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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

伊達

2020年04月04日 | 福島県

(興国寺)

 

興国寺

 

 文化四年(1807)、松前家は蝦夷の領地を召し上げられ、梁川藩九千石に転封された。蝦夷交易により実質的に数万石の収入があったとされる松前家にとって、改易に等しいものだったといわれる。このころ、幕府は北方警備を強化する必要に迫られており、それを松前家に任せるわけにいかないという事情があったのであろう。転封直後から松前家はひたすら幕府や公家に対して旧領地への復帰を働きかけ、移封から十五年後の文政四年(1821)、国替えの沙汰を獲得した。同時に梁川藩は廃藩となり、幕府直轄となったが、安政年間に松前藩の飛び領地となってそのまま明治を迎えた。興国寺墓地にある松前藩士の墓は、旧松前家支配時代の名残である。

 

松前藩士の墓

 

安岡正煕(藤田克馬)之墓

 

 先日読破した安岡章太郎「流離譚」は、冒頭東北弁を話す親戚が筆者を訪ねる場面から始まる。「親戚に一軒だけ東北弁の家」があったのが、梁川(現・伊達市)である。

この家系は、安岡嘉助の娘・真寿と覚之助の長男・平太郎(松静)との間に生まれた娘・美名吉(みなえ)が藤田家から克馬(安岡正煕)を婿に迎えた家で、安岡章太郎は「本家」と呼んでいる。

 安岡正煕は明治二十年(1887)に発令された保安条例によって東京を追われ、相州(横浜?)に逃れ、そこで東北に行けば蚕卵紙の輸出で非常な好景気にめぐまれているという噂を聞き、仙台へ行って医院を開業したが、うまくいかず。継いで梁川で眼科医を開いたところ、これが繁盛したため、改めて美名吉を妻に迎え、義祖母万喜、養母真寿を伴って梁川に移住した。昭和十三年(1938)、七十六歳にて没。

 正煕の墓の回りには、万喜や後妻安猪らの墓もある。

 

(保原町金原田)

 

菅野八郎の生家跡

 

 今回の旅の最大の眼目は、伊達市保原(ほばら)町金原田の菅野(かんの)八郎関係の史跡を訪ねることにあった。

 菅野八郎は文化七年(1810)伊達郡金原田中屋敷の名主を務める家に生まれた。儒者熊坂宇右衛門の門下で朱子学を修めた父和蔵の膝下で成長し、自然道を学び、水戸藩士の義弟太宰清右衛門に「おくった書状「秘書後の鑑」および「異人征伐海岸防備」が幕府役人の目にとまり、安政六年(1859)水戸密勅事件と同一視されて捕らえられ、万延元年(1860)四月、八丈島に流された。文久三年(1863)九月、許されて帰村したが、代官所から要視察人とされていた中で「誠信講」という農村自衛と教化を目的とした講を組織した。慶應二年(1866)六月、農民約五万人が生糸蚕種役御免・高利貸付御免・伝馬助郷御免を要求して世直し一揆を起こした(信達騒動)。八郎は「世直し大明神」と称されるほど農民の中に入って活躍した。同年七月、一揆指導者として再び捕らえられたが、慶応四年(1868)三月、赦免。金原田村に帰り、明治二十一年(1888)、七十九歳で没した。

 

(吾妻山)

 

菅野八郎自刻の碑

 

 生家跡の一本西の道を南に進み、最初の分岐を左に行くと昇り坂となり、山頂近くに屋根に覆われた自刻碑が現れる。安政四年(1857)、八郎自ら「八老、魂を留此而祈直(ここにとどまりてただしきをいのる)」と刻んだ岩である。

 

留此而祈直

 

(崖谷共同墓地)

 

大寶軒椿山八老居士(菅野八郎の墓)

 

 google mapで訪ねる場所をネットで疑似体験することが可能となり、おかげで菅野八郎の生家跡や自刻碑などの位置も概ね把握できた。ただし、google mapだけで墓を特定するのは不可能で、こればっかりは現地を歩かないと発見できるものではない。

菅野八郎の墓の所在地は、「明治維新名辞典」(吉川弘文館)によれば、崖谷共同墓地となっている。しかし、崖谷共同墓地という場所はネットで検索してもヒットせず、これもgoogle mapで生家近くにある墓地を探し出し、おおよその見当をつけておいた。生家跡から二本西側の道を南に進んだところである。

行ってみると、地元の二人連れのおばさんが墓参り中で、珍しいよそ者の出現に興味津々であった。「菅野八郎の墓を探している」と答えたところ、お二人ともご存じないようで、「近所の物知りの人に聞いてみたらわかるかもしれない」などとおっしゃっていたが、だったら墓地内をしらみつぶしに歩いた方がずっと早い。早々におばさんたちと別れて墓地内を歩き回ったところ、菅野家の墓所に自然石の墓を発見した。「明治維新人名辞典」に記載されているとおり、表面には「大寶軒椿山八老居士」という戒名が刻まれている。

 

(仙林寺)

 

仙林寺

 

 仙林寺には、太宰清右衛門の供養塔を訪ねた。簡単にみつかるはずであったが、残念なことにいくら探しても出会うことができなかった。太宰清右衛門の妻が、菅野八郎の妻と姉妹だったことから、両者の緊密な交流が始まり、太宰の影響を受けて八郎は水戸思想に染まったといわれる。太宰清右衛門の供養塔がみつからなかったので、その代わりに、仙林寺境内で見つけた熊坂適山・蘭斎兄弟の合作画碑や蘭斎の墓などを紹介しておく。

