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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

会津若松 飯盛山周辺

2009年09月06日 | 福島県
(飯森山)
 飯盛山に来て、先ず人の多さに驚いた。山腹にある白虎隊士の墓に至る参道両側には、ぎっしりと土産物屋が軒を連ねる。白虎隊の悲劇というのは、確かに人を惹きつけるが、白虎隊ばかりに注目が集まるのは理解に苦しむ。


自刃した白虎隊士の墓


戦死白虎隊士の墓


少年隊士慰霊碑

 有名な白虎隊士の墓である。正面に飯森山で自刃した十九名の墓。一旦は妙国寺に埋葬されたが、その後この地に改葬されている。向って右側の墓が会津の各地で戦死した白虎隊士三十一名の墓である。また、左側には県内および新潟、栃木、京都の戦争で亡くなった少年隊士らの慰霊碑がある。


会津藩殉難烈婦碑

 会津戊辰戦争で自刃または戦死した婦女の数は二百名を超える。彼女らの霊を弔うため、昭和三年(1928)に建立された顕彰碑である。


吉田伊惣次篤志碑

 飯森山で自刃した白虎隊士の屍は、戦後しばらく埋葬を許されなかったが、滝沢村牛ヶ墓の肝煎吉田伊惣次は、この惨状をみて村人の協力を得て夜間密かに遺体を飯森山と妙国寺に仮埋葬した。吉田伊惣次は、明治十七年(1884)六十七歳で没したが、明治三十三年(1900)、伊惣次の篤志をたたえてこの碑が建てられた。


松平容保公弔歌碑

 容保が白虎隊士の殉難忠節を詠んだ弔歌を刻んだ歌碑である。

幾人の涙は石にそそぐとも
その名は世々に朽じとぞ思う


白虎隊士 遠藤嘉竜二墓碑

 遠藤敬止の弟、遠藤嘉竜二の墓碑である。遠藤嘉竜二は白虎隊に属し、九月十日、会津郊外熊倉における戦闘で戦死した。


白虎隊碑


飯沼貞雄之墓

 飯森山から黒煙をあげる鶴ヶ城を見て絶望した白虎隊士は自決を選んだ。いずれも十六~十七歳の若者であった。そこに通りかかった印出新蔵の妻ハツは、まだ息のある飯沼貞吉少年を発見し、ふもとの農家に運んで介抱した。飯沼貞吉は蘇生し、その後逓信省の技師となって活躍した。昭和六年(1931)七十八歳で没したが、昭和になってから当時のことを語ったため、自刃した白虎隊士の最期の様子が明らかになった。


白虎隊殉難詩碑

 容保の侍医、馬島瑞園作の白虎隊殉難詩を刻んだ詩碑である。


白虎隊士像

 白虎隊の悲劇の深刻さとややかけ離れた白虎隊士像。六頭身のアニメっぽい石像は、ややひょうきんな印象を与える。


白虎隊自刃の地から会津市内を臨む

 遠く鶴ヶ城の天守が見える。
 ここから鶴ヶ城まで直線距離にしてほぼ三㎞である。激しく炎上する城下を見て、白虎隊士が鶴ヶ城陥落と誤認してしまったのも無理はない。実際、鶴ヶ城はその時点から約一か月持ちこたえた。


郡上藩 凌霜隊之碑

 郡上藩は、美濃郡上(現・岐阜県郡上八幡市)を藩領とする青山氏四万八千石の小藩である。戊辰戦争が起きると、藩の保全のため、佐幕派の血気盛んな若者四十五人を脱藩させ凌霜隊を結成し、旧幕軍に合流させた。一方で表面上は官軍に恭順するという苦肉の策をとった。
 凌霜隊の隊長は、朝比奈茂吉十七歳(首席家老の長男)。大内峠の戦闘では山中で全員が離れ離れになり、隊長朝比奈茂吉も敵陣に斬り込んで討ち死にを覚悟したが、何とか敵陣を突破して鶴ヶ城に入ることができた。凌霜隊は戦死八人、行方不明二人を出した末、故郷に生還したが、新政府に遠慮する藩上層部のために国許で牢に入れられた。彼らが自由の身になったのは、明治三年(1870)二月のことである。まさに藩の都合によって彼らの命運は翻弄されたといって良い。


宇賀神堂

 宇賀神堂は、寛文年間(1661~1672)に建立されたもので、三代藩主松平正容(まさかた)により弁財天像と宇賀神(五穀の神)が奉納された。
 明治二十三年(1890)、白虎隊士の墳墓改修の際、飯森山で自刃した隊士十九名の霊像がここに安置されることになった。いずれもフランス流の洋服姿である。


宇賀神堂

 戸ノ口堰の洞窟は、今から四百年ほど前の元和年間(十七世紀初頭)に猪苗代湖の水を会津若松にひくために郷士八田氏が起工し、元禄年間まで工事が続けられた。天保三年(1832)、藩命を受けた佐藤豊助が飯森山山腹に百五十メートルの穴を穿つことで完遂した人工的な洞穴である。使役人夫五万五千人、三年半の歳月を費やした大工事であったという。
 白虎隊士中二番隊二十名は、戸ノ口原援軍に派遣されたが、利あらず帰城する途中、この洞穴を通ったと伝えられる。


戸ノ口堰洞窟

(白虎隊記念館)


白虎隊記念館 白虎隊士像

 白虎隊記念館は、幕末をテーマとした記念館では、高知の坂本竜馬記念館と並んで人気が高い。白虎隊に限らず、会津出身の人物に関わる展示など見所は多い。記念館の前の展示品や石碑も見ておきたい。


水戸藩諸生党鎮魂碑

 平成十二年(2000)に建てられた水戸藩諸生党鎮魂碑である。水戸藩士が会津戦争に参戦していたという事実は、あまり知られていない。戊辰戦争の勃発とともに水戸を追われた市川三左衛門ら諸生党と呼ばれる保守・門閥派は、北越戦線から会津戦争を戦った。八月二十三日、西軍が城下に殺到すると、彼らも奮戦し、その後も城内各門の防御と城外各地で戦った。九月二十二日に会津藩の降伏を受けて、会津藩領を脱し水戸を目指した。藩校弘道館に立て籠って水戸城入城を試みたが、果たせず撤退を余儀なくされた。その後も本圀寺党(天狗党の流れをくむ尊王攘夷派)との熾烈な抗争は同年十月の下総松山における松山戦争まで続き、そこで諸生党は壊滅した。


十六橋橋脚


酒井峰治と愛犬クマの銅像

 戸ノ口原で戦った白虎隊士のうち生き残った二十二名のうちの一人である酒井峰治の像である。酒井峰治は、鶴ヶ城に戻ろうと山中を一人彷徨っていると、飯森山の裏手で愛犬クマに出会ったシーンを再現したものである。酒井峰治は、帰城して籠城軍の一員として戦った。

(白虎隊伝承史学館)


白虎隊伝承史学館

 白虎隊と旧幕軍、新選組の子孫が受け継いできた遺品や写真と展示する白虎隊伝承史学館では、五千点におよぶ史料を展示している。

(旧滝沢本陣)


