史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

相馬 Ⅰ

2013年12月08日 | 福島県
(中村城址)
 中村藩の石高は六万石。王政復古の大号令を受けて新政府に恭順したが、隣接する諸藩の圧力を受けて奥羽越列藩同盟に参加した。しかし、新政府軍が藩境に迫るとすぐに降伏した。このため戦後減封を逃れた。


相馬中村城址

 中村城の歴史は古く、平安時代まで遡ることができるという。江戸時代は相馬氏六万石の居城となった。残念ながら構築物はあまり残されていないが、大手一ノ門や堀は往時の雰囲気をよく伝えている。


大手門一ノ門

 この大手門は、二代相馬義胤のとき、川越城番を務めた義胤はその城門の堅固なことに感心し、それに模して造らせたものといわれる。慶安二年(1649)の完成。

(慶徳寺)


慶徳寺


長州藩士、館林藩士らの墓
右は「官軍 九州戦死墓」

 慶徳寺山門横には西軍の戦死者の墓が集められている。館林藩、長州藩、福岡藩といった藩名が見える。
 手前の楕円形の大きな墓石は、中村藩出身の西南戦争の戦病死者の碑で、裏面に氏名と死亡日が刻まれている。

(圓應寺)


圓應寺


目迫新佐衛門墓

 目迫新左衛門は、中村藩城下士。慶応四年(1868)、七月十三日、平城六間門付近で戦死。


集功院殿忠巌維良居士
熊川兵庫墓(村田半左衛門墓)

 熊川兵庫は、村田半左衛門易隆ともいい、中村藩士。御用人郡代頭取徒士頭大目付兼帯、郡代家老職、家老職を歴任。藩政全般の指導に当たった。慶応元年(1865)には報徳仕法施行二十年に際して功労者として表彰を受けた。
 同家墓地に墓のある同姓同名の村田半左衛門は名を一隆といい、中村藩番頭。慶応四年(1868)七月二十六日、広野で負傷。八月二日、死亡。

(興仁寺)


興仁寺

 興仁寺の墓地には、戊辰戦争の戦死者の墓六基がまとめられている。うち二基は中村藩士、四基は広島藩士のものである。


戊辰戦争戦死者の墓

(旧蒼龍寺墓地)


亜屈小次郎墓

 水戸藩士。元筑波党。鳥取藩堀博厚勢に属し、慶応四年(1868)八月十一日、磐城原釜にて戦死。二十六歳。


齋藤高行 二宮文の墓

 旧蒼龍寺墓地には、二宮尊徳の門人の一人で相馬における報徳仕法を推進した齋藤高行、尊徳の娘で相馬の高弟富田高慶に嫁いだ二宮文の墓がある。
齋藤高行は、通称久米之助。相馬において報徳仕法を導入した富田高慶の甥であり、二宮尊徳四大門人の一人に数えられる。富田高慶の後を継いで相馬における報徳仕法を指導し、これを完成させた。晩年は原町の大原に隠棲して、大原仙人と称した。明治二十七年(1894)、七十六歳にて没した。
二宮文は、桜町(現・栃木県)に生まれ、まれにみる才女と言われた。嘉永五年(1852)富田高慶に嫁ぎ中村に移り住んだ。嘉永六年(1853)、出産のために実家に戻ったが、死産であった。自身も産後の肥立ちが悪く、三十歳の若さで世を去った。

(佛立寺共同墓地)


佛立寺跡


義俊院全心雄忠居士 (岡源右衛門墓)

 岡源右衛門は中村藩城下士。軍使役。別名臼井喜邦。慶応四年(1868)七月二十九日、浪江で戦死。


脇本喜兵衛墓

 脇本喜兵衛は中村藩の用人。慶応四年(1868)七月二十九日磐城浪江で戦死。官軍に捕えられて斬首されたとも。

(百槻共同墓地)


門馬先生之墓

 門馬伝兵衛常驥(弥五郎)は、相馬中村藩の御馬方を務め、大坪流馬術師範として多くの弟子を育てた。言うまでもなく相馬は「野馬追い」で有名な場所であるが、その発展に大きく寄与した。

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