 

熊坂適山・蘭斎合作画碑

 

 熊坂適山は、寛政八年(1796)、陸奥伊達の生まれ。梁川に移封された松前藩家老蠣崎波響に絵画を習い、京都に出て浦上春琴から文人画を学んだ。元治元年(1864)、六十九歳にて死去。

熊坂蘭斎は、寛政十一年(1799)の生まれ。長崎で蘭学、医学を学んだ。のちに松前藩に仕えて藩医となった。明治八年(1875)、七十七歳にて死去。

 

熊坂蘭斎翁墓

 

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郡山 Ⅳ

2018年12月21日 | 福島県
(安積国造神社)


安積国造神社

 さて、今回の会津の旅はこれで終わりではない。郡山で新幹線に乗り換えるまでの三時間、郡山市内で史跡を訪ねた。
 駅に近いまぜっさプラザ(観光案内所?)という施設で自転車を借りる。与えられた時間は二時間半余り。効率よく回らなければならない。最初の訪問地は、安積国造神社である。まぜっさプラザから交差点を挟んで反対側にある。


安積天満宮

 郡山総鎮守安積国造神社(あさかくにやっこじんじゃ)は、幕末の儒者安積艮斎(ごんさい)の生誕地である。境内には安積艮斎記念館や安積艮斎を祀る天満宮などがある。


郡山邨八幡神祠之碑

 境内に古い石碑が二基建てられている。いずれに安積艮斎の撰文である。
 向かって左手に立つのが、郡山邨八幡神祠之碑で、鳥取藩支藩若桜半池田冠山の銘、福山藩奥詰小島成斎篆額並びに書。文化七年()の社殿再建竣工を祝し。文化十四年()に建てられた。八幡神社の由緒や再建の経緯が記されている。
 もう一つが安藤脩重(もろしげ)翁碑。岡鹿門の撰文。幕府老中で神道管長稲葉正邦篆額。幕末明治にわたり郡山の指導者として活躍した安積国造神社第五十九代宮司安藤脩重の事績を記したものである。


正二位三條西季知詠書碑

 三条西季知の詩が刻まれた石碑である。

 陰たかくさかゆるみれはこれも猶
 ちよ松の木におなしかりけり

 社務所の声をかけて安積艮斎記念館の鍵を開けてもらう。拝観は無料。
 安積艮斎は、寛政三年(1791)、安積国造神社第五十五代宮司安藤親重の三男に生まれた。名は重信。字は子順。通称祐助。昆斎と号した。十七歳にして志を立てて江戸に出奔し、千住で僧日明に出会い、その紹介で佐藤一斎の門に入った。継いで林述斎の門人となった。艮斎は二十四歳で江戸神田駿河台に私塾を開いて門弟を教育した。四十一歳のとき論考などをまとめて「艮斎文略」を出版。昆斎の開明的な思想が広く知られるようになった。艮斎は山水に遊ぶことを楽しみとし、その紀行文を書いた。伊豆半島を巡った「遊豆紀勝」は、芭蕉の「奥の細道」と並ぶ紀行文学と賞された。昆斎の詩文は「日本八大家文読本」「摂東七家詩鈔」「東瀛(えい)詩選」などの選集にも掲載された。
 昆斎は、渡辺崋山、高野長英らとともに尚歯会を結成し、海外知識にも通じ、西洋列強の世界侵略に強い危機感を抱いた。漢訳された洋書から情報を得て「洋外紀略」(嘉永元年)を著し、世界情勢や海防論を説いた。
 天保七年(1836)、二本松藩儒となり、天保十四年(1843)、二本松へ赴任。藩命により「明朝紀事本末」全八十巻を校訂出版し、一年半で江戸に戻った。嘉永三年(1850)、幕府の昌平坂学問所教授に就任、将軍徳川家慶に進講した。嘉永六年(1853)、ペリー来航の際、アメリカからの漢文の国書を翻訳し、開国か鎖国かと世論が分かれる中、外交意見書を提出した。同年、プチャーチンが持参したロシア国書を翻訳し、返書を起草した。門人は二千二百八十余名に上り、近代日本を開いた人材を多数輩出した。晩年は学問所内の官舎に住み、万延元年(1860)、七十歳で歿した。現在の湯島聖堂が終焉の地である。幕末、「東の安積艮斎、西の斎藤拙堂」と並び称され、三島中洲が「幕末儒宗」と称賛している。


安積艮斎記念館

 門人の中には ――― 小栗上野介、栗本鋤雲、岩崎彌太郎、前島密、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允、木村摂津守、福地源一郎、谷干城、吉田東洋、間崎哲馬、清河八郎、斎藤竹堂、中村正直、重野安繹、三島中洲、岡鹿門、大須賀筠軒(いんけん)、松本奎堂、松林飯山、林壮軒、秋月悌次郎、南魔鋼紀、菊池三渓、岡本黄石、吉田大八、鷲津毅堂、阪谷朗蘆、神田孝平、宇田川興斎、楫取素彦、宍戸璣、倉石侗窩、安場保和、近藤長次郎 ――― と錚々たる名前が連なる。


昆斎先生之像

 銅像の題字、撰文は徳富蘇峰。誕生の地は日下部鳴鶴の書。


昌平黌教授贈従四位昆斎安積先生誕生地

(開成山公園)


