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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

船橋

2009年02月11日 | 千葉県
(浄勝寺)


浄勝寺

 船橋市役所周辺の繁華街の中に寺町があり、その中でもっとも広い境内を持つのが浄勝寺である。墓地に入ったところに石柵に囲まれた尾州磅礴隊士の墓がある。尾張藩の三名の合葬墓である。慶応四年(1868)八月、彼らは所用で船橋の旅館に宿泊していたところを浪士に襲われて死亡した。尾張藩磅礴隊は、総勢百七十四名からなる草莽隊(義勇軍)で、戊辰戦争では征東大総督有栖川宮熾仁親王の護衛に当たっていた。三人を襲った浪士の正体も行方も分からぬままであるが、官軍に恨みを持つ徳川方脱走兵の集団であろう。


尾州藩 磅礴隊士の墓

(馬込安立庵)


歡應喜道居士(佐土原藩常吉の墓)

 この一年、市川船橋における戊辰戦争戦跡を追ってきたが、どうしても正確な場所がつかめない史蹟があった。そこで船橋市中央図書館まで出かけて、郷土の歴史コーナーで調べてみることにした。船橋市にも「船橋市史研究」という郷土史家による優れた資料集がある。その3号と5号に山川正作氏が戊辰戦争の戦死者の墓を詳しく紹介している記事を発見した。私がこれまで取材したほかにも、船橋市旭町共同墓地の脱走方兵士の墓、同宮本五丁目の東光寺徳川方三兵士の墓、中山法華経寺脱走方鈴木音次郎の墓などが紹介されている。図書館で住宅地図を借りて、旭町共同墓地の位置を確認した上で、早速現地を訪問した。旭町共同墓地は決して大きな墓地ではない。無名兵士の墓を求めて、この狭い墓地を五回くらい歩き回ったが、遂に発見できなかった。ついでにいえば、東光寺の脱走方の墓も、これまで二回東光寺墓地を探し回ったが、未だに見つけられない。山川正作氏の記事は今から二十年以上前に書かれたもので、その後無縁墓は撤去された可能性もある。だとすれば非常に残念と言わざるを得ない。これは行政の怠慢あるいは失策であろう。
 東武野田線馬込沢駅から木下街道を東に進むと、街道沿いに小さな墓地がある。墓地といっても墓石は三つしかない。これが安立庵墓地である。既に安立庵は廃寺となっている。このままではこの墓も朽ちて消え失せてしまうのではないかと心配してしまう。
 墓の主は佐土原藩の常吉である。姓も持たない常吉は、官軍の軍役に借り出された小者だったのかもしれない。この辺りの路傍に息絶えていたのを埋葬したものという。

コメント (4)
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