がある。夏目甕麿は、遠江国白須賀の生まれであるが、晩年は正覚院に身を寄せ、詩歌を楽しんでいた。ある夜、酒を飲んだ上、池に映る月を「取ってみせる」と池の中に入り、急所を打って急死したと伝えられる。墓の横にはそのときの石も置かれている。

 この日は、伊丹からの帰り十三駅でそばを食べて帰ると決めていた。学生時代は常に腹を空かしていたせいかもしれないが、帰宅途中に食べる「阪急そば」がとても旨かった。想い出深い「阪急そば」を味わいたいと思い、発祥の店である十三駅で、期待に胸膨らませながら天ぷらそばを注文した。
 結論からいうと、「阪急そば」は期待したほど旨くなかった。味が落ちたのか、自分の舌が肥えたのか良く分からないが、一番の理由は自分があのときほど飢えてないからかもしれない。そう考えると寂しいことだが、これから先、心から「旨い」と感嘆しながらそばを食うことはあまりないかもしれない。

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西宮 Ⅱ

2010年04月10日 | 兵庫県
(今津砲台跡)


今津海岸砲臺記念石

 今津砲台は、文久三年(1863)に建設が始まり、慶応二年(1866)にようやく完成を見た。砲台の大きさは、直径十数メートル、高さ十~十二メートルで、砲眼からは大砲で四方を狙うことができた。大正四年(1915)砲台は民間に払い下げられ、石を採るため解体された。石碑に使われている石材は、その一部である。

(今津灯台)


今津灯台

 今津灯台は、文化七年(1810)、「大関」醸造元長部家五代目長兵衛が、今津港に出入りする樽廻船や漁船のために建てたのが起源で、現在のものは六代目が再建したものである。今津灯台は、木造の行灯式灯台であるが、今も現役で活躍している。

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尼崎 Ⅱ

2010年04月10日 | 兵庫県
(尼崎城跡)
 阪神尼崎駅の南東、数百メートル四方に渡る広大な敷地が、尼崎城跡に当たる。一角が城趾公園となっており、城壁の一部が再現されているが、それを除くとここに城郭があった気配すら感じられない。


尼崎城址公園

 尼崎城は、元和四年(1618)から数年かけて譜代大名の戸田氏鉄によって築城されたものである。その後、青山氏、桜井松平氏に引き継がれて維新を迎えている。


尼崎城天守閣遺跡

 尼崎市文化財収蔵庫の建物がある辺りが天守閣跡らしい。建物の前に石碑が建てられている。


明城小学校 尼崎城

 以前、この小学校は城内小学校という名称であった。阪神大震災で校舎が全壊し建て直された後、ほかの小学校と合併して明城小学校と校名を変えている。校舎の前には、尼崎城の天守の模型が作られている。今さら城郭の再建は無理だろうが、このような趣向は大歓迎である。

(桜井神社)


桜井神社

 幕末の尼崎城主は、桜井忠興である。桜井忠興は、明治十年(1877)博愛社(のちの日本赤十字社)の創立メンバーの一人である。桜井神社は、旧尼崎城跡の一角に建てられたもので、桜井松平家の初代から十六代忠興までを祀っている。

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淀屋橋 Ⅱ

2010年04月10日 | 大阪府
(適塾)
 週末、大阪支社で仕事があった。昼休みに散歩がてら適塾を訪ねた。
 支社に戻ると女子社員に
「どこまで散歩に行ってたんですか」
と訊かれたので
「適塾まで」
と答えると、驚いたことに彼女は適塾の存在も、緒方洪庵のことも知らなかった。昨今、歴史ブームと言われるが、現実はこんなものなのである。


ヅーフ部屋

 適塾における教育の中心は、蘭書の会読であった。この予習のために塾生が使用していたのがヅーフ辞書と呼ばれる蘭和辞書である。この本は、長崎出島のオランダ商館長ヅーフが、ハルマの蘭佛辞書に拠って作成したもので、当時は極めて貴重なもので塾生は争って筆写した。塾生の勉強は、他の塾とは比較にならないほど激しいものだったという。適塾で塾長も務めた福沢諭吉は「このうえにしようもないほど勉強した」と述懐している。


ヅーフ辞書


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郡上八幡

2010年04月10日 | 岐阜県
 郡上八幡は遠い。高槻の実家を朝七時前に出て、長良川鉄道の郡上八幡駅に降り立ったのは午前十一時。四時間を越える長旅であった。長良川鉄道は、かつて越美南線と呼ばれていた。昭和六十一年(1986)に第三セクターにより長良川鉄道として再出発することになった。今も決して経営は楽ではないようであるが、列車本数を削減しながら辛うじて命脈を繋いでいる状態である。
 美濃太田発午九時四十三分を逃すと、次の下りは十一時まで無い。何としてもこれに間に合わせるために、名古屋から美濃太田までは特急を利用することにした。長良川鉄道は一両編成のワンマンカーである。郡上八幡まで一時間半ほどを要する。


長良川鉄道

 昨年、会津若松を旅して、飯盛山の白虎隊墓地を訪ねたとき、郡上八幡の凌霜隊之碑に出会って以来、郡上藩が気になっていた。今回は主に凌霜隊の足跡を追って郡上八幡の街を探索した。