旧滝沢本陣

 飯盛山の人だかりと比べて、同じ白虎隊関連の史跡でありながら、訪れる人はさほど多くない。激しい銃撃戦が交わされたらしく、建物の至るところに弾痕や刀痕が残っている。本陣前の道は、白河街道である。会津戦争前夜、藩主松平容保は、前線督励のため一時ここに陣を置いた。そのとき白虎隊が護衛として従ったが、戸ノ口原が破れたという急報を受けて、白虎隊に出陣の命が下された。


戊辰戦争弾痕
慶応四年八月二十三日


刀痕


弾痕

(一箕八幡神社)


一箕八幡神社

 母成峠が破られ、西軍は十六橋、戸ノ口原と進撃を続けた。八月二十三日の早朝、容保は城北の蚕養(こかい)口から鶴ヶ城へ避難したが、その直後、西軍主力が蚕養口に殺到した。滝沢陣屋と蚕養神社の中間点、一簣八幡神社では、和平派の国産奉行河原善左衛門らがここに陣を張っていた。よく奮戦したが、瞬く間に河原善左衛門、弟岩次郎、長男勝太郎ら多くが討ち取られ壊滅した。

(妙国寺)


妙国寺

 会津藩降伏後、藩主松平容保と嗣子喜徳は、妙国寺にて約一カ月の間、謹慎した。


紀念塔

 漢文調の文章にて妙国寺の起源や飯森山で自刃した白虎隊士の遺体を仮埋葬したことなどを記している。


殉節 白虎隊士之霊


白虎隊士 自刃仮埋葬地


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会津若松 鶴ヶ城周辺

2009年09月06日 | 福島県
(鶴ヶ城)
会津籠城戦の舞台となった会津若松城(通称鶴ヶ城)である。この城の起源は、南北朝時代の十四世紀に葦名氏が築城したことに始まる。以降、戦国時代まで葦名氏の時代が続く。葦名氏が伊達政宗に滅ぼされると、豊臣秀吉の治世に入って、蒲生氏郷が城主として送り込まれる。蒲生氏郷は、城郭を改造し、城下町を整備した。江戸初期の会津藩主は加藤嘉明であったが、寛永二十年(1643)に改易され、代わって保科正之(徳川秀忠の四男、家光の弟)が任じられると以後戊辰戦争まで会津松平藩の居城となった。


鶴ヶ城

戊辰戦争では、戦闘要員だけでなく、老人、女性、子供合わせて五千人余りが籠城したと言われる。薩摩、土佐、肥前を主力とした攻城軍は間断なく大砲を打ち込み、城内は目をおおうばかりの悲惨な状況に陥った。戦争というより、一方的な殺戮というべきであろう。しかも籠城する会津には、援兵の見込みがあるわけでもない。本来であればもっと早く降伏すべきだった。天守閣は砲撃を受けて激しい損傷を受けたが、崩落することなく降伏の日を迎えている。しかし、修復されないまま明治初年破却された。現在の城郭は、昭和四十年(1965)に鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。

若松城周辺には、興味深い史跡が点在している。三の丸駐車場近辺には、秋月悌次郎の詩碑、文化福祉センターの前には佐川官兵衛の顕彰碑が、そして再建された天守閣に近い場所に萱野国老殉節碑がそれぞれ置かれている。


秋月悌次郎詩碑

 秋月悌次郎が、戊辰戦争後の明治元年(1868)十月、藩の減刑嘆願のため、越後駐留中の長州藩士奥平謙輔を訪ねた帰途、越後街道の束松峠にて詠んだ北越潜行の詩である。
 秋月悌次郎は、藩校日新館を出て、江戸昌平黌に学んだ。文久三年(1863)の八一八の政変では、薩摩の高崎正風と謀って政変を成功させた。会津落城の際には、降伏式の執行役を務めたという。


遠藤敬止翁頌徳碑

 会津藩士遠藤敬止は、各地の戦争に参加したのち鶴ヶ城に籠城し、そこで終戦を迎えた。戦後は第七十七銀行の頭取を務めるなど、東北地方の経済発展に尽くした。明治二十三年(1880)、鶴ヶ城が払い下げられた際、私財を出してこれを松平家に献納した。このことを顕彰した碑が本丸北側に建てられている。


萱野国老殉節碑

 昭和九年(1934)に建立された、会津戦争の責を一身に負って切腹した萱野権平衛の殉節碑である。萱野権兵衛は、田中土佐、西郷頼母、神保内蔵助の継ぐ四人目の家老であったが、終戦時に田中土佐と神保内蔵助は既に自刃して世になく、西郷頼母は城を追われて旧幕臣榎本武揚を頼って箱館五稜郭にいた。そのため、席次が繰り上がって萱野権兵衛が斬に処されることになった。泰然自若とした最期だったと伝えられる。


佐川官兵衛顕彰碑

 佐川官兵衛は、天保二年(1831)、会津に生まれた。文久三年(1863)の容保上洛に従い、物頭に任じられて禁門の変に活躍。鳥羽伏見の戦いでは、別選組隊長として第二陣を指揮し、鬼官兵衛と異名を取った。帰国すると西軍の越後進攻に対抗して、長岡の河井継之助と呼応して戦った。会津城攻防戦では若年寄として城外諸兵の総指揮を任された。戦後は東京に護送されて堀田邸に幽閉された。
 西南戦争に出征したが、明治十年(1877)三月、敵弾を受けて戦死した。四十七歳であった。
 顕彰碑の前には、官兵衛が戦死した熊本県阿蘇郡白水村の鬼官兵衛記念館から贈られた松が植樹されている。


西郷四郎顕彰碑

 西郷四郎は、柔道家で小説「姿三四郎」のモデルと言われる。十六歳のとき西郷頼母の養子となった。

(西郷邸跡)


西郷邸跡

 鶴ヶ城を北に出たところが会津藩重臣西郷頼母屋敷跡である。慶応四年(1868)八月二十三日、西軍が城下に迫ると、西郷頼母は慌しく登城した。あとに残った妻千恵子は娘たちを刺し、自らも辞世をしたためて自害した。
 この日西郷邸で自刃したのは、以下の二十一名である。

母  律子    五十八歳
妻  千恵子   三十四歳
妹  眉寿子   二十六歳
妹  由布子   二十三歳
長女 細布子   十六歳
次女 瀑布子   十三歳
三女 田鶴子   九歳
四女 常盤子   四歳
五女 季子    二歳

西郷家支族
西郷鉄之助    六十七歳
妻  きく子   五十九歳

親族
小森俊馬祖母 ひで子 七十七歳
妻  みわ子   二十四歳
長女 つち子   十歳
長男 千代吉   五歳
次女 みつ子   二歳
町田伝八     五十歳
妻  ふさ子   五十九歳
姉  浦路    六十五歳
浅井信次郎妻たつ子 二十四歳
長男  彦    二歳


西郷頼母の妻 千恵子の辞世が刻まれた碑

(内藤邸跡)
 西郷邸の向かい、現在簡易裁判所の敷地となっている場所が家老内藤介右衛門の屋敷跡である。庭は白露庭と呼ばれ、裁判所の前庭として使われている。
 内藤介右衛門は、総督として白河に出征。入城した後は三の丸の守備についた。家族は、西郷家と同じように泰雲寺で全員が自刃した。戦後は斗南に移住し、開拓と子弟の教育に尽力した。実弟に梶原平馬、彰義隊に参加した武川信臣がいる。