開成山公園

 開成山公園は灌漑用の池として造成された五十鈴湖を中心に、明治初年に整備された公園である。明治十一年(1878)、園内には八百七十一株の桜が植樹され、今では県内屈指の桜の名所となっている。平成三年(1991)に開拓の群像碑が建立された。


開拓の群像碑


開拓の群像 大久保利通

 群像碑の足もとには、安積疏水やこの地方の開拓に功績のあった中条政恒、大久保利通、ファン・ドールンらの像が置かれている。さらに目を転じると、どういうわけだかサルや雉や鹿も台座に彫られている。

(開成山大神宮)


開成山大神宮


旧二本松藩士族 入植者の碑

 開成山公園の道路を挟んで西側にあるのが開成山大神宮である。明治六年(1873)、大槻原開墾が始まった際、習俗の異なった人びとの融和や慰安の場所として遥拝所が設けられた。明治九年(1876)には伊勢神宮の御分霊が奉還され、開成山大神宮となった。明治十二年(1879)に安積疏水の起業式が開かれ、内務卿伊藤博文らが臨席した。三年後に安積疏水が完成した際の通水式には右大臣岩倉具視、大蔵卿松方正義、農商務大臣西郷従道らの政府高官が出席している。


阿部茂兵衛銅像

 戊辰戦争で郡山の町の大半は戦火で焼失したが、明治政府は殖産興業と士族授産により復興を図った。明治五年(1872)、時の福島県典事中條政恒は「開拓告諭書」を出し、政策を推し進めた。中條に物産方(金融業)阿部茂兵衛、鴫原弥作、橋本清左衛門を加えた四人で話し合い、開成山(大槻原)開拓を決めた。町の復興を願う郡山の商人は、阿部茂兵衛を中心に二十五人が集い、明治六年(1873)四月、開成社を設立し、阿部茂兵衛を初代社長に選出した。開拓地までの道(現・さくら通り)を作り、灌漑用水池(現・五十鈴湖)を造成、心のよりどころとして開成山大神宮を勧請、そこに開拓事務所として開誠館を建設した。
 明治天皇は、明治九年(1876)と明治十四年(1881)の二度にわたって開拓されて誕生した桑野村を訪れた。この地が後の国営事業安積原野開拓と安積疏水事業に繋がり、郡山の発展の礎となった。
 阿部茂兵衛は、開拓に必要な農業用水を確保するため、明治十二年(1879)、安積疏水開削事業にも献身し、学校の整備、鉄道敷設にも奔走した。財産のほとんどを注ぎ込んで郡山の発展に尽くした。最後の仕事に移庁運動があるが、福島県庁移転の国の決定を待たずして、明治十八年(1883)没した。
 この銅像は、阿部茂兵衛の功績を称えるために昭和四年(1929)に建立された。戦時中、金属供出のため喪失したが、昭和二十八年(1953)、明治天皇に拝謁した折のモーニング姿で再建された。

 阿部茂兵衛銅像の隣には中條政恒翁頌徳碑。中條政恒は、天保十二年(1841)に、米沢藩士の長男として生まれた。藩校興譲館で学んだ後、江戸に出て学問を修め見聞を広めた。幕末には樺太移住開拓を持論とし、後に北海道開拓を提案したが採用されなかった。明治五年(1872)、福島県令安場保和に大槻原開墾の指導者として迎えられ、開成社の協力を得て明治九年(1876)には桑野村を誕生させた。明治十二年(1879)からは安積疏水開削と安積野開拓という二つの事業を推進した。碑文は大久保利通の長男利武の撰文。彫像は北村西望。


中條政恒翁頌徳碑

さらにその左には安積野開拓顕彰碑が建てられている。国営安積開拓入植百周年を記念したもの。


開拓碑

(神山霊園)
 神山(しんざん)霊園は、郡山市赤木町にあるという情報しかなかったが、自転車で走り回って探すことにした。赤木町は相当広くて、予想とおり、簡単に見付けられなかったが、諦めかけたその時、目の前に墓地が現れた。


故薩摩守正六位下安藤君之墓


重満靈神墓

 神山霊園は安積国造神社の宮司を務める安藤家累代の墓所である。昆際の父親重、兄重満(しげまろ)の墓の碑文は、いずれも昆斎の撰文。

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柳津 Ⅱ

2018年12月21日 | 福島県
(藤墓地)


忠孝院義達日勇居士(内川源吾の墓)

 柳津の内川源吾の墓も竹様の案内で訪問することができた。内川源吾(源吉とも)は、沼沢出雲家家来。慶応四年(1868)八月二十三日、若松甲賀町の主家の前で戦死。三十歳。

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会津美里 Ⅲ

2018年12月21日 | 福島県
(蛭ヶ窪墓地)


遠藤家之墓

 白鳳山の蛭ヶ窪墓地には、この地域出身の多数の藩士の墓がある。
 遠藤家の墓には従軍日記を残した遠藤平太が眠っている。
 遠藤平太は遠藤虎之助の長男。昭和五年(1930)に七十八歳で亡くなっているので、戊辰戦争に従軍した時にはわずか十六歳だったことになる。星亮一氏が平太の日記をもとに新書を著しているので、会津行きの二週間以上も前にネットで注文したが、会津から戻って一週間以上経った今もまだ手元に届いていない。
 父虎之助も戊辰戦争に従軍したが、慶応四年(1868)八月一日、越後石間口にて負傷。二十四日、中村にて死亡。四十一歳。


徳祜院釋種道順居士(水野多門の墓)

