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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

下野

2015年09月12日 | 栃木県
(甲田家墓地)


河野家由緒碑

 下野市本吉田の県道44号線沿い、鬼怒川を渡る大道泉橋の手前に、河野家墓地がある。ここに河野顕三ら一族の墓がある。


贈従五位甲田(河野)顕三墓

 墓地にある河野家由緒碑によれば、河野家の本姓は甲田といい、河野顕三の墓石にも本姓である甲田顕三と刻まれている。
 甲田家が何時どういう経緯でこの地に定着したのかは詳らかではないが、本家の庄兵衛の時、彦右衛門が分家を立てて独立したのに始まる。彦右衛門は長崎に遊学して医学を修め、帰郷後、摂生亭と名乗って開業した。嗣子貞文も家業を継いで徐嘯と号して、父子ともに令名が高かった。その後、弘雄、民雄、顕雄と続く。顕雄の妻は、「下野国誌」十二巻を著した河野守弘という人の一人娘で千世といった。この二人の間に生まれたのが、顕二、顕三の兄弟で、いずれも医学を学び、父子とも勤王の志が厚かった。顕二は万延元年(1860)、松前で客死。顕三は文久元年(1861)の坂下門外の変に参加して斃れた。河野家は断絶の危機に瀕したが、顕三の妹、テルが婿を迎えて家系を継いだ。


甲田顕二釋戒忍居士墓


贈正五位河野守弘墓

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宇都宮 Ⅵ

2015年09月12日 | 栃木県
(東刑部)


良眞禅定門
(増渕仙吉墓)


 増渕仙吉の墓である。墓地とも呼べないような藪の中にある。玉垣で囲まれており、官修墓地のようでもあるが、はっきりとは分からない。墓も半ば雑草で覆われている。
増渕仙吉は仙助とも。軍夫。慶応四年(1868)九月一日、会津火玉峠で負傷。十一月六日死亡。二十二歳(六十六歳とも)。以上、「幕末維新全殉難者名鑑」による。


増渕家之墓

 近くの墓地にある増渕家の墓の傍らにある墓標によれば、増渕仙助は明治元年十一月六日、二十一歳にて死去したと記されている。「幕末維新全殉難者名鑑」の記載と合致しているところと、異なっている部分がある。

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那須塩原 Ⅳ

2015年09月12日 | 栃木県
(烏森公園)


烏森神社

 明治十二年(1879)、印南丈作、矢板武らの要請に応えて、伊藤博文、松方正義が烏ヶ森から那須野が原を視察し、明治十四年(1881)の明治天皇の東北・北海道巡幸の際には、名代として有栖川宮熾仁親王が訪れた。さらに明治十八年(1885)には那須疎水起工式、明治二十七年(1894)には那須開墾社成業式が開かれる等、那須野ヶ原開墾、那須疎水開削にゆかりの深い場所である。丘の上の烏森神社は、社伝によれば、その前身である烏ヶ森稲荷神社の創建は延喜二年(902)とされるが、明治二十一年(1888)に現在の社殿が完成し、以来「開拓のおやしろ」として崇敬を集めてきた。


印南丈助頌徳碑

 印南丈作の頌徳碑である。建立は明治二十九年(1896)とあるが、「那須開拓史」には明治三十一年(1898)に建てられたと記載されている。撰文は佐々木高行。書は明治三大書家の一人と称される金井之恭による。
 印南丈作は、天保二年(1831)、日光で生まれ、佐久山宿(現・大田原市)の印南家の養子となった。戸長、県の勧業課付属、産馬協同会社社長を歴任後、明治十三年(1880)、同志とともに那須開墾社を設立し、翌年社長となった。明治十八年(1885)には矢板武とともに那須疏水の開通を実現するなど、那須野ヶ原の開拓に尽力した。明治二十一年(1888)、五十七歳にて死去。


有栖川宮碑

 有栖川宮熾仁親王の撰文および書による碑で、明治十四年(1881)八月、那須野ヶ原を視察したときのことを漢文で記録したものである。建立は明治十五年(1882)。

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那須 Ⅱ

2015年09月12日 | 栃木県
(大沢)
 前日、嫁さんから「明日は自動車を使っても良いよ」と言われたので、急遽栃木県への日帰り史跡旅行の計画を立てた。朝、五時半に出立して、第一目的地である那須町大沢に到着したのは八時半を過ぎていた。天気予報とおり、梅雨前線の影響で午前中はずっと雨であった。当たらなくてもよい予報ほどピタリと当たる。


高根沢新助墓

 高根沢新助は、大沢村出身の農。軍夫。明治元年(1868)九月五日、若松城下で負傷。十八日、死亡。三十一歳。


(小島)