旧会津藩家老
内藤邸跡

(酒蔵歴史館)
 酒造歴史館の敷地は、数々の歴史舞台となった。


会津戊辰戦争終結の地

 酒造歴史館の入口前に会津戦争終結の地の説明がある。降伏の儀式が執り行われたのは、九月二十二日の正午頃で、甲賀町通り路上には十五尺四方(約4.5メートル)の緋毛氈が敷かれ、その上で松平容保、喜徳父子によって降伏の調印が成され、西軍の軍監、薩摩の中村半次郎(のちの桐野利秋)に手渡された。終了後、会津藩士たちはこの日の屈辱を忘れぬために緋毛氈を細かく切り刻み、各人懐中におさめて持ち帰ったという。会津人は、これを「泣血氈」と呼んだ。


山川三兄妹生誕の地

 「三兄妹」とあるが、山川兄妹は、二男五女であった。
 酒蔵歴史館東の駐車場側が、山川三兄妹生誕の地である。山川家は、千三百石の家老の家であった。山川大蔵(のちに浩)は、文久三年(1863)藩主容保に従って上京し、慶応二年(1866)には樺太境界議定のため外国奉行とともにロシアに派遣された。二十二歳という若さで、日光口副総督を務め、しばしば西軍を破って名をあげた。会津若松帰城の際、彼岸獅子を先頭に千人の将兵を堂々と無血入城させた逸話は有名である。廃藩後は陸軍省に出仕し、西南戦争では西征別働軍参謀として活躍。のち陸軍少将、貴族院議員を務めた。明治三十一年(1898)東京で没した。五十四歳。
 山川健次郎は、戊辰戦争時点で白虎隊の一員だったが、十四歳と所定の年齢に達していないことから除隊された。敗戦後は、米国留学しエール大学を卒業。日本初の物理学博士。のちに東京帝国大学総長を務めた。その一方「会津戊辰戦争史」「京都守護職始末」等の編纂、白虎隊墳墓の整備などに努めた。


大山捨松生誕の地

 万延元年(1860)生まれの山川捨松は、籠城時には八歳。戊辰戦争後、日本初の女子留学生として津田梅子らと米国留学。大学を首席で卒業して帰国した。のち薩摩の大山巌と結婚し、陸軍卿夫人として外交の舞台で活躍した。捨松は「鹿鳴館の華」と謳われ、社交界の注目を集めた。

(埋蔵文化物管理センター)


萱野権兵衛 郡長正屋敷跡

 埋蔵文化物管理センターの場所が萱野権兵衛と郡長正の屋敷があった地点である。
 萱野権兵衛は、戊辰戦争時の国家老であった。敗戦後はその処理に奔走した末、明治2年(1869)、戦争責任を一身に負って自刃した。
 郡長正は萱野権兵衛の次男。戦後、選ばれて小笠原藩に留学したが、ある日食事のまずさを嘆いた手紙を母に送り、それを咎めた母からの返信を同級生に見られて嘲笑を浴びた。屈辱を晴らすために切腹して自ら生涯を閉じた。わずかに十六歳であった。

(つばくろ公園)


柴四朗・柴五郎生誕の地

 現在、つばくろ公園と呼ばれる少し広めの公園が、柴四朗、五郎兄弟の生誕跡地である。

(甲賀町口門跡)
甲賀町口郭門跡は若松城下で十六あった郭門中、唯一現存する郭門の名残の石垣である。戊辰戦争では滝沢峠方面から押し寄せた敵兵がこの郭門から郭内に入ろうとして激しい戦闘が展開された。


甲賀町口門跡

 八月二十三日、甲賀町口には土佐藩兵を先頭に大垣、長州、大村、佐土原、薩摩諸藩の兵が殺到した。諸隊が後退する中で、六石二人扶持の佐藤与右衛門(七十四歳)は槍を手に奮戦したが銃弾に斃れた。それを見た孫の佐藤勝之助は祖父の名を叫びながら敵中に切り込み、やはり銃撃され戦死した。土佐藩兵らは勝之助の首級を大皿に乗せて酒の肴にし、全員で放吟して少年兵の武勇を称えたという。

(興徳寺)
 会津若松市内は、寺の多い街であるが、その中にあって唯一郭内と呼ばれる武士階級の住居地域に在る寺が興徳寺である。境内には、豊臣家の武将にして会津の城と城下町の構築に力を注いだ蒲生氏郷の遺髪を納めた墓がある。この寺もやはり会津戦争で全焼している。


興徳寺


松平容保歌碑

蒲生氏郷の城下町建設が始まったのが文禄元年(1592)のことであるが、その三百年後の明治二十四年(1891)に行われた若松開市三百年祭に寄せて詠まれた祝歌を刻んだものである。大正十三年(1924)に有志が建てた碑である。

百年を三たびかさねし若松の
 さとはいくちよ栄え行らん


秋月 三原 原田 家先祖代々之墓
(秋月登之助の墓)

 秋月登之助は、田島代官江川又八の子で、戊辰戦争が始まると、旧幕兵が結成した伝習隊に投じ、伝習第一大隊長に就任した。宇都宮攻城戦、今市の戦争に参加し負傷した。会津若松に帰着後は、大鳥圭介、土方歳三らと母成峠にて奮戦した。


池上家累代之墓

 池上四郎は、会津藩士池上武輔の四男として生まれ、明治十年(1877)、警視庁に巡査として採用され、日本各地の警察署長を歴任した。大阪府の警部長を務めたのち、その後十三年間にわたり大阪治安の元締めとして活躍した。大正二年(1913)大阪市長に推され三期十年を務めた。退任後は朝鮮総督府政務総監となったが、昭和四年(1929)任期半ば東京で没した。七十四歳。秋篠宮紀子さまの曽祖父にあたる。

 八月二十九日、長命寺における戦闘で戦死した外島良蔵が葬られている。


外島家塋域

(大東銀行会津支店)
 吉田松陰や土方歳三が宿泊したと伝えられる清水屋旅館跡である。銀行の前に石碑が建てられている。吉田松陰がこの地に逗留したのは、嘉永五年(1852)二十二歳のときである。土方歳三は宇都宮戦争で足を負傷して、清水屋旅館に搬送された。


清水屋旅館跡

(藩校日新館跡)
 鶴ヶ城の西に隣接してかつて藩校日新館の敷地が広がっていた。戊辰戦争で焼失したため、現在、鶴ヶ城西側の道路に面して日新館跡の石碑があるのと、唯一の遺構として天文台跡を見ることができるだけである。


会津藩校日新館跡

 日新館が開かれたのは、文化元年(1804)、五代会津藩主松平容頌(かたのぶ)の治世であった。当時、会津藩は財政難に苦しんでいたが、容頌は田中玄宰(はるなか)を家老に抜擢し、藩政改革に当たらせた。玄宰は、藩財政の基盤は藩内の殖産興業にあると考え、それを実現するために家臣団の教育と人材の登用を推進した。その施策の一つとして藩校日新館が設立されたのである。
 日新館は、十歳を迎えた藩士の子弟が入学することになっており、天文台や水練所、図書館などを備えていた。教科は、儒教を中心に医学や天文学まで多岐に渡っていた。藩士に与えた影響でいえば、有名な「什の掟」に代表される会津武士道の精神教育が最も大きかったかもしれない。