 水野多門は会津本郷焼窯元水野瀬戸右衛門家十代目。白虎寄合二番隊として越後方面に出征した。大正六年(1917)、六十六歳にて没。
 蛭ヶ窪共同墓地から街中に降りて行く途中に水野瀬戸右衛門共同窯跡がある。明治末年まで使用されていたという。この辺りは窯業が盛んであったが、戊辰戦争では多くの窯工も戦場に借り出されたのである。


水野瀬戸右衛門共同窯跡


釋種義亮信士(吉川秀蔵の墓)

 吉川秀蔵は、四石五斗二人扶持。瓦師次番格。慶応四年(1868)九月四日、会津本郷にて戦死。三十八歳。
 吉川家からは秀蔵のほか、父嘉右衛門(六十九歳)、弟吉松(十六歳)も本郷にて戦死している。


安西助十郎墓

 安西助十郎について「幕末維新全殉難者名鑑」では「戊辰役戦死」とのみ記載がある。墓石によれば、没年月日は「明治元年(1868)十二月二十四日」享年は「四十六」である。


忠道院義観日賢居士(岸清兵衛の墓)

 岸清兵衛は五石二人扶持。新領別楯隊寄合組萱野隊。慶応四年(1868)八月一日、越後赤坂山にて戦死。五十五歳。
 墓誌によれば、同じ墓域の岸清七なる人物(清兵衛の息か)も会津戦争に出陣したらしいが、生還して大正八年(1919)六十八歳で亡くなっている。

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会津坂下 Ⅲ

2018年12月21日 | 福島県
(気多宮墓地)

 心清水八幡神社を参詣した後、竹様に気多宮墓地に連れて行ってもらった。竹様によれば、五年ほど前に松平平左衛門の古い墓は建て替えられたという。


会津戊辰戦争
玄武隊 松坂平右衛門の墓

(心清水八幡神社)


心清水八幡神社


吉田松陰東北遊日記碑

 心清水八幡神社参道に吉田松陰東北遊日記の碑がある。松陰は、嘉永五年(1852)、脱藩して肥後藩の宮部鼎蔵とともに東北を遊歴した。本神社には同年二月六日に立ち寄り、宝物を拝観した。当時の祠内兵庫頭を、日新館の師範高津平蔵の紹介で訪れた。翌日は束松峠を越え、越後を経て東北を一周した。
 参道の記念碑は、松陰の「東北遊日記」から拡大してそのまま影写したもので、松陰の右肩上がりの癖のある字を楽しむことができる。

(西光寺)
 西光寺に武田惣吉の墓がある。武田惣吉は大東流合気柔術の創始者武田惣角の父。文政三年(1820)の生まれ。会津藩士。宮相撲の力士で、剣術、槍術、棒術、柔術にも長けていた。学問にも秀で、西光寺で寺小屋を開いて近所の子弟に教えていた。禁門の変にて活躍。戊辰戦争では力士隊を率いて奮戦した。会津戦争では西郷頼母隊に所属した。戦後、越後高田で謹慎。


西光寺


父母如在(武田惣吉の墓)

コメント (2)
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会津若松 北郊 Ⅱ

2018年12月15日 | 福島県
(金堀山神社)
 沓掛峠の金堀地区側の上り口に山の神を祀った神社がある。旅人は、この街道を往来するのに沓(わらじ)を神社の杉の木などに掛け、旅の安全を神社に祈った。ここから沓掛峠に至る山道はかつての街道であり、敗走する白虎隊ら会津藩兵もこの道を通ったであろう。


金堀山神社


戦死十一人之墓

 この付近で戦死した会津藩士十一人の墓である。金堀の住人の手によって建てられたものである。

 ここから金堀の滝を経由して山道を登ると、沓掛茶屋跡があるはずである。熊除けの鈴を鳴らしながら山道をのぼった。しかし、進むにつれて草深くなり、途中で断念することになった。


金堀の滝

(滝沢峠)

滝沢峠で車を降りて会津側に十分ほど下りて行くと、舟石茶屋跡、その名前の由来となった舟石がある。


舟石茶屋跡


旧街道の石畳


舟石

 桜井常四郎は「滝沢峠は命を賭して死守する。敵が城下に侵入することがあれば、我は死んだものと考えよ」と、妻に言い残して出陣。慶応四年(1868)八月二十三日、舟石の上で腹を掻き切って壮絶な死を遂げた。四十六歳。同日、妻たみ子も自宅で自害した。

(東明寺)


東明寺

 東明寺はもともと市街地にあったが、昭和三十二年(1962)、郊外の川原町に移転し、その際に周囲の寺院を吸収したため広大な境内をもつに至った。


聞法院義阿忠専居士(渡邉治左衛門の墓)

 渡邉治左衛門は、源太郎の父。慶応四年(1868)八月二十三日、若松五軒町にて戦死。六十四歳。


好川家之墓(好川瀧三郎・瀧之助兄弟の墓)

 好川瀧三郎は弥一右衛門の二男。白虎寄合一番原隊。明治元年(1868)九月従五日、会津一ノ堰にて負傷。十六日、面川にて死亡。十六歳(墓誌には、十七日死亡、十五歳とある)。
 好川瀧之助は、弥一右衛門の倅。遊撃井深隊。慶応四年(1868)閏四月二十四日(墓誌によれば四月)、越後三国峠にて戦死。二十一歳。


三澤家代々墓(三澤留吉の墓)

