(菩提寺)
阪急伊丹駅から徒歩七~八分の場所に菩提寺がある。広い墓地には、伊丹明倫堂初代教頭橋本半助、太田北山の墓がある。
橋本静庵之墓(左から二基目)
橋本半助。号は静庵或いは香坡(こうは)。生まれは上野国沼田。十五歳のとき大阪に移り、篠崎小竹に学んで篠門四天王の一人に数えられた。天保九年(1838)、伊丹昆陽口村に学問所明倫堂が開設されると、初代教頭に招かれた。慶応元年(1865)藤井藍田と親交があったことから、投獄され獄中死した。生前自分の墓を父母の墓に並べて建てた。
太田北山先生之墓
太田北山は、文政十年(1827)肥前小城の生まれ。江戸で儒学を学び、帰藩後、指南役などを務めたが、維新を機に退職。大阪に移って私塾成章館を開いた。明治十七年(1884)、伊丹に移って私塾弘深館を開いた。門下生は千人を下らなかったという。
北山の墓は新しく建て替えられたらしい。歴史が感じられないのは、少々残念である。
(柿衛文庫)
柿衛文庫
文政十二年(1829)十月、頼山陽や篠崎小竹、田能村竹田(文人画家)、高橋草坪らが、箕面での紅葉狩りの帰途、伊丹の銘酒「剣菱」の醸造元の坂上桐陰家に集った。その宴席に供された珍しい台柿の味に一同は心打たれ、その感興を詩文や絵画に残した。「柿衛(かきもり)」は、この銘木を衛るという意味である。
頼山陽遺愛の台柿(二世)
(頼山陽歌碑)
頼山陽歌碑
紅楓相暎じ酔慈顔 侍得たり帰輿未だ遽に還らず
今歳此遊圧尾に堪えたり 将に佳酒を携えて
佳山を看んとす
母の西下を送り伊丹を過ぎて遂に箕尾に遊ぶ 山陽外史
(寺本児童公園)
阪急伊丹駅からバスで十分足らず、寺本東のバス停から歩いて数分のところに、寺院が密集している地域がある。その一角に小さな公園があり、加納諸平と伴林光平の歌碑が建てられている。どういう関係で二つの歌碑がこの場所に建立されたのか、詳しい背景は分からないが、隣り合う正覚寺に加納諸平の父、夏目甕麿の墓があることが関係しているのかもしれない。伴林光平は、加納諸平の門下で、天誅組の変に参加し、捕らえられて京都六角の獄舎で斬首されている。
加納諸平歌碑
こをだにと折り取る袖に且つ落ちて露よりもろき玉椿かな
伴林光平歌碑
分来てし其世は夢と成りぬるを何たとらるる猪名のささ原
(正覚院)
正覚院
萩園之奥(夏目甕麿)墓
正覚院には、加納諸平の父、夏目甕麿の墓がある。夏目甕麿は、遠江国白須賀の生まれであるが、晩年は正覚院に身を寄せ、詩歌を楽しんでいた。ある夜、酒を飲んだ上、池に映る月を「取ってみせる」と池の中に入り、急所を打って急死したと伝えられる。墓の横にはそのときの石も置かれている。
この日は、伊丹からの帰り十三駅でそばを食べて帰ると決めていた。学生時代は常に腹を空かしていたせいかもしれないが、帰宅途中に食べる「阪急そば」がとても旨かった。想い出深い「阪急そば」を味わいたいと思い、発祥の店である十三駅で、期待に胸膨らませながら天ぷらそばを注文した。
結論からいうと、「阪急そば」は期待したほど旨くなかった。味が落ちたのか、自分の舌が肥えたのか良く分からないが、一番の理由は自分があのときほど飢えてないからかもしれない。そう考えると寂しいことだが、これから先、心から「旨い」と感嘆しながらそばを食うことはあまりないかもしれない。
阪急伊丹駅から徒歩七~八分の場所に菩提寺がある。広い墓地には、伊丹明倫堂初代教頭橋本半助、太田北山の墓がある。

橋本静庵之墓(左から二基目)
橋本半助。号は静庵或いは香坡(こうは)。生まれは上野国沼田。十五歳のとき大阪に移り、篠崎小竹に学んで篠門四天王の一人に数えられた。天保九年(1838)、伊丹昆陽口村に学問所明倫堂が開設されると、初代教頭に招かれた。慶応元年(1865)藤井藍田と親交があったことから、投獄され獄中死した。生前自分の墓を父母の墓に並べて建てた。

太田北山先生之墓
太田北山は、文政十年(1827)肥前小城の生まれ。江戸で儒学を学び、帰藩後、指南役などを務めたが、維新を機に退職。大阪に移って私塾成章館を開いた。明治十七年(1884)、伊丹に移って私塾弘深館を開いた。門下生は千人を下らなかったという。
北山の墓は新しく建て替えられたらしい。歴史が感じられないのは、少々残念である。
(柿衛文庫)

柿衛文庫
文政十二年(1829)十月、頼山陽や篠崎小竹、田能村竹田(文人画家)、高橋草坪らが、箕面での紅葉狩りの帰途、伊丹の銘酒「剣菱」の醸造元の坂上桐陰家に集った。その宴席に供された珍しい台柿の味に一同は心打たれ、その感興を詩文や絵画に残した。「柿衛(かきもり)」は、この銘木を衛るという意味である。

頼山陽遺愛の台柿(二世)
(頼山陽歌碑)

頼山陽歌碑
紅楓相暎じ酔慈顔 侍得たり帰輿未だ遽に還らず
今歳此遊圧尾に堪えたり 将に佳酒を携えて
佳山を看んとす
母の西下を送り伊丹を過ぎて遂に箕尾に遊ぶ 山陽外史
(寺本児童公園)
阪急伊丹駅からバスで十分足らず、寺本東のバス停から歩いて数分のところに、寺院が密集している地域がある。その一角に小さな公園があり、加納諸平と伴林光平の歌碑が建てられている。どういう関係で二つの歌碑がこの場所に建立されたのか、詳しい背景は分からないが、隣り合う正覚寺に加納諸平の父、夏目甕麿の墓があることが関係しているのかもしれない。伴林光平は、加納諸平の門下で、天誅組の変に参加し、捕らえられて京都六角の獄舎で斬首されている。

加納諸平歌碑
こをだにと折り取る袖に且つ落ちて露よりもろき玉椿かな

伴林光平歌碑
分来てし其世は夢と成りぬるを何たとらるる猪名のささ原
(正覚院)

正覚院

萩園之奥(夏目甕麿)墓
正覚院には、加納諸平の父、夏目甕麿の墓がある。夏目甕麿は、遠江国白須賀の生まれであるが、晩年は正覚院に身を寄せ、詩歌を楽しんでいた。ある夜、酒を飲んだ上、池に映る月を「取ってみせる」と池の中に入り、急所を打って急死したと伝えられる。墓の横にはそのときの石も置かれている。
この日は、伊丹からの帰り十三駅でそばを食べて帰ると決めていた。学生時代は常に腹を空かしていたせいかもしれないが、帰宅途中に食べる「阪急そば」がとても旨かった。想い出深い「阪急そば」を味わいたいと思い、発祥の店である十三駅で、期待に胸膨らませながら天ぷらそばを注文した。
結論からいうと、「阪急そば」は期待したほど旨くなかった。味が落ちたのか、自分の舌が肥えたのか良く分からないが、一番の理由は自分があのときほど飢えてないからかもしれない。そう考えると寂しいことだが、これから先、心から「旨い」と感嘆しながらそばを食うことはあまりないかもしれない。