日新館天文台跡

(山本覚馬・新島八重子生誕地)


山本覚馬 新島八重生誕の地

 山本覚馬は、藩の砲術師範で日新館の教授であった。元治元年(1864)には、藩主容保に従って京都に出た。鳥羽伏見戦争で囚われたが、戦後釈放されると京都府顧問に就いて京都の近代化に貢献した。明治八年(1875)、新島襄と同志社英学校を設立した。
 覚馬の妹、八重子は戊辰戦争では籠城した経験を有する。断髪男装して奮戦する様子は男勝りだったという。開城の前夜、八重子は簪で「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月影」と城壁に刻んだ。兄を慕って京都に上り、明治九年(1876)そこで新島襄と結婚した。昭和七年(1932)京都にて逝去。八十六歳。

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会津若松 会津若松駅周辺

2009年09月06日 | 福島県
(会津若松駅)
三日間をかけて会津若松から猪苗代、本宮、二本松、いわき周辺の史跡を回ってきた。早朝から日暮れまで、灼熱の墓地を歩き、寺を探し、山を登り、街を歩いた。この三日で体重は急減して、どういうわけだかからだ中が傷だらけで、脚はマラソンを走ったように激しい筋肉痛になった。今は疲労感とともに人知れぬ充実感に浸っている。三日間で撮影した写真は、六百二十五枚にのぼった(因みにモーツァルトの作品数は六百二十六)。取材から三週間以上が経過してしまったが、その間さぼっていたわけではないし、遠くに出張に行っていたわけでもない。あまりに膨大な量の画像の整理に時間がかかってしまっただけである。これからブログに掲載していきたい。

仕事を終えると、この日はさっさと帰宅した。私は何時でも出発できる状態であったが、同行する息子が卓球部の先輩の試合の応援に行ったまま帰ってこない。息子が帰宅して八王子の自宅を出発できたのは、予定より一時間遅れの午後十時であった。
この日は、ETC利用者の割引が適用となり「どこまで行っても千円」の日だったので、高速道路の渋滞が予想された。現に昼間は各地で渋滞が発生していると報道されていた。覚悟を決めてハンドルを握ったが、予想に反して会津に至るまで一度も渋滞には出会わなかった。家を出てからちょうど三時間半で、会津若松ICに一番近いサービスエリアである磐梯SAに到着した。時刻は深夜の一時半を回っており、さすがにこの時刻高速道路を走っている車は少ないが、サービスエリアは休憩を取る自動車で満杯であった。深夜というのに、係りの人が出動して空いている駐車場に誘導してくれた。
ここで夜明けまで車内で睡眠を取ることになる。息子はすやすやと寝息を立てているが、大人には狭い車内は耐え難い。どういう体勢を取っても無理がある。ほとんど一睡もできないまま夜明けを迎えた。


会津若松駅 白虎隊士像

午前五時。エンジンを始動して、会津若松の市内へ車を走らせる。電車マニアの息子は磐越西線の始発に乗るというので六時前に会津若松駅に送って、そこで分かれた。
会津若松駅前には、会津戦争の悲劇の象徴である白虎隊士像が置かれている。いまや、白虎隊は会津若松の貴重な観光資源である。お盆の時期だからといって会津若松市内で特に目立った渋滞に会うことはない。駐車場が満杯で順番待ちをすることもない。ただし、白虎隊士の墓のある飯盛山だけは異常な混雑であった。歴史上のヒーローがもてはやされるのは何も白虎隊に限った話ではないが、これがエスカレートすると、対象が美化され史実が歪められる。ヒーローの美談には気を付けた方が良い。

(弥勒寺)


弥勒寺

 弥勒寺には広沢安任の先祖の墓がある。広沢安任自身の墓は、斗南(現・青森県三沢市)にある。実は一昨年三沢を訪ねた際に広沢の墓を探したが、行き着くことができなかった。
 弥勒寺の墓地はかなり広大で、この中から広沢家の墓を探し出すのは大変である。と、思った次の瞬間、意外なほどあっさりと広沢家の墓が目の前に現れた。


廣澤家祖先之墳墓

(西軍墓地)
 西軍(薩摩、長州、土佐、肥前、大垣)の墓地である。敷地はもともと隣接する融通寺の墓地の一角であった。融通寺には戊辰戦争当時、西軍の本陣が置かれたため、西軍墓地が設けられたのも、その関係と思われる。ほかの街であれば、「官修墓地」であろうが、会津では飽くまで「西軍」である。口が裂けても「官軍」とは呼ばない。会津藩の正史である「会津戊辰戦史」では「東軍」「西軍」という表現を取っているので、ここではできるだけこれに倣うこととしたい。

 会津戦争では、西軍側にも多くの血が流れた。ここには百七十四柱の戦死者が眠る。戦後、百年近くが経ち墓地の荒廃が進んでいたが、昭和三十二年(1957)に改修工事が施された。


西軍墓地

 この戦闘における西軍側の最大の損失は、土佐藩小笠原唯八の戦死であろう。小笠原唯八は、通称を牧野群馬といい、西軍墓地の墓碑には「官軍諸道軍監牧野茂敬墓」と刻まれている(茂敬は諱)。
 小笠原唯八は、土佐藩士小笠原弥八郎の長男に生まれ、文久元年(1861)前藩主山内容堂の扈従となり、以降、抜擢を受けて藩の側物頭加役さらに大監察兼軍備御用役に進んだ。元治元年(1864)には間崎哲馬の断罪、野根山屯集事件の斬刑を執行した。のち大阪陣屋詰めとなって上阪して薩摩藩と交わるに伴い、熱心な尊攘家に転じた。慶応三年(1867)には乾退助、中岡慎太郎らと討幕の密約を結んだが、過激な言動を容堂に疎まれ、帰国、解職を命じられた。しかし、鳥羽伏見の戦争が勃発するや、大監察・仕置役として藩兵を率いて松山藩征討に赴いた。東征に際して、抜擢を受けて大総督御用掛となり(このころ牧野群馬を名乗る)、継いで諸道軍監として彰義隊戦争、東北戦争に功をたてたが、会津城攻撃戦で戦死。四十歳。


官軍諸道軍監牧野茂敬墓
(小笠原唯八の墓)

 長州藩主力の干城隊と奇兵隊は、長岡攻略に手間取り、さらに会津への途中、至るところで会津兵の抵抗に遭い、会津攻城への参戦は大きく遅れた。その結果、長州藩軍の損傷は比較的軽微であった。


長藩戦死十三人墓


戊辰 薩藩戦死者墓
松方正義の書である


官軍 備洲藩


土佐藩戦死者の墓


大垣 戦死二十人墓

(融通寺)
 会津戦争のとき、融通寺には西軍の本営が置かれていたため、戦火を免れた。墓地に町野家の墓がある。


融通寺

 町野主水は、越後魚沼郡軍事奉行に任命され、佐川官兵衛、長岡の河井継之助と連携して各地を転戦した。三国峠の戦いでは、薩摩、長州、尾張、松代、松本、飯山、前橋、高崎などの連合軍に包囲され、撤退を余儀なくされたが、当時一七歳で白虎隊士であった弟町野久吉は、長槍を手に敵中に突進した。銃撃を受けて壮絶な戦死を遂げた久吉の首塚が町野家の墓域にある。