 墓碑によれば、慶応四年(1868)四月二十五日、白河にて戦死。三十五歳。
 「幕末維新全殉難者名鑑」に一致する名前がなく、竹様によれば「三村留吉」とあるのがそれではないかという。三村留吉は六石二人扶持、足軽。遊撃遠山隊。死亡は閏四月二十五日。

(駒板墓地)
 駒板地区の共同墓地内に蘭医古川春英の墓がある。


古川春英墓

 古川春英は、文政十一年(1828)、駒板村の農家古川長蔵の末子に生まれた。幼名留吉。幼い頃から俊逸で、日吉丸の異名があったという。生家は駒板村法雲寺の西側にあったとされる。
 十三歳で医師となることを決意し、若松の山内春瀧の家弟となって医術を学んだが、ほどなく漢方医学の限界を感じ、会津を出奔して大阪の緒方洪庵塾に入門した。安政四年(1857)、会津藩に蘭学所が開設されたことを聞いて、会津に戻り、蘭学所の責任者である野村監物のとりなしによって帰藩を赦され、蘭学所の教官となった。やがて、日々進歩する医学に遅れをとってしまっていることに気付き、再び大阪の緒方洪庵のもとで学び、さらに長崎に渡って蘭医ボードウィンに師事した。この頃、長崎で松本良順と出会った。慶應四年(1868)、戊辰戦争が勃発すると、戦地から後送されてくる戦傷者の手当に窮した藩は、松本良順に応援を依頼した。良順は会津に赴き治療を手掛ける傍ら、「古川春英はどこにいるのか、会津藩には名医古川春英がいるではないか。早く彼を呼びなさい」と藩首脳に訴えたため、藩は慌てて春英を探し出して召還させたという。会津戦争中、城内で神業的な外科手術や治療を行い、多くの命を救ったが、このときの婦女子の協力を得た治療看護活動は、後世の看護制度の嚆矢ともいわれている。戦後、島村(現・会津若松市河東町)の治療所所長を経て、若松千石町の治療所に移り、患者の治療や子弟の教育に力を注いだが、明治三年(1870)、流行したチフスの治療に当たるうちに自らも感染し、同年十一月七日、生涯を閉じた。享年四十三。最初、融通寺に葬られたが、のちに故郷駒板に改葬された。

(秀安寺)


秀安寺


義山道勇信士(小原庄助の墓)

 小原庄助というと、「朝寝、朝酒、朝風呂」が大好きで、それが行き過ぎて身上をつぶしたといわれる伝説の人物である。その実在は疑問視されているが、秀安寺にその小原庄助の墓がある。個人的には、これまでも白河市や木更津市で小原庄助の墓を見て来た。「朝寝、朝酒、朝風呂」の好きな好々爺を総称して「小原庄助」と呼んでいるような気がする。
 秀安寺の小原庄助は、小原家の墓域にあり、墓石側面には「明治元年八月二十二日戦死 小原庄助」と記されている。被葬者はたまたま名前が小原庄助だったのかもしれない。

(大塚山墓園)
 恵倫寺における掃苔を終えた時点で、午後三時半を過ぎていた。日没までの残り時間を大塚山墓園での探墓に充てることになった。
 大塚山墓園は、市内に境内をもつ高厳寺や紫雲寺などの墓地を集めたもので、大塚山古墳の麓から斜面に造成された広大な霊園である。
 竹様の先導で大塚山墓園を歩いたが、竹様も大塚山を歩いたのは随分昔のことで記憶が曖昧なこともあり、途中から四人で手分けをして探すことになった。「墓探し」に関しては我が国トップレベル?の四人が目を皿のようにして探したが、かつて竹様が見たという斎藤源太、鈴木安太郎の墓を発見することはできなかった。撤去もしくは移葬されたものと思われる。


赤城家代々之墓(赤城佐代之助の墓)

 赤城佐代之助は、六石二人扶持。青竜三番足軽野村隊。慶応四年(1868)九月三日、会津大内峠にて戦死。五十歳。

 大塚山墓園の一番下に高厳寺の無縁墓石を集めた一角があり、そこに鈴木徳治、小原父子の墓がある。また、大岩元四郎の古い墓石は無縁墓石の山の中にある。


鈴木徳次之墓

 鈴木徳治(墓石では徳次)は、音治の父。六石五斗二人扶持。青竜足軽四番有賀隊。慶応四年(1868)八月二十三日、会津三斗小屋にて戦死。四十二歳。
 表面には「善世院徳恵了安居士」という徳治の法名が刻まれている。


勇心院忠譽光運居士
義誠院進譽○恵居士
(小原房吉 忠次郎の墓)

 小原房吉は忠次郎の倅。朱雀士中二番田中隊。慶應四年(1868)五月六日、下野今市にて戦死。二十七歳。
 忠次郎は、青龍士一番木本隊。慶応四年(1868)八月二十七日、会津小田山にて戦死。四十四歳。


相原家代々墓

 相原貞次の墓である。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載はないが、墓石の裏面には「慶応四年閏四月十八日」という没年月日が刻まれている。


義勇院淨譽忠○居士(大岩元四郎の墓)


大岩家之墓

 大岩元四郎は、十石三人扶持。一ノ寄合上席。衝鋒隊二番隊差図役。慶応四年(1868)八月二十五日、若松長命寺裏にて戦死。三十一歳。
 竹様によれば、大岩家の墓に大岩新八郎も合葬されているのだそうである。ただし、かつて墓石の傍らにあったという墓誌が撤去されており、合葬者の名前は確認できず。
 大岩新八郎(「幕末維新全殉難者名鑑」では大戸新八郎)は、十石三人扶持。大砲士中一番田中隊。慶應四年(1868)八月二十三日、若松天神口にて戦死。五十二歳。