平山忠蔵墓

 平山忠蔵は、小島村出身の農。夫卒。慶応四年(1868)五月一日、岩代白川郡西原堀田にて戦死。五十五歳。

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大田原 黒羽 Ⅱ

2014年10月19日 | 栃木県
(鎮国社)


鎮国社

 黒羽城址公園の前の道を北上する。鎮国社は、その左手の林の中に鎮座しているが、そこにあるという情報がなければ、入ってみようとは思わないような場所である。道路脇の小道を登ると、静かな境内が出迎えてくれる。


大関公之碑

 本殿の前に大関公之碑がある。大関増裕の顕彰碑である。明治七年(1875)三月建立。勝海舟の撰文。
 大関増裕は、外様の小藩の藩主であり、本来であれば幕政に参画することはあり得なかったが、譜代の名門西尾氏(遠江横須賀藩)の出身であったことから、幕府に重用されて講武所奉行や陸軍・海軍奉行さらに若年寄などの要職を歴任した。




鈴木庄作正直墓

 参道脇に墓地があり、そこに鈴木庄作の墓が二つある。うち一つは官修墳墓である。鈴木正作の諱は正直または正勝。慶応四年(1868)四月十八日、斥候に出たところを幕兵に捕えられ、翌十九日、下野蓼沼村で斬。四十五歳(三十二歳とも)。

(黒羽招魂社)


黒羽招魂社

 黒羽招魂社(黒羽神社)は、明治二年(1869)十二月、戊辰戦争における黒羽藩の戦死者四十七霊を祀るため、大関増勤らにより創建された神社である。のちに日清・日露・太平洋戦争の戦死者の霊が合祀されることになった。


大関増裕像


高橋長雄戦死之碑

 高橋長雄は、通称高橋亘理、鹿之助とも呼ばれた。小隊長。明治元年(1868)九月十四日、若松城下にて戦死。三十五歳。この戦死之碑は、明治二年(1869)九月、三田称平の撰文、土浦雪江の書ならびに篆額にて建立された。


地山三田翁碑

 三田称平は、文化八年(1811)、黒羽藩士秋庭清房の子に生まれ、のちに三田政武の養子となった。号は地山。郡奉行として民政に尽くし、飛び地の益子においては益子焼を奨励した。安積艮斎に朱子学を学び、陽明学者大塩平八郎の下で学んだこともあった。藩校作新館の学頭をしていた慶應四年(1868)閏四月、情勢探索のため仙台に派遣された。時に白石で奥羽列藩会議が開催中であったことから、称平も招かれて、列藩同盟への加入を求められた。しかし、拒絶して帰国。藩論を尊王に一本化した。維新後は藩公議人を務め、私塾地山堂を開き、子弟教育に当たった。明治二十六年(1893)、八十二歳で没。


益子信明戦死之碑

 益子四郎信明の慰霊碑である。益子四郎は、小隊長。江戸で学び、洋式兵法、砲術に長じた。物頭。慶応四年(1868)八月二十三日、下野小谷村にて戦死。二十二歳。明治十三年(1881)建碑。

(前田赤台共同墓地)
 前田共同墓地を探して、走り回った末に偶然前田赤台共同墓地にたどり着いた。念のため墓地内を歩いてみると、ちょうどその真ん中辺りに官修墓地があり、黒羽藩鮎瀬文蔵の墓があった。偶然の所産である。


正棟院戦山良功居士(鮎瀬文蔵の墓)

 鮎瀬文蔵は、五郎ともいう。諡号を正棟。黒羽藩二番隊(隊長渡邊福之進隊)平士。慶応四年(1868)九月五日、会津若松にて戦死。十九歳。

(前田共同墓地)
 今回の栃木県下の史跡訪問では、竹様のHPを参考にさせていただいたが、毎度のことながら竹様の探求力というか、発見能力には感心させられる。この前田共同墓地についても、私は竹様のHPであらかたの位置が分かったから行き着けたようなものである。県道26号線から墓地に至る道は、未舗装道路である。私は一旦自動車で行こうとしたが、とても最後まで行けないと危険予知して、途中から引き返して県道に車を止め、そこから歩いて前田共同墓地まで移動した。ほぼ十分かかった。途中は田畑しかないような場所で、この先に墓地があるという確信は持てない。よく前田共同墓地を探し出したものだと、心の底から感心する。


新江新吾克己墓

 新江新吾は、新吉ともいう。名は克己。明治元年(1868)九月二十七日、下野佐良土村で南下してきた水戸市川勢と遭遇し戦死。四十六歳。


新江壽三郎正教墓

 新江壽三郎は、名を正教または克成といった。卒。慶応四年(1868)四月十八日、官軍隊長祖式金八郎と連絡に出て、幕兵に捕えられ、十九日、下野河内郡本郷村で斬。二十五歳。

