父の書棚でこの本を見つけた。「冤」「朔」「苔」という三編を収録する。今や絶版となっているが、昨今、出版される本といえば坂本龍馬や新選組ばかりで、幕末の裏面史を描く作品は少ない。復刻を期待したい一冊である。
「冤」は、偽官軍事件と呼ばれる相楽総三の無念を描いた短編である。相楽総三自身は痛いほど処刑される理不尽を感じていたであろう。斬首されるに当たっては、絶叫したいほどの無念があったに違いないが、彼は従容として死に就く。
「朔」は、大野藩士早川弥五左衛門の人生を描いた作品である。綱淵謙錠氏は樺太出身で、北方にはひとかたならぬ思い入れがあるのだろう。福井県で中学高校時代を過ごした私は、無論大野藩の存在は知っているが、大野藩がこの時代に北方の調査・経営に乗り出していたことは本作で初めて知った。早川弥五左衛門は別に日本政府(幕府)を代表する立場にはないが、それでもロシア(直接の交渉相手はヤチコフ)の理不尽な要求に毅然と立ち向かい、全力で問題解決を図った。幕府の崩壊により、早川の苦労は何ら報われることもなく、彼自身も大野の一教員として静かに生を終える。著者は“あとがき”でいちばん敗者らしい敗者は「言い訳をしないで、また言い訳の機会を与えられずに歴史の場を去って行った人」と記しているが、まさに早川はそういう声無き無名の敗者であった。
「苔」は、著者綱淵謙錠による思案橋事件関係者の掃苔の記録である。私も染井霊園の寺本警部や源慶寺の井口慎次郎らの墓は訪れたが、言われてみれば首班である永岡久茂の墓は見たことがなかった。著者は大正六年発刊の「会津会会報」が「墓前で追善法要が営まれた」と記録した稱福寺の墓地を訪ねるが、結局永岡の墓はそこに見つけることはできない。
更に著者は、喜多方の中根米七の墓を訪ねる。中根米七は、思案橋事件後、その場を脱し会津に潜伏していたが、逃れ難きを悟って自刃した人物である。中根米七の最期に関しては享年や死亡日などに異説があり、いずれも決定的なものはない。本書の結末に著者なりの解釈を披露する。
「冤」は、偽官軍事件と呼ばれる相楽総三の無念を描いた短編である。相楽総三自身は痛いほど処刑される理不尽を感じていたであろう。斬首されるに当たっては、絶叫したいほどの無念があったに違いないが、彼は従容として死に就く。
「朔」は、大野藩士早川弥五左衛門の人生を描いた作品である。綱淵謙錠氏は樺太出身で、北方にはひとかたならぬ思い入れがあるのだろう。福井県で中学高校時代を過ごした私は、無論大野藩の存在は知っているが、大野藩がこの時代に北方の調査・経営に乗り出していたことは本作で初めて知った。早川弥五左衛門は別に日本政府(幕府)を代表する立場にはないが、それでもロシア(直接の交渉相手はヤチコフ)の理不尽な要求に毅然と立ち向かい、全力で問題解決を図った。幕府の崩壊により、早川の苦労は何ら報われることもなく、彼自身も大野の一教員として静かに生を終える。著者は“あとがき”でいちばん敗者らしい敗者は「言い訳をしないで、また言い訳の機会を与えられずに歴史の場を去って行った人」と記しているが、まさに早川はそういう声無き無名の敗者であった。
「苔」は、著者綱淵謙錠による思案橋事件関係者の掃苔の記録である。私も染井霊園の寺本警部や源慶寺の井口慎次郎らの墓は訪れたが、言われてみれば首班である永岡久茂の墓は見たことがなかった。著者は大正六年発刊の「会津会会報」が「墓前で追善法要が営まれた」と記録した稱福寺の墓地を訪ねるが、結局永岡の墓はそこに見つけることはできない。
更に著者は、喜多方の中根米七の墓を訪ねる。中根米七は、思案橋事件後、その場を脱し会津に潜伏していたが、逃れ難きを悟って自刃した人物である。中根米七の最期に関しては享年や死亡日などに異説があり、いずれも決定的なものはない。本書の結末に著者なりの解釈を披露する。