松江家之墓

 松江豊寿(とよひさ)、春次兄弟の墓である。Sさんのリクエストにより訪問することになった。
 松江豊寿は九代目若松市長。旧会津藩士松江久平の長男。軍人を志して陸軍士官学校に入学。卒業後、中佐の時に徳島(板東)俘虜収容所所長となった。第一次世界大戦で収容されたドイツ兵捕虜を、捕虜は愛国者であって犯罪者ではないので人道に扱うべきと主張し住民と交流させた。町村では牛乳、バター、パンなどが作られた。捕虜たちによりベートーヴェンの第九が初めて演奏されたエピソードは有名。九代若松市長として上水道計画を決議。引退後は飯盛山の白虎隊墓地広場の拡張に尽力した。昭和三十一年(1956)没。
 弟春治は「南洋開発の父」と称された人物である。
 Sさんが語るところによれば、新選組局長近藤勇の愛刀「阿州吉川六郎源祐芳」に松江豊寿の署名の入ったメモが見つかり、そこに「下僕首を盗み生前の愛刀になりし此の刀を持ちて会津に走り密かに葬る」と書かれていた。このことから、現在、近藤勇の首の「会津埋葬説」が有力視されているというのである。

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会津若松 西郊 Ⅱ

2018年12月15日 | 福島県
(会津新選組記念館)
 市内七日町通り沿いに会津新選組記念館がある。入場料三百円(五名以上になると一人二百円とお得)。一階は骨董品やお土産屋となっていて、そこでお金を払って二階へ上がる。
 記念館では幕末に使用された武器や弾薬などのほか、有栖川宮熾仁親王の和歌や大鳥圭介の詩などが所せましと並べられている。


会津新選組記念館


砲弾

 ここで目をひいたのが平成二十九年(2017)五月十五日付産経新聞の記事のコピーである。記事によれば、新選組の近藤勇の首を埋葬した場所について「会津説」が急浮上しているという。真偽の証明は難しいが、天寧寺の近藤の墓を掘り起こせば結論が出るかもしれない。
 同行していたSさんが、近藤の刀に添えられていたメモの筆跡を調査したという品川区の焼肉店経営権東品さんと知り合いということもあり、大いに話が盛り上がったのであった。

(大法寺)


大法寺


磯上内蔵之丞の墓

 磯上内蔵之丞の墓である。忠吾とも。百石。進撃小室隊組頭助勤。慶應四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて戦死。四十三歳。


長谷川家之墓

 長谷川源次郎は、青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十六歳。


秋山彦左衛門墓

 秋山彦左衛門は、百石、蔵奉行。慶応四年(1868)八月二十三日、若松城内にて自刃。五十一歳。

(秋月悌次郎生誕の地)
 住所でいうと湯川町の住宅の一角に秋月悌次郎生誕の地碑が建てられている。おそらく最近建てられたものである。
 秋月悌次郎胤永は、文政七年(1824)、当地に生まれた。藩校日新館から江戸の昌平黌に進み、寸暇を惜しんで勉学に励み、書生寮舎長となった。後に藩命により関西各地を歴訪し、有為の人材と交わりを結んだ。会津藩主が京都守護職に任じられると、公用方として公武間を奔走し、会薩同盟や文久の政変に功があった。戊辰戦争では越後戦争参謀、籠城戦を副軍事奉行として戦った。終盤、決死の使者として開城を西軍と談判し、降伏式を執行した。また山川健次郎ら青年に教育の道を拓いた。
 明治期には漢学の復興と子弟教育に務め、特に第五高等学校(現・熊本大学)では、同僚のルフカディオ・ハーン(小泉八雲)や学生たちから深く慕われ、敬愛された。詩作に秀で「北越潜行の詩」は「会津三絶」の一つとされる。人と為り「明晰・果断・不屈・至誠」(親友、南摩綱紀の言)。悌次郎の言葉「学は理屈に陥らず、治は覇術に流れず」は、今に通じる金言である。明治三十三年(1900)没。


会津藩士秋月悌次郎生誕之地

(中荒井)


紀念碑

 この場所も分かりにくい場所で、竹様の案内なくして自力でたどり着けるようなところではない。以下、竹様のホームページより転載。
 中荒井村の諏訪神社が、現在地に遷宮される以前の神社境内に、俗称「角場」と呼ばれた武術修練所があった。そこは弓道、馬術、槍、刀や拳法など武術を修練する道場で、中荒井村だけでなく、会津四郡の地方御家人はじめ、会津藩の郷士やその子弟が訓練した道場であった。
この碑は、その道場があった記念と戦死者の碑である。明治二十三年(1890)四月、松平容大の篆額。

(五百川原墓地)


川村謙益妻高知氏 同末児李四郎 墓

 医師川村謙益の妻とその子の墓である。
 墓石側面および背面にぎっしりと刻まれた文字を読み解くと、会津戦争の戦乱による悲劇が浮かび上がってくる。この墓に葬られている川村謙益の妻は、戦乱のさ中、幼子を見失い、そのことを気に病んで自殺したというのである。
 この墓も竹様に紹介していただいた。竹様は、道を走っていて目に入った共同墓地に「それらしい臭い」を感じたらその場所の墓石を一つひとつ確認して「慶応四年」もしくは「明治元年」と記されたものを発掘し、戊辰殉難者を発掘するという気の遠くなるような作業を繰り返している。五百川原墓地のこの墓もそういった活動の成果なのである。全く頭が下がる。