町野久吉首塚


町野源之助重安主水の墓

 戦後、町野主水は若松にとどまり、戦死した藩士の遺骸の処理に尽力した。町野は陳情を繰り返し、ようやく戦争終結後の翌二月、遺体埋葬の許可を得た。城の内外から集められた遺体は、阿弥陀寺に巨大な穴を掘って何段にも積み重ねられたが収まりきれず、最後は土を盛った。それでも足りず、長命寺にも墓を掘って埋めた。阿弥陀寺には千二百八十一体、長命寺には百四十五体が葬られている。
 町野主水は、会津弔霊義会を設立しその初代会長に就任して、戦死者の霊を弔った。
 町野主水は、大正十二年(1923)六月永眠したが、自ら遺言して他の戦死者と同様に自分の遺体を菰で包み、縄で縛り馬で曳かせて融通寺に埋葬させたという。


町野源之助妻女家内墓

 町野主水の母、姉、妻、長女、長男と南摩三右衛門の母、息子二人は、戦火を避けて移動中鶴ヶ城落城の報に接し、坂下町勝方寺の裏山で全員が自刃している。

(実成寺)


実成寺


智現院殿良雄仁達日誠居士
(蜷川友次郎の墓)

 鳥羽伏見の戦争の敗戦が伝わると、会津藩では軍備の増強とともに兵制の改革が断行された。兵は年齢別に、朱雀隊(十八歳から三十五歳の最強部隊)、青龍隊(三十六歳から四十九歳)、玄武隊(五十歳以上)、白虎隊(十六~十七歳)の四つに分けられた。
 思えば西南戦争のときの薩摩軍も、戦争初期は一番大隊から七番大隊まで単純に数字で呼んでいたが、戦況が悪化すると編成し直して振武隊、雷撃隊などと勇ましい名前に変えている。
 このような隊名を付けた時点で、会津藩は自ら不利を宣言したようなものであった。まして本来戦闘要員に組み入れるべきではない、五十歳以上の老人や十七歳以下の少年まで戦闘に駆り出さなくてはいけなかった。既に悲劇は始まっていた。
 蜷川友次郎は、青龍隊足軽隊中隊長として白河まで出征し、会津城下の攻防でも甲賀町口で奮戦したが八月二十三日の戦闘で戦死した。


義専院勇猛日現居士
(蜷川文次郎の墓)

 友次郎弟の文次郎は、朱雀士中四番隊に属し、町野源之進主水の指揮下、越後に転戦したが、八月十一日、小松関門における戦闘にて戦死した。

(妙法寺)
 馬場新町の妙法寺には、中野竹子・優子姉妹の父、中野平内の墓である。中野平内は江戸常詰の勘定役であった。


妙法寺


中野平内翁之墓

 中野平内の墓の横には、半ば朽ちかけた、妻中野コウの墓がある。


中野コウの墓

 長女竹子は涙橋付近で銃弾に斃れたが、その後しばらくして城内と連絡が取れ、娘子隊も鶴ヶ城に入城することができた。中野コウらは、傷病兵の看護や兵糧弾薬の運搬にあたった。


日新館遺構

 妙法寺門前の欄干は、藩校日新館にあった石橋を移築したものという。

(久福寺)


久福寺

 八月二十六日に戦死した吉川寅松の墓である。墓には「義達 身居士」という戒名が刻まれている。


吉川寅松の墓(中)

(自在院)


自在院


西軍 戦死者墓

 自在院には、西軍の戦死者六人を葬った墓碑がある。

(専福寺)


専福寺

 ここにも西軍の戦死者二人が葬られている。従軍していた高田藩の人夫のものらしい。


官軍兵士二人之墓


野出家之墓

 日本画家野出蕉雨(しょうう)の墓である。
 野出蕉雨は戊辰戦争にも従軍したが、戦後は日本画、能楽、謡曲の普及、発展に貢献した。昭和十七年(1942)まで長命した。没年九十六歳。


下坂家先祖代々之墓

 砲兵一番隊士下坂重三郎の墓である。

(真龍寺)

 墓が広く、目的の墓に行き着くのは、かなり困難である。辛うじて柿沢勇記と宇南山壮平の墓を発見できた。


柿沢勇記の墓

 柿沢勇記は、会津藩士柿沢勇八の子で、藩校日新館に学び頭角を現した。のち藩命を受けて江戸に遊学したが、藩主松平容保が京都守護職に任じられると、公用方に抜擢された。戊辰戦争が始まると、大鳥圭介の伝習隊に投じ各地を転戦したが、四月二十三日の宇都宮城攻防戦にて両脚に被弾。その二日後に日光で死去した。享年三十六。日光観音寺にも墓がある。


宇南山家之墓

 宇南山壮平の墓である。

(本覚寺)


本覚寺


佐治次助墓

 墓碑によると、明治元年(1868)九月四日戦死。


佐治為秀墓

 明治二十年(1888)八月八日没。

(法華寺)


法華寺


三善家(長道)之墓

 三善長道は会津藩の刀鍛冶の家である。作刀は「会津虎徹」と称される。八代長道は、戊辰戦争にも参加したという。


戊辰殉難 木村一族之墓

 八月二十三日、会津若松城下の自宅で自決した木村一族の墓である。

木村兵庫 五百石。青龍寄合一番隊中隊頭。 三十九歳
木村カヨ・・・兵庫の妻。三十二歳
木村スカ・・・兵庫の娘。八歳
木村エン・・・兵庫の娘。六歳
木村幸蔵・・・兵庫の実父。六十八歳
木村ナミ・・・兵庫の実母。五十九歳
木村忠右衛門・・・兵庫の養父。六十歳
木村ナヲ・・・兵庫の養母。五十歳
木村コト・・・兵庫の義妹。二十五歳


鈴木家之墓

鈴木為輔は、会津藩青龍寄合一番隊隊士。九月二十二日朝、城頭に白旗三本を掲げ、同僚の川村三介とともに、降伏の使者として土佐藩の陣営に赴いた。白旗は城内の女性たちが、泣きながら白い布を縫い合わせたものという。
 中村彰彦は鈴木為輔を短編小説の主人公として描いた。為輔は、死んでも惜しくない者だった故に降伏の使者に選ばれたという、ちょっと滑稽な設定となっているが、戦闘中に敵の陣中に飛び込んでいくのは、相当勇気のいることだったと想像する(「開城の使者」中公文庫「修理さま 雪は」所収)。