(郡上八幡城)
 標高三百五十四メートルの八幡山の山頂に建つ郡上八幡城は、市街のどこからでも見上げることのできる、まさに郡上八幡のシンボル的存在である。この山城が築かれたのは、戦国末期のことである。関が原以降、城主は遠藤氏、井上氏、金森氏と引き継がれた。宝暦八年(1758)、郡上一揆の失政を咎められて金森氏が改易されると、廃藩置県まで青山氏が続いた。


郡上八幡城

 郡上八幡城は、明治初年に廃城となると直ちに取り壊されたが、昭和八年(1933)大垣城を参考に天守が木造で再建された。

 天守閣の裏手は「凌霜の森」と名付けられ、凌霜隊慰霊碑が置かれている。「道は一筋なり」という言葉は、凌霜隊副長速水小三郎の日記に記された一節である。横に長い慰霊碑の左半分には、凌霜隊員四十五名の名前が刻まれている。
 郡上藩内でも勤王・佐幕の両論に分かれ、藩論を決しかねていた。慶応四年(1868)四月十日、江戸藩邸では、徳川家への恩顧に報いるため、会津へ援兵を送ることを決定した。凌霜隊隊長は、十七歳の朝比奈茂吉であった。凌霜隊は、小山、宇都宮など各地で激闘を繰り返し、九月六日、ようやく会津若松城に入城した。会津落城後、凌霜隊士は郡上八幡に護送された。藩では彼らを脱走者として謹慎を命じ、赤谷の揚り屋に収監した。戦死、行方不明を除く三十五名が赦されて自由の身となったのは、明治三年(1870)二月十九日であった。


凌霜隊慰霊碑


郡上八幡市街

 郡上八幡は、小京都と呼ばれている。全国に小京都と名乗る街は数多あるが、ここではその名に恥じない風情ある街並みを楽しむことができる。街の真ん中を貫いているのは吉田川である。

(岸剱神社)


岸剱神社

 郡上八幡城の麓、岸剱神社の前に凌霜隊の碑が建てられている。昭和十五年(1940)、郡上郡青年団の手により建立されたものである。


凌霜隊之碑

(郡上八幡旧庁舎記念館)
 街のほぼ真ん中に郡上八幡旧庁舎記念館がある。館内には観光案内所などが開設されている。赤谷の揚り屋の場所が分からなくて最後にここを訪ねたが、本来ここを起点に市内を回るのが良いだろう。レンタサイクル借りるのがお勧めである。


郡上八幡旧庁舎記念館

 記念館の建物は、昭和十一年(1936)に建設された木造洋風建築で、平成六年(1994)まで現役の八幡町役場として使用されていた。

(長敬寺)


長敬寺

 明治元年(1868)九月、会津藩の降伏により凌霜隊士は郡上八幡に護送され、獄舎に入れられた。厳しい獄舎の生活を見かねた城下寺院の嘆願が容れられ、明治二年(1869)隊士の身柄は長敬寺に移された。翌年二月に釈放されるまでここで謹慎生活を過ごした。

(慈恩禅寺)


慈恩禅寺

 慈恩護国禅寺は、慶長十一年(1606)に創建されたもので、その後、火災や風水害、廃仏毀釈など幾多の盛衰を繰り返し、明治二十九年(1896)に本堂が再建されてほぼ現在の姿となった。荎草園は、往時より規模は縮小したものの、名勝天然記念物に指定される禅宗庭園である。


朝比奈家墓地

 慈恩禅寺の墓地の一角には、八幡城主遠藤氏や金森氏の墓や、幕末の藩主青山家の家老を務めた鈴木家や朝比奈家の墓地が集められている。
 墓地にたてられた説明によれば、朝比奈家、速水家、鈴木家は、いずれも「凌霜隊関係」と記されているが、正確にどういう関係があるのかは良く分からない。朝比奈家は、凌霜隊隊長朝比奈茂吉の実家で、家老職を務める家である。速水家からは、凌霜隊副長速水小三郎が出ている。速水小三郎は、出征時に日記を残した。鈴木家は、郡上藩国家老を務めた家である。当時、国許にあって藩政を握っていた鈴木兵左衛門は、新政府への恭順と藩論を定めた。


速水家墓地
速水敬行墓(中央)


(杉岡)暾桑先生墓(左)
石川家霊塔(初代郡上郡長)

 杉岡暾桑は、郡上藩の藩校潜竜館の教授。藩校潜竜館は、郡上藩の青山家二代藩主青山幸完(ゆきさだ)が、設置したものである。


舊郡上藩大夫 鈴木家霊墳

(赤谷揚り屋跡)
 観光案内所で確認したところ、凌霜隊士が投獄された赤谷の揚り屋は、現在郡上八幡市役所がある一帯にあったようである。現在は、慈恩禅寺の庭園「荎草園」の塀にプレートがはめ込まれているのみである。


赤谷揚り屋跡

(宗祇水)


宗祇水

 室町後期、文明年間(1469~1487)、郡上八幡を治めていた東常縁(とうの つねより)は、古今伝授の資格を有する優れた歌人であった。彼の名声を慕って高名な連歌師飯尾宗祇が当地を訪ねた。二人は桜の樹の下にこんこんと湧き出る清泉のほとりで別れを惜しんだと言われ、のちにこの泉は宗祇水と呼ばれるようになった。やがて宗祇水は全国に知られるようになった。文化十一年には頼山陽がはるばるここを訪れ、「以白雲水書之」と題して詩数編を残した。

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