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会津若松 南郊 Ⅱ

2018年12月15日 | 福島県
(泰雲寺つづき)


鳳樹院泰庵霊明居士供養塔

 以前訪ねた時は、梶原平馬の墓は風が吹けば倒れそうな木製の柱であったが、立派な石塔に建て替えられていた。


威光院普覚清忠居士(元木吉之助の墓)

 元木吉之助(喜代之助とも)は六石二人扶持。家老内藤氏家臣。明治元年(1868)九月十七日、若松・泰雲寺にて自刃。三十五歳。

 原早太(隼太とも)、大竹主計の墓が並んで置かれている。
 原早太は、三百六十石。朱雀寄合一番隊中隊頭。明治元年(1868)九月十五日、会津一ノ堰にて負傷。二十六日、面川にて死亡。三十七歳。
 大竹主計は四百五十石。軍事奉行番頭対席。遊撃隊頭。慶応四年(1868)九月五日、会津面川(御山とも)にて戦死。四十六歳。泰雲寺の墓に建てられた供養塔によれば、純義隊主将とされる。


原早太墓(右)
大竹親豪之墓(大竹主計の墓)(左)


内藤得道の墓

 内藤得道は、越後の出身。善龍寺で修行し、会津藩軍事方の命を受け僧籍のまま密偵となった。戦争が城下戦に移ると得道は兄が住職を務める泰雲寺に身を寄せる。九月十七日、内藤一族の自刃の様子を見届けた得道はその遺品や遺言を介右衛門のもとへ届けた。得道は灰燼の中から内藤家の者達の遺骨を拾い集め、ねんごろに埋葬した。のちに謹慎を解かれた介右衛門が泰雲寺を訪れた際に、得道の労をねぎらい内藤姓を与えた。

(慈光寺)


慈光寺


義範道覺居士(林忠吾の墓)

 林忠吾は、六石二人扶持。青竜士中一番有賀隊付。明治元年(1868)九月十四日、若松諏訪神社にて戦死。二十二歳。墓誌には、没日が十一月十四日とある。

(陸軍大将柴五郎の碑)


陸軍大将柴五郎の碑(右)
湯殿山供養塔(左)

 陸軍大将柴五郎が戊辰の敗戦を迎えたのは、十歳のとき。「湯殿山供養塔」の前に筵をしき、栗や柿などを売っていたことを、それから五十年後に追憶して和歌を詠んだ。石碑裏面に、柴五郎直筆の文字が刻まれている。

 五十とせのむかしのままに残りけり
 柿の実うりし道の辺のいし

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会津若松 小田山周辺 Ⅴ

2018年12月14日 | 福島県
(大窪山墓地つづき)


直義神霊(牧原文吾の墓)

 牧原文吾は、勘太夫の弟。別名を松井九郎。十石三人扶持。一ノ寄合。歩兵頭?。慶応四年(1868)八月二十三日、戸ノ口原(大野原とも)にて戦死。三十四歳。


壽昌院義山忠道居士(向山利信の墓)

 墓石には「明治元年辰九月」という死亡日が刻まれているが、「幕末維新全殉難者名鑑」には記載がない。


有賀満武之墓

 有賀満武は江戸中期の崎門国学者。


忠達義照居士(高橋栄次郎の墓)

 高橋栄次郎は、兵糧方。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。三十歳。


常盤盛輔○○(常盤数馬の墓)

 常盤数馬は与兵衛倅。百五十石。青竜足軽三番日向隊小隊頭。慶応四年(1868)八月二十八日、若松長命寺にて戦死。三十七歳。


杉浦家(杉浦丈右衛門の墓)

 杉浦丈右衛門は四百石、表用人。正奇隊中隊頭。慶応四年(1868)八月二十九日、若松長命寺にて負傷。城内で死亡。四十六歳。次男弥次郎(二十八歳)も同日戦死している。五男弥五郎は同年九月五日、住吉河原にて戦死。二十一歳。


長崎尚志之墓

 竹様からいただいた情報によれば、長崎尚志は、宗川茂弘の二男で宗川熊五郎といった。戊辰戦争にも従軍している。のちに長崎家を継いだ人。


武輝彦神靈(有賀左司馬の墓か)

 有賀左司馬の墓と推定。
 有賀左司馬は、三百石。青竜足軽四番隊中隊頭。慶応四年(1868)八月二十五日、若松野際口にて戦死。三十二歳。


忠信院殿釋種義教(志賀勘兵衛の墓)

 志賀勘兵衛は孫太郎父。百石。青竜士中一番鈴木隊。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。四十八歳。


田村三省之墓

 田村三省は、享保十九年(1734)生まれ。天明の飢饉のとき東北各地を踏査して「孫謀録」をまとめた。また「新編会津風土記」を編集する傍ら、奇石を収集して「会津石譜」を著した。文化三年(1806)死去。七十三歳。


池内重徳之墓

 墓石の記述によれば、池内重徳は浮洲庄兵衛の長男。京都道中の御目付○○見習や素読所勤務ののち、戊辰戦争では小隊長を拝命し、若松にて負傷。城内の病院に入院して明治を迎えたという。


一應了心信士(田代仙太郎の墓)

