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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

「苔」 綱淵謙錠著 中公文庫

2010年04月08日 | 書評
父の書棚でこの本を見つけた。「冤」「朔」「苔」という三編を収録する。今や絶版となっているが、昨今、出版される本といえば坂本龍馬や新選組ばかりで、幕末の裏面史を描く作品は少ない。復刻を期待したい一冊である。

「冤」は、偽官軍事件と呼ばれる相楽総三の無念を描いた短編である。相楽総三自身は痛いほど処刑される理不尽を感じていたであろう。斬首されるに当たっては、絶叫したいほどの無念があったに違いないが、彼は従容として死に就く。
「朔」は、大野藩士早川弥五左衛門の人生を描いた作品である。綱淵謙錠氏は樺太出身で、北方にはひとかたならぬ思い入れがあるのだろう。福井県で中学高校時代を過ごした私は、無論大野藩の存在は知っているが、大野藩がこの時代に北方の調査・経営に乗り出していたことは本作で初めて知った。早川弥五左衛門は別に日本政府(幕府)を代表する立場にはないが、それでもロシア(直接の交渉相手はヤチコフ)の理不尽な要求に毅然と立ち向かい、全力で問題解決を図った。幕府の崩壊により、早川の苦労は何ら報われることもなく、彼自身も大野の一教員として静かに生を終える。著者は“あとがき”でいちばん敗者らしい敗者は「言い訳をしないで、また言い訳の機会を与えられずに歴史の場を去って行った人」と記しているが、まさに早川はそういう声無き無名の敗者であった。
「苔」は、著者綱淵謙錠による思案橋事件関係者の掃苔の記録である。私も染井霊園の寺本警部や源慶寺の井口慎次郎らの墓は訪れたが、言われてみれば首班である永岡久茂の墓は見たことがなかった。著者は大正六年発刊の「会津会会報」が「墓前で追善法要が営まれた」と記録した稱福寺の墓地を訪ねるが、結局永岡の墓はそこに見つけることはできない。
更に著者は、喜多方の中根米七の墓を訪ねる。中根米七は、思案橋事件後、その場を脱し会津に潜伏していたが、逃れ難きを悟って自刃した人物である。中根米七の最期に関しては享年や死亡日などに異説があり、いずれも決定的なものはない。本書の結末に著者なりの解釈を披露する。

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「『坂の上の雲』と日本人」 関川夏央著 文春文庫

2010年04月08日 | 書評
司馬遼太郎先生が、幕末や明治という時代を小説に描いた背景には、先の大戦を経験し「日本人は何時からこんなに愚かな人種になってしまったのか。かつて日本人はこのような人種ではなかったはずだ」という想いがあったという。司馬先生の昭和の軍人に対する嫌悪感は、戦争の被害者に共通するものなのかもしれない。
司馬遼太郎先生の小説を耽読した私は、無意識のうちに“司馬史観”に洗脳されており、歴史上の人物の好悪についても、恐らく司馬先生と非常に近いのではないかと思う。しかしながら、純粋な戦後生まれである私は、特に戦中戦後の無能な軍人に直接被害を受けたわけではない。戦前の精神教育の代表例のようにいわれる乃木希典に対して、特別な嫌悪感を持っているわけではない。正直に告白すれば、どちらかというと乃木希典という人物は好きなのである。日露戦争が終わり、乃木将軍が明治天皇に凱旋報告する場面は、感動的である。一人戦場の塵芥に汚れた戦闘服で参内した乃木は、自ら筆を取った復命書を読み上げる。次第に感情が高ぶり、感極って絶句し、終には嗚咽で続けることができなくなる。会場には立ち尽くす明治天皇とぼんやりと壁をみつめて佇立する児玉源太郎と、嗚咽に咽ぶ乃木だけが残される。

――― 作戦十六箇月間、我将卒ノ常ニ勁敵ト健闘シ、忠勇義烈、死ヲ視ルコト帰スルガ如ク、弾ニ斃レ、剣ニ殪ルルモノ皆、陛下ノ万歳ヲ喚呼シ、欣然トシテ瞑目シタルハ、臣、之ヲ伏奏セザラント欲スルモ能ハズ。

司馬先生によれば、乃木希典という人物は自分を一場の劇(それも悲劇)の主人公に仕立てる傾向があるという。それに付き合わされて命を捨てた兵士たちこそ悲劇であろう。自分を詩の中の人物に置きたがる傾向は、長州人に強いように思う。例えば、吉田松陰もそうだろうし、高杉晋作にもその気配がある。生野の変で自害した南八郎こと河上弥市も然り。その気質を濃厚に受け継いだ乃木だけを責めるのは酷かもしれない。

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養父 Ⅱ

2010年04月08日 | 兵庫県
(男爵北垣国道生誕の地)


男爵 北垣国道生誕の地

 能座の集落に入り、北垣国道の生家跡を探したが見当たらない。道を行く老人に尋ねると
「ああ、カヤノキさんのことかね。山を一つ越えたところだよ」
と教えてくれた。
 北垣国道の生家跡は、地元では「カヤノキさん」と呼ばれているらしい。実際、現地に行ってみればたちどころに理解できるが、遠くからも目立つ大きな榧が目印である。
 のちの京都府知事北垣国道(晋太郎)の生家跡には建物は一切残っていないが、推定樹齢七百年以上、高さ二十六メートルという立派な榧(かやのき)が聳え立っている。


天然記念物左巻榧

 北垣国道は、天保七年(1837)この家の長男に生まれ、八歳で池田草庵の門に入り漢学を修めた。文久三年(1863)の生野義挙に参加したが、敗れて長州に逃れた。戊辰戦争では越後方面に出征して功があった。維新後は北海道開拓使、元老院少書記官、その後は熊本、高知、徳島などで地方官を経験した後、明治十四年(1881)第三代京都府知事に就任。在任中に琵琶湖疎水を完成させたことで、京都人には馴染みが深い。次いで内務次官、北海道庁長官、拓殖務次官などを歴任し、男爵、貴族院議員、枢密院顧問官に列せられ、正二位勲一等旭日大授章を賜った。大正五年(1915)、京都にて死去。八十一歳。


北垣国道生家跡からの眺望

(心行寺)


心行寺

 『生野義挙日記』によると、生野を脱した平野國臣と横田友次郎(因州藩)は長野村の心行寺(『義挙日記』では信行寺)で甲冑を脱ぎ捨て、能座の北垣晋太郎(国道)を訪ねた。そのとき北垣は不在で、町村の叔父の屋敷にいた。平野と横田は町村まで赴いてそこで北垣と会ったが、結局、北垣は但馬で顔が知られているため同行を諦め、両名と袂を分かったという。これが生死を分かつことになった。

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朝来 Ⅱ

2010年04月08日 | 兵庫県
(佐中千年家)
 佐中川の中流に「千年家」と呼ばれる古い民家がある。千年家の始祖は、藤原俵太秀郷の末裔、進藤権之進といわれ、以来八百五十年余り、連綿とその家系が受け継がれてきた。七代目に当たる小源太敦景がこの地に住み始め、この屋敷は十三代吉左衛門のとき(1460~1480頃と推定)建築されたものといわれる。従って「千年」とはやや誇大な感じがするが、歴史のある建物であることは間違いない。


佐中千年家 原六郎生誕之家

 幕末この進藤家から一人の志士が出た。進藤俊三郎のちの実業家原六郎である。原六郎は、生野義挙計画に参加し、武器の調達などに奔走した。


佐中千年家

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