復属之碑

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白河

2009年08月08日 | 福島県
(白河城)
 白河は東北の玄関口である。白河を巡って奥羽越同盟軍と薩長を中心とした新政府軍が激戦を繰り広げた。


白河城

 白河城は、別に小峰城ともいう。平成三年(1991)に戊辰戦争で焼失した御三階櫓が再建され、周囲は城山公園として整備されている。
 寛政の改革を遂行した松平定信の居城としても知られる白河城は、戊辰戦争の前年に城主阿部氏が棚倉に移封され、領主のいない空き城となっていた。奥羽越列藩同盟が成立すると、会津藩、仙台藩は直ちに白河城に守備兵を送った。
 白河を巡る慶応四年(1868)閏四月二十四日からの第一次白河戦争において、奥羽越同盟軍は快勝を収めた。会津藩、仙台藩連合軍は、白河城奪還を目論む薩長新政府軍を迎撃するため、白河南郊の白坂まで出向いた。先鋒は新選組の斎藤一こと山口次郎である。新政府軍は戦死十六、負傷五十一を出して那須方面に敗走した。兵力において劣るにもかかわらず、単純に正面突破を図ったためであった。
 緒戦の敗退を受けて、新政府軍司令官の伊地知正治は綿密に地形の調査を実施し、作戦を練った。会津藩軍は、白河城を囲む東の雷神山、南の稲荷山、西の立石山、それぞれに砲台を置いて守りを固めた。これに対して伊地知正治は、攻撃隊を右翼、中央、左翼に三分し、本道からの正面攻撃と見せかけて、両翼から挟撃する作戦を考案した。
雷神山と立石山の砲台は、敵の襲来を予期していなかったかの如く、守備が手薄であった。堅牢だったはずの稲荷山も、薩長軍の猛攻を受けてもろくも崩れた。奥羽越列藩同盟にとって生命線というべき白河攻防戦は、新政府軍の圧勝に終わった。この五月一日の戦争において、会津、仙台、棚倉などの同盟軍二千五百のうち戦死者は七百。これに対して新政府軍は七百人のうち戦死者はわずかに十二人という鮮やかな勝利であった。

(鎮護神山)


戊辰薩藩戦死者墓

 白河城の東に梅林園があり、そこへ向かう道の傍らに鎮護神山がある。石段を上ったところに戊辰薩摩藩戦死者墓がある。白河方面での薩摩藩戦死者二十九名を合葬したものである。

(松並)


長州大垣藩戦死六名墓

 松並付近において、稲荷山を守る同盟軍と新政府軍主力が激突した。四月二十四日の戦闘で犠牲となった長州および大垣藩の戦死者は六名。薩摩藩の戦死者七名と合わせた十三名の首は、白河城の大手門前に晒されたという。松並には、長州藩と大垣藩の戦死者六名を葬った墓がある。
 明治九年(1876)には明治天皇が、明治四十一年(1908)には東宮嘉仁親王が、この地を訪れ供養をした(当時はまだ薩摩藩戦死者七名もこの地に葬られていた)。長州大垣藩戦死六名墓の前には、そのことを示す行啓記念碑も建っている。


戦死墓

 五月一日の戦闘では、同盟軍は多くの犠牲者を出した。稲荷山には山口次郎(斎藤一)の新選組、会津藩朱雀一番寄合隊中隊頭一柳四郎左衛門、仙台藩義集隊頭今泉伝之助ら、同盟軍の主力を駐屯させていたが、突然、目の前に敵兵が現れ大砲、小銃を乱射してきたことに動揺した。このとき山麓にいた会津藩副総督の横山主税は、兵を励まして稲荷山を登ろうとして銃弾に斃れた。激しい銃撃のために遺体を収容することができず、従者が首を切断して退いたという。
 横山主税は、このとき二十一歳。前年には徳川昭武に従ってパリ万博に、藩の留学生として随行した英才であった。松並には、会津藩の墓域もあり、銷魂碑には五月一日の戦闘で命を落とした、横山主税以下三百四名の名前が刻まれている。


会津藩銷魂碑


田辺軍次君之墓

 征討軍右翼隊は、白坂村の庄屋大平八郎を道案内に、間道を進み雷神山攻略に成功した。この功により大平八郎は戦後一万石の庄屋に任じられた。八郎を恨んだ会津藩士田辺軍次(横山主税の従者)は、明治三年(1870)八月、大平八郎を打ち果たし、自らも切腹して命を絶った。二十一歳であった。
 「田辺軍次君之墓」と刻んだ大き目の墓標の前に、「操刀容儀居士」という戒名が刻まれた小さな墓石がある。こちらが本墓と思われる。

(稲荷山)


稲荷山神社


西郷頼母歌碑

 戊辰戦争を通じて最激戦地の一つとなった稲荷山は、現在児童公園となっているが、平成十八年(2006)十一月、この地に会津軍総督西郷頼母の歌碑が建てられた。

西郷頼母は、朝敵会津の将という負い目を生涯背負い、一族自刃という悲痛の想いから逃れることもできず、主君容保が京都守護職に任じられたときには一人辞退を主張した不忠者として、戊辰戦争の戦火が迫ったときには藩論に逆らって非戦恭順を主張した腰抜けとして、最後は敗戦の責任を追って切腹すべきところを生き永らえている臆病者として、世間の厳しい非難を浴びながら明治を生き抜いた。

歌碑には頼母の心情を吐露した歌が刻まれる。冷酷な世間の批評に晒されながら生きた西郷頼母翁の「身を隠すことのできるかたつむりが羨ましい」という感慨を託した歌である。

 うらやまし角をかくしつ又のへつ
 心のままに身をもかくしつ

西郷頼母については、会津から見た幕末史研究家である星亮一氏は「性格的に狭量で、人望が」(『会津落城』中公新書)ないと辛辣である。加えて、白河の敗戦の責任は「敵状を十分に調べず、ただ漫然と白河城で待ち受けた会津藩上級指揮官の無能さにあった」(『会津戦争全史』講談社選書メチエ)と痛烈に批判している。確かに戦争の経緯を見れば、総督西郷頼母はどう批判されても弁明の余地もないだろう。同時に西郷頼母の悲痛な心のうちは、本人以外誰も理解できないようにも思う。

(龍興寺)


龍興寺

 龍興寺は深閑とした森に囲まれている。五月一日の第二次白河戦争は、新政府軍の圧勝に終わった。重傷を負った会津藩軍事奉行海老名衛門は龍興寺まで逃れたが、もはやこれまでと観念し、この地で割腹して果てた。五十二歳であった。


海老名衛門碑

 海老名衛門碑の傍らには、同盟軍(東軍)の戦死者を弔った戦死塚が建っている。白河には至るところにこの手の慰霊碑が残されている。


戦死塚

(常宣寺)


常宣寺

 龍興寺と同じく向新蔵にある常宣寺は、一見して古い墓石が多い墓地を持つ。


南無阿弥陀仏碑(左)
会津藩戊辰戦死十二士之墓(中)
笹沼金六墓・三坂喜代之助墓(右)

 山門を通って直ぐ左に折れると、会津藩戊辰戦死十二士之墓を中心にして四つの墓石が並ぶ。向って左は「南無阿弥陀仏」と刻んだ慰霊碑である。五月一日の激戦後、捕えられた東軍将兵は翌日近くを流れる谷津田川河原で処刑された。彼らの霊を祀ったものである。かつては常宣寺に近い新橋のほとりにあったが、この地に移された。同じく「南無阿弥陀仏」と書かれた慰霊碑が馬町に建てられている。

 中央が会津藩戊辰戦死十二士之墓である。また、右手の墓の主は、笹沼金六、三坂喜代之助いずれも会津藩士である。


明治戊辰 戦死塚

 墓地をさらに本堂側に行くと、ここにも東軍戦死者を葬った戦死塚がある。そこから近い場所に棚倉藩家老阿部内膳の墓がある。
 阿部内膳正煕は、誠心隊(別に十六ささげ隊とも)隊長として白河桜町口に出征したが、白河北郊の金勝寺にて敵弾に当たって戦死した。“十六ささげ”とは、豆の一種でサヤの中の豆が十六あることから名付けられた、この地方の特産である。誠心隊が精鋭十六人から成ったためこのように呼ばれていた。「仙台烏に十六ささげ なけりゃ官軍高枕」と謳われ、仙台の細谷十太夫とともに西軍に恐れられた。阿部内膳は、槍や弓矢を手に、甲冑に身を固め戦場に臨んだという。