明治元年(1868)年十月二十三日に青木の病院で死亡。「幕末維新全殉難者名鑑」に記載なし。


神保内蔵助妻之墓

 神保内蔵助の妻の墓。


木本新吾墓

 木本新吾(慎吾とも)は、天保十年(1839)の生まれ。青竜士中三番隊長として参戦した。明治三十六年(1903)没。

 以上で会津若松の旅を終えた。三日間で歩数は七万九千歩を越え、撮影した写真は五百二十五枚に上った。実に充実した三日間であった。

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会津若松 小田山周辺 Ⅳ 

2018年12月14日 | 福島県
(大窪山墓地つづき)


高橋家之墓(高橋清左衛門の墓)

 墓石側面には「義善院了達日明居士」という戒名とともに「明治元年八月廿三日戦死 俗名高橋清左衛門 七十三才」と記載されている。


伊藤光隆墓

 墓石によれば、伊藤光隆は慶應四年(1868)八月二十三日、戸の口原にて戦死。二十歳。「幕末維新全殉難者名鑑」には記載なし。


沢田名垂先生墓地

 沢田名垂(なたる)は、安永四年(1775)、会津藩士の家に生まれた。文化二年(1805)に藩校日新館の和学師範に登用され、藩士の教育に当たり、学制改革に傾注するとともに、藩主松平容頌の命により「日新館童子訓」上下二巻の編纂に中心的役割を果たした。ほかに「家屋雑考」「為政雑考」「古字考」等がある。弘化二年(1845)没。七十一歳。


片桐喜次墓(片桐八十次郎の墓)

 片桐八十次郎は善之助二男。十石三人扶持。奏者番上席。遊撃隊組頭。明治元年(1868)九月、若松融通寺にて負傷。十月十日、御山にて死亡。三十歳。


赤羽家瑩域
忠肝義精居士(赤羽衛門の墓)

 赤羽衛門は直次郎の兄。二百五十石。朱雀寄合一番隊一柳小隊頭。慶応四年(1868)五月一日、磐城白河にて戦死。二十九歳。


黒河内清次郎 野村新平 黒河内只四郎の墓

 黒河内清次郎は織左衛門倅。十石三人扶持。明治元年(1868)九月十四日、若松米代二ノ丁にて戦死。二十八歳。
 野村新平は、二百石。朱雀寄合三番鈴木隊半隊頭。明治元年(1868)九月二十四日、会津大芦村にて戦死。二十五歳。福島県昭和村にも墓がある。
 黒河内只四郎は、織左衛門三男。諸生隊佐川隊。慶応四年(1868)一月三日、伏見にて戦死。二十二歳。


荒木久米吉の墓

 竹様の調査によれば、越後高田で謹慎中に亡くなった荒木久米吉の墓と推定される。どう頑張っても文字が読み取れないが、竹様が後日確認したところ、越後高田という文字が確認できたそうである。竹様によれば、三つ並ぶ墓の左端が叔父の荒木半蔵(飯寺にて戦死)の墓とのこと。


荒木留吉の墓

 その左は荒木留吉の墓。表面を分厚く苔が覆っていて文字が読み取れないが、辛うじて「明治元 於伏見」という文字が見える。
 荒木留吉は久米吉の弟。諸生隊町田隊。慶応四年(1868)一月、八幡橋本(枚方関門とも)にて戦死。十九歳。


桐林秋露居士

 墓石には「慶應四辰年七月二十四日」という没年月日が刻まれているが、被葬者不明。戊辰戦争の殉難者かどうかも不明。


山田貢之墓(山寺貢の墓)

 山寺貢は百石。目付。慶応四年(1868)六月十二日、磐城白河古天神にて戦死。三十一歳。
 山寺家の墓地にあり、「幕末維新全殉難者名鑑」でも「山寺貢」と紹介されており、これが正しい表記だと思うが、何故だか墓石には「山田貢」と刻まれている。


尚正神霊(服部栄の墓)

 服部栄は二十二石四人扶持。別撰春日隊組頭。慶應四年(1868)八月二十九日、若松長命寺裏にて負傷。明治二年(1869)七月、井手村にて死亡。二十六歳。


義勇神霊(中野勝江の墓)

 中野勝江の墓である。「幕末維新全殉難者名鑑」では「克江」とされる。業助倅。百石。大砲士中二番千葉隊。慶応四年(1868)八月二十四日、若松本一ノ丁(城中とも)にて戦死。二十六歳。


牧原奇平墓

 牧原奇平は百五十石、郡奉行。慶應四年(1868)八月二十三日、会津強清水にて戦死。六十二歳。


政良神靈 政誠神禮 政忠神禮
(河原岩次郎 勝太郎 キク
 クニ 善左衛門の墓)

 河原善左衛門以下五名が合葬されている。
河原善左衛門は、百三十石。京都で学校奉行兼副官兼別撰隊副長、のち公事奉行。帰国して国産奉行。慶応四年(1868)八月二十三日、会津滝沢にて長男勝太郎とともに戦死。四十三歳。
岩次郎は善左衛門の弟。慶応四年(1868)八月二十三日、会津滝沢村にて戦死。三十九歳。
勝太郎は善左衛門倅。慶応四年(1868)八月二十三日、会津滝沢村にて戦死。十五歳。
キクは善左衛門の母。八月二十三日、会津石塚観音にて自害。六十八歳。
クニは善左衛門の娘。会津石塚観音にて祖母とともに死。九歳。

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