史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

福島

2009年08月08日 | 福島県
(福島県庁)
いよいよ福島県である。
これまで、福島県を通過する機会は幾度もあったが、ここに足を踏み入れることは敢えて敬遠してきた。高い山に登るにはそれなりの準備と覚悟が必要である。福島県の史跡に着手するにはなかなか踏ん切りがつかなかった。これまで会津戦争にかかわる書籍などにも目を通し、自分なりにイメージは固まったという自負はある。憧れの地である会津若松に関しては、頭の中の地図についていえば、そこに住んでいる人に負けない程度になっているだろう。とはいうものの、会津戦争は無用の戦争だったのではないか、薩長と会津どちらに正義があったのか、といった重いテーマについては、結局、確固たる答えを見出せていない。この高い山を登りきるには、相当な時間がかかるだろう。重いテーマについては、山を登りながら考えることにしよう。

今回、仙台に出張に行く機会があったので、その途上、白河と福島で新幹線を降りて史跡を回ることにした。その朝は4時半に起床。五時には電車に乗って、大宮発六時四十分過ぎのやまびこで新白河に向かう。白河で許された時間は三時間。更に北上して福島では一時間。駅前の交番の横に無料で自転車を貸し出している。係りの老人の動作が遅く、多少いらいらしたが、奪うようにして自転車に飛び乗ると、一目散に第一目的地である福島稲荷神社へ向かった。厚い雲が空を覆い、何時雨が降ってもおかしくない空模様であったが、上着を着用しているとさすがに暑くて汗が止まらない。


福島城址

現在、福島県庁のある辺りが福島城跡である。阿武隈川と荒川を天然の要害とした平城で、間違いなく明治維新まで存続していたが、今となってはそこに城郭があったことを伺い知ることはできない。県庁前の植え込みに「福島城址」という石碑があるが、どこにも城跡といった気配がない。県庁東の紅葉山公園は庭園の跡らしく、辛うじて往時の雰囲気を残している。福島城は、十八世紀初頭より板倉氏の居城となり、明治維新まで続いた。福島藩も奥羽越列藩同盟に加盟し新政府軍と戦ったが、明治元年(1868)七月二十九日、二本松城が陥落すると、戦意を喪失した藩主板倉勝尚は、藩士領民を置いて米沢藩に逃亡した。城は新政府軍に引き渡され、板倉氏も二千石を減封された上、三河に転封された。ここに福島藩は消滅することになった。


福島城本丸跡

(福島稲荷神社)


福島稲荷神社

福島は、会津戦争の前夜、長州藩の世良修蔵が捕らえられた地である。会津藩は新政府軍との対決姿勢を明確にしていたが、仙台藩を筆頭とした奥羽の諸藩は、何とか戦争を回避すべく仲介役を買ってでた。しかし、奥羽鎮撫総督参謀の世良修蔵は、仙台藩、米沢藩からの嘆願をにべもなく拒絶した。朝廷の権威を借りた倣岸不遜な世良の態度は、東北諸藩の反感を買っていたが、ここにきて堪忍袋の緒が切れた。仙台・福島両藩士は、慶応四年(1868)閏四月二十日未明、福島の旅籠金沢屋に世良修蔵を襲い捕縛した。世良は即日、阿武隈川河原で首を撥ねられた。これを契機に、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍との対決は不可避となったのである。

世良は東北の人たちから憎まれ、後世からも会津戦争を引き起こした張本人のように言われている。しかし、そもそも世良修蔵に嘆願書を受け入れる裁量も与えられておらず、会津討伐は薩長軍の規定方針だったという説もある。真相は歴史の闇の中であるが、彼もまた歴史の犠牲者なのかもしれない。


長藩世良修蔵霊神碑

福島稲荷神社の一角に、世良修蔵の慰霊碑が建てられている。場所は境内ではなく、北東の一角である。この日の天候のせいもあるかもしれないが、日の当たらない薄暗い空間であった。

(長楽寺)


長楽寺

次の目的地は長楽寺である。自転車だと、稲荷神社からものの数分もかからない。山門を入って右手に、ニつの石塔がある。

一つは、目明し浅草屋宇一郎の墓である。目明しというのは奉行所などの治安維持部隊の末端を担った非公式の役職である。博徒ややくざ者が多く、浅草屋宇一郎もその類であろう(と、勝手に推測)。浅草屋宇一郎は、仙台藩士、福島藩士と、手下とともに世良修蔵襲撃捕縛に参加した。


仙台藩烏天狗組之碑

 仙台藩烏天狗組とは、細谷十太夫の率いる衝鋒隊の別称である。衝鋒隊は、黒装束に身を包み、夜襲奇襲を得意としたため、このように呼ばれることになった。しかし、何故衝鋒隊の碑が、福島の長楽寺にあるのか良く分からない。


浅草屋宇一郎之碑

さらにその横には、瓜生岩子の像がある。日本全国に人物像は多いが、そのほとんどは男性である。女性の像は、嵐山の村岡像と高知県のお龍と君枝像、淡路島のお登勢像くらいしか、私の膨大な取材記録にも見当たらない(多分)。

瓜生岩子は、文政十二年(1829)、喜多方の裕福な商家に生まれたが、父の病死から生家は没落した。十七歳のとき、結婚して一男三女をもうけたが、三十三歳のとき夫と死別。戊辰戦争の戦火が会津に及ぶと、敵味方の別なく救助看護したという。維新後、戦乱により教育を受けられない会津藩の子弟のために幼年学校を設立するなど、本格的な慈善事業に関わり始め、明治四年(1871)には上京して養護施設の経営を学び、帰郷して貧民孤児のために福島救育所を開設した。その後も貧民救済を目的とした組織をいくつも立ち上げ、晩年、その業績を讃えられ女性として初めて紫綬褒章を受けた。明治三十年(1897)、死去。六十九歳。


瓜生岩子之像

(宝林寺)


宝林寺

福島市内最後の訪問地は、宝林寺である。この時点で残り時間はニ十分。ここから駅まで折り返し、切符を買って新幹線に飛び乗ることを考えると、道を迷うことは許されない。宝林寺の墓地の行き当たりには、長州藩士の墓がある。このうち向かって左の墓の主は、世良修蔵に従って福島に滞在していたところを、仙台藩士、福島藩士に襲われ、斬首された野村十郎である。

予定とおり仙台行きの「やまびこ」に飛び乗り、午後の出張に間に合った。実はヘロヘロであった。


長藩 野村十良墓(左)
長藩 中村少次郎墓(中)
紀州 山口忠右衛門安正(右)

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