阿部内膳正煕之墓

(萬持寺)


萬持寺

 萬持寺にある藝州藩士加藤善三郎は、厳密にいうと、戊辰戦争の戦死者ではない。彼が萬持寺の本堂内で壮烈な切腹を遂げたのは、会津戦争も終結した明治元年(1868)十一月三日のことであった。
 そのとき、西軍はそれぞれの国への帰途にあった。白河付近まできたとき、西軍の物資輸送を担当していた蒜生村農民真弓作左衛門が、加藤善三郎に斬殺される事件が起きた。加藤が自分の荷物を運ぶように指示したが真弓作左衛門がそれを無視して逃げ出したのを咎めて、背後から斬り殺したのである。一説には加藤の高圧的な命令に、真弓作左衛門が反発したためとも言われる。加藤は直ちに捕えられ、軍律を正すために切腹を命じられた。二十五歳だったという。
 辞世

 莞爾と笑い散りゆく桜花


藝藩 加藤善三郎光義之墓

(関川寺)
 常宣寺から谷津田川を隔てた向かい側の愛宕町に関川寺がある。赤穂浪士中村勘介の妻の墓などがある古刹である。


関川寺


棚倉藩小池理八 戦死霊供養塔

 関川寺の本堂前左手に棚倉藩士小池理八の供養塔が建てられている。小池理八は白河城東方の桜町口の守備に就いていたが、足に重傷を負い、割腹して果てた。

 関川寺には、やはり白河戦争で戦死した仙台藩士石川大之進の墓がある。墓石によると、十月二十七日没となっている。
 石川の墓は、極めて分かりにくい場所にある。本堂裏の墓地入口付近、南側の道路を見下ろしている。


仙藩石川大之進源春幸之墓


戦死供養塔

 この付近も五月一日の戦闘では激戦地となった。敗走する中で戦死した東軍兵を弔う戦死供養塔が、妙閑寺門前に建っている。白河観光協会の説明によると、市内に点在する供養塔の中でももっとも小さなものらしい。私が訪れたとき、周囲の草花に埋もれて、頭だけが見えている状態であった。

(皇徳寺)
 白河市街地にも戊辰戦争関連の墓のある寺院が集中している。大工町の皇徳寺もその一つである。


皇徳寺

 皇徳寺の戦死人供養塔は、明治二年(1869)中町大庄屋桑名清兵衛が、手代町、大工町周辺に骸をさらしていた東軍戦死者十一名を合葬した際に建立されたものである。


戦死人供養塔

 戦死人供養塔の横に、新選組隊士菊池央の墓がある。菊池央は、弘化四年(1847)弘前津軽に生まれる。慶応四年(1868)四月二十五日の第一次白河戦争にて戦死した。二十二歳であった。墓の正面には戒名、左側面に「弘前 菊池央五郎」と刻まれている。


誠忠院義勇英劒居士(菊池央の墓)


竹本亀吉之墓(中)
安之助墓(左)

 菊池央の墓の横にも墓が並べられているが、詳細は分からない。


羅漢山人墓(中)と小原庄助の墓(右手のとっくり状の墓)

 同じ皇徳寺墓地に民謡「会津磐梯山」で有名な小原庄助の墓がある。
 民謡「会津磐梯山」をよく存じ上げないが、小原庄助さんは朝寝、朝酒、朝風呂が好きな好々爺というイメージが強い。小原庄助の正体は、会津塗り師の久五郎だという。久五郎は、谷文晁の高弟絵師羅漢山人のもとに絵付けを習いに来て、安政五年(1858)、この地で没した。墓石は、猪口と徳利を重ねた形をしている。戒名は「米汁呑了信士」。辞世は「朝によし昼になほよし晩によし 飯前飯後その間もよし」。余程の酒好きだったようである。

(永蔵寺)


永蔵寺

 本町の永蔵寺本堂近くにも東軍兵士の戦死供養塔がある。


戦死供養塔

(長寿院)


長寿院

 永蔵寺から国道294号線(旧奥州街道)をはさんで向かい側に長寿院がある。白河には珍しい西軍(新政府軍)方の墓地がある。
 境内に入って右手には西軍兵士の忠魂碑、左手には慶応戊辰殉国者墳墓がある。長寿院には、薩摩藩二十九、長州藩三十、土佐十八、大垣十三、館林七、佐土原十九、計百十六の墓があったが、うち薩摩藩士の墓は、白河城東側の鎮護神山に改葬されたため、現在ここに残されている墓は八十七基ということになる。


忠魂碑


長州藩士の墓


土佐藩士の墓
慶応戊辰殉国者墳墓

(円明寺橋)
 五月一日の戦闘で捕虜となった何十人もの同盟軍兵士は、円明寺橋の上で次々と首を斬られた。首も胴体も谷津田川に投げ捨てられ、川は血に染まった。


円明寺橋


南無阿弥陀仏碑

 円明寺橋のたもとの無阿弥陀仏と刻んだ石塔は、円明寺橋で処刑された将兵、領民の霊を祀ったものである。

(丹羽長重公廟)
 円明寺橋を南に渡り、突き当りを右に折れたところが丹羽長重の廟堂への入り口である。丹羽長重は、織田信長の家臣丹羽長秀の嫡子である。寛永四年(1627)、初代白河藩主に任じられた。長重は、白河城の改修、町割りの整備に尽力し、城下町白河の基礎を築いたといわれる。


丹羽長重公廟


二本松藩士慶応戊辰役戦死之霊

 丹羽家は、二代光重のとき二本松に転封となった。丹羽長重公廟の前には、第一次から第七次に至る白河戦争で戦死した二本松藩関係者二十三名の慰霊塔が建立されている。
 白河攻防戦は、五月一日に行われた二回目の戦闘で事実上決着がついたが、同盟軍はその後も再三にわたって白河奪還を試みた。奥羽越列藩同盟にとって、いかに白河が重要な拠点であったかうかがい知れる。しかし、遂に取り戻すことができないまま、会津での決戦を迎えるのであった。

第一次 四月二十四日
第二次 五月一日
第三次 五月二十六日
第四次 六月十二日
第五次 六月二十九日
第六次 七月一日
第七次 七月十五日

(聯芳寺)


聯芳寺

 白河城から阿武隈川を北に渡った向寺地区の奥州街道沿いに聯芳寺がある。聯芳寺の駐車場の片隅に明治二十一年(1888)に建立された福島藩十四人碑がある。福島藩は六月十二日の第四次攻撃に初めて参戦したが、六反山(向寺の西)で孤立し、池田邦知以下十四名もの犠牲者を出した。


福島藩十四人碑

(女石)


仙台藩士戊辰戦没之碑

 更に国道294号線を北上して国道4号線との交差点が女石である。奥州街道と会津街道の分岐点に当たる。その手前に百五十余人の仙台藩士を葬った供養塔と仙台藩士戊辰戦没之碑がある。戦死供養塔は明治二年(1869)に地元有志が建てたもの。仙台藩士戊辰戦没之碑の方は、明治二十三年(1890)に建てられたものである。


