(蛭ヶ窪墓地)
遠藤家之墓
白鳳山の蛭ヶ窪墓地には、この地域出身の多数の藩士の墓がある。
遠藤家の墓には従軍日記を残した遠藤平太が眠っている。
遠藤平太は遠藤虎之助の長男。昭和五年(1930)に七十八歳で亡くなっているので、戊辰戦争に従軍した時にはわずか十六歳だったことになる。星亮一氏が平太の日記をもとに新書を著しているので、会津行きの二週間以上も前にネットで注文したが、会津から戻って一週間以上経った今もまだ手元に届いていない。
父虎之助も戊辰戦争に従軍したが、慶応四年(1868)八月一日、越後石間口にて負傷。二十四日、中村にて死亡。四十一歳。
徳祜院釋種道順居士(水野多門の墓)
水野多門は会津本郷焼窯元水野瀬戸右衛門家十代目。白虎寄合二番隊として越後方面に出征した。大正六年(1917)、六十六歳にて没。
蛭ヶ窪共同墓地から街中に降りて行く途中に水野瀬戸右衛門共同窯跡がある。明治末年まで使用されていたという。この辺りは窯業が盛んであったが、戊辰戦争では多くの窯工も戦場に借り出されたのである。
水野瀬戸右衛門共同窯跡
釋種義亮信士(吉川秀蔵の墓)
吉川秀蔵は、四石五斗二人扶持。瓦師次番格。慶応四年(1868)九月四日、会津本郷にて戦死。三十八歳。
吉川家からは秀蔵のほか、父嘉右衛門(六十九歳)、弟吉松(十六歳)も本郷にて戦死している。
安西助十郎墓
安西助十郎について「幕末維新全殉難者名鑑」では「戊辰役戦死」とのみ記載がある。墓石によれば、没年月日は「明治元年(1868)十二月二十四日」享年は「四十六」である。
忠道院義観日賢居士(岸清兵衛の墓)
岸清兵衛は五石二人扶持。新領別楯隊寄合組萱野隊。慶応四年(1868)八月一日、越後赤坂山にて戦死。五十五歳。
墓誌によれば、同じ墓域の岸清七なる人物(清兵衛の息か)も会津戦争に出陣したらしいが、生還して大正八年(1919)六十八歳で亡くなっている。
遠藤家之墓
白鳳山の蛭ヶ窪墓地には、この地域出身の多数の藩士の墓がある。
遠藤家の墓には従軍日記を残した遠藤平太が眠っている。
遠藤平太は遠藤虎之助の長男。昭和五年(1930)に七十八歳で亡くなっているので、戊辰戦争に従軍した時にはわずか十六歳だったことになる。星亮一氏が平太の日記をもとに新書を著しているので、会津行きの二週間以上も前にネットで注文したが、会津から戻って一週間以上経った今もまだ手元に届いていない。
父虎之助も戊辰戦争に従軍したが、慶応四年(1868)八月一日、越後石間口にて負傷。二十四日、中村にて死亡。四十一歳。
徳祜院釋種道順居士(水野多門の墓)
水野多門は会津本郷焼窯元水野瀬戸右衛門家十代目。白虎寄合二番隊として越後方面に出征した。大正六年(1917)、六十六歳にて没。
蛭ヶ窪共同墓地から街中に降りて行く途中に水野瀬戸右衛門共同窯跡がある。明治末年まで使用されていたという。この辺りは窯業が盛んであったが、戊辰戦争では多くの窯工も戦場に借り出されたのである。
水野瀬戸右衛門共同窯跡
釋種義亮信士(吉川秀蔵の墓)
吉川秀蔵は、四石五斗二人扶持。瓦師次番格。慶応四年(1868)九月四日、会津本郷にて戦死。三十八歳。
吉川家からは秀蔵のほか、父嘉右衛門(六十九歳)、弟吉松(十六歳)も本郷にて戦死している。
安西助十郎墓
安西助十郎について「幕末維新全殉難者名鑑」では「戊辰役戦死」とのみ記載がある。墓石によれば、没年月日は「明治元年(1868)十二月二十四日」享年は「四十六」である。
忠道院義観日賢居士(岸清兵衛の墓)
岸清兵衛は五石二人扶持。新領別楯隊寄合組萱野隊。慶応四年(1868)八月一日、越後赤坂山にて戦死。五十五歳。
墓誌によれば、同じ墓域の岸清七なる人物(清兵衛の息か)も会津戦争に出陣したらしいが、生還して大正八年(1919)六十八歳で亡くなっている。
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