戦死供養塔

 さて、この日の白河史跡探訪の旅は、これで時間切れとなった。三時間という限られた時間であったが、予定したスポットはほぼ踏破できた。効率よく回ることができた理由は、供養塔や小さな墓碑に至るまで、白河市の教育委員会や観光協会やが、こまめに説明の駒札を立てているお陰である。自治体によって史跡に対する取り組みには随分と差があるが、白河市の姿勢には感心した。おかげであと一~二回あれば、白河の戊辰戦争関係の史跡を一巡できる目途はついた。充実感を胸に白河をあとにすることができた。

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福島

2009年08月08日 | 福島県
(福島県庁)
いよいよ福島県である。
これまで、福島県を通過する機会は幾度もあったが、ここに足を踏み入れることは敢えて敬遠してきた。高い山に登るにはそれなりの準備と覚悟が必要である。福島県の史跡に着手するにはなかなか踏ん切りがつかなかった。これまで会津戦争にかかわる書籍などにも目を通し、自分なりにイメージは固まったという自負はある。憧れの地である会津若松に関しては、頭の中の地図についていえば、そこに住んでいる人に負けない程度になっているだろう。とはいうものの、会津戦争は無用の戦争だったのではないか、薩長と会津どちらに正義があったのか、といった重いテーマについては、結局、確固たる答えを見出せていない。この高い山を登りきるには、相当な時間がかかるだろう。重いテーマについては、山を登りながら考えることにしよう。

今回、仙台に出張に行く機会があったので、その途上、白河と福島で新幹線を降りて史跡を回ることにした。その朝は4時半に起床。五時には電車に乗って、大宮発六時四十分過ぎのやまびこで新白河に向かう。白河で許された時間は三時間。更に北上して福島では一時間。駅前の交番の横に無料で自転車を貸し出している。係りの老人の動作が遅く、多少いらいらしたが、奪うようにして自転車に飛び乗ると、一目散に第一目的地である福島稲荷神社へ向かった。厚い雲が空を覆い、何時雨が降ってもおかしくない空模様であったが、上着を着用しているとさすがに暑くて汗が止まらない。


福島城址

現在、福島県庁のある辺りが福島城跡である。阿武隈川と荒川を天然の要害とした平城で、間違いなく明治維新まで存続していたが、今となってはそこに城郭があったことを伺い知ることはできない。県庁前の植え込みに「福島城址」という石碑があるが、どこにも城跡といった気配がない。県庁東の紅葉山公園は庭園の跡らしく、辛うじて往時の雰囲気を残している。福島城は、十八世紀初頭より板倉氏の居城となり、明治維新まで続いた。福島藩も奥羽越列藩同盟に加盟し新政府軍と戦ったが、明治元年(1868)七月二十九日、二本松城が陥落すると、戦意を喪失した藩主板倉勝尚は、藩士領民を置いて米沢藩に逃亡した。城は新政府軍に引き渡され、板倉氏も二千石を減封された上、三河に転封された。ここに福島藩は消滅することになった。


福島城本丸跡

(福島稲荷神社)


福島稲荷神社

福島は、会津戦争の前夜、長州藩の世良修蔵が捕らえられた地である。会津藩は新政府軍との対決姿勢を明確にしていたが、仙台藩を筆頭とした奥羽の諸藩は、何とか戦争を回避すべく仲介役を買ってでた。しかし、奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵は、仙台藩、米沢藩からの嘆願をにべもなく拒絶した。朝廷の権威を借りた倣岸不遜な世良の態度は、東北諸藩の反感を買っていたが、ここにきて堪忍袋の緒が切れた。仙台・福島両藩士は、慶応四年(1868)閏四月二十日未明、福島の旅籠金沢屋に世良修蔵を襲い捕縛した。世良は即日、阿武隈川河原で首を撥ねられた。これを契機に、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍との対決は不可避となったのである。

世良は東北の人たちから憎まれ、後世からも会津戦争を引き起こした張本人のように言われている。しかし、そもそも世良修蔵に嘆願書を受け入れる裁量も与えられておらず、会津討伐は薩長軍の規定方針だったという説もある。真相は歴史の闇の中であるが、彼もまた歴史の犠牲者なのかもしれない。


長藩世良修蔵霊神碑

福島稲荷神社の一角に、世良修蔵の慰霊碑が建てられている。場所は境内ではなく、北東の一角である。この日の天候のせいもあるかもしれないが、日の当たらない薄暗い空間であった。

(長楽寺)


長楽寺

次の目的地は長楽寺である。自転車だと、稲荷神社からものの数分もかからない。山門を入って右手に、ニつの石塔がある。

一つは、目明し浅草屋宇一郎の墓である。目明しというのは奉行所などの治安維持部隊の末端を担った非公式の役職である。博徒ややくざ者が多く、浅草屋宇一郎もその類であろう(と、勝手に推測)。浅草屋宇一郎は、仙台藩士、福島藩士と、手下とともに世良修蔵襲撃捕縛に参加した。


仙台藩烏天狗組之碑

 仙台藩烏天狗組とは、細谷十太夫の率いる衝鋒隊の別称である。衝鋒隊は、黒装束に身を包み、夜襲奇襲を得意としたため、このように呼ばれることになった。しかし、何故衝鋒隊の碑が、福島の長楽寺にあるのか良く分からない。


浅草屋宇一郎之碑

さらにその横には、瓜生岩子の像がある。日本全国に人物像は多いが、そのほとんどは男性である。女性の像は、嵐山の村岡像と高知県のお龍と君枝像、淡路島のお登勢像くらいしか、私の膨大な取材記録にも見当たらない(多分)。

瓜生岩子は、文政十二年(1829)、喜多方の裕福な商家に生まれたが、父の病死から生家は没落した。十七歳のとき、結婚して一男三女をもうけたが、三十三歳のとき夫と死別。戊辰戦争の戦火が会津に及ぶと、敵味方の別なく救助看護したという。維新後、戦乱により教育を受けられない会津藩の子弟のために幼年学校を設立するなど、本格的な慈善事業に関わり始め、明治四年(1871)には上京して養護施設の経営を学び、帰郷して貧民孤児のために福島救育所を開設した。その後も貧民救済を目的とした組織をいくつも立ち上げ、晩年、その業績を讃えられ女性として初めて紫綬褒章を受けた。明治三十年(1897)、死去。六十九歳。


瓜生岩子之像

(宝林寺)


宝林寺

福島市内最後の訪問地は、宝林寺である。この時点で残り時間はニ十分。ここから駅まで折り返し、切符を買って新幹線に飛び乗ることを考えると、道を迷うことは許されない。宝林寺の墓地の行き当たりには、長州藩士の墓がある。このうち向かって左の墓の主は、世良修蔵に従って福島に滞在していたところを、仙台藩士、福島藩士に襲われ、斬首された野村十郎である。

予定とおり仙台行きの「やまびこ」に飛び乗り、午後の出張に間に合った。実はヘロヘロであった。


長藩 野村十良墓(左)
長藩 中村少次郎墓(中)
紀州 山口忠右衛門安正(右)

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