(午居渕共同墓地)


小室末蔵政重墓

 小室末蔵は、明治元年(1868)九月二十七日、下野佐良土にて戦死。二十五歳。墓石は新しく建て替えられたものらしい。


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大田原 Ⅱ

2014年10月19日 | 栃木県
(大田原護国神社)

前回大田原神社を訪ねたとき、境内の石碑や石燈籠の類はことごとく倒壊しており、目当てだった招忠魂碑も見つけられなかった。あれから数年が経ち、境内もかなり整理されたようである。


招忠魂碑

 神殿の前に移設された招忠魂碑を発見した。裏面には、「戊辰役大田原藩戦死人名」と刻まれ、軍夫を含めて十八名の戦死者名が記されている。明治十年(1877)の建碑。

(不退寺)
 新富町の不退寺には、会津藩野出政之進の墓がある。意外と小さな墓で、見つけ出すまで三十分以上、墓地内を歩き回った。


不退寺


辨阿義頓居士(野出政之進の墓)

 会津藩野出政之進の墓である。側面には「奥州会津若松藩 野出蔵主墓」とある。野出政之進は、土屋八左衛門の子。百石。歩兵差図役。慶応四年(1868)五月二日、下野大田原にて戦死とされるが、大田原藩士と口論の末、斬殺されたという。大田原藩士は、腹いせに墓石に刀で斬りつけたそうで、その逸話を裏付けるように、今も墓石の上部には刀痕が残っている。二十六歳であった。

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五十里

2014年10月11日 | 栃木県
(長念寺)


長念寺

 鬼怒川温泉郷からさらに国道121号線(会津西街道)を北上すると、巨大な五十里ダムに行き着く。国道は二筋に分れて五十里ダム沿いに続く。そのうち右のルートはダムでせき止められてできた湖(五十里湖)の東岸を北上する。とても国道とは思えない道である。路上には雨で流されてきたと思われる土砂や木の枝がそのまま散らかっている。分岐した国道が合流するという地点の手前に長念寺(かつては、五十里湖の湖底にあったそうである)がある。何の表示もないので、余程気を付けて走っていないと見落としてしまうだろう。
 急な坂道を登ると、ぽっかりと開いた空間があってそこに長念寺の堂と墓所がある。墓地には会津藩井上佐久馬の墓がある。


井上佐久馬墓

 井上佐久馬は六石五斗二人扶持。朱雀足軽二番桜井隊に属した。慶応四年(1868)閏四月十七日、下野大桑村にて戦死。三十二歳。
 今回の栃木県史跡訪問の旅は、天気には恵まれなかった。ずっと曇り空で、時折雨が降った。唯一、長念寺を訪ねたときだけ、青空を見ることができた。

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鬼怒川 Ⅱ

2014年10月11日 | 栃木県
(鬼怒川公園)

 鬼怒川公園には「日蓮上人遺跡」とされる帝釈堂があるが、その手前の斜面に戊辰戦争当時の塹壕跡が残る。


帝釈堂


塹壕跡

 旧幕軍は伝習隊、草風隊、会津藩隊から構成されていた。現在、鬼怒川公園のある小原沢は、モウキ山が鬼怒川に突き出したところで、通行の難所の一つであった。新政府軍がここを越えて、上り坂になっている切通しを通行しようとすると対岸の小高い丘から旧幕軍は一斉に射撃した。現在も当時の塹壕跡がかなり明確に残っている。

(弾除けの松)


弾除けの松

 鬼怒川小学校の裏手の山の斜面に「弾除けの松」がある。小原沢における決戦の際、対岸の佐賀藩陣屋から放たれる砲弾を、旧幕兵は大松の蔭に身を隠して難を逃れたという言い伝えがある。樹齢四百年といわれた大松は、平成八年(1996)七月、当地を襲った突風により倒れたが、その後、地元住民の手により二代目の松が植えられている。

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今市 Ⅲ

2014年10月11日 | 栃木県
(大室)


戊辰役戦死者墓

 大室の戊辰役戦死者墓は、この地で戦死した会津藩士三名を慰霊するものである。被葬者は不明。平成十六年(2004)、地元の狐塚義久氏が建立したものである。
 ちょうど県道279号線が二股に別れる交差点付近に狐塚氏墓所があるが、同じ山林の中の少し離れた場所にある。

(来迎寺)


来迎寺

 森友の明静寺の墓地は本堂に向って左右に分かれているが、左手の比較的古い墓地内の齊藤家墓所内に齊藤嘉兵衛の墓石がある。また齊藤家の墓所には、平成十六年(2004)に末裔である齊藤岳彦氏が「森友村名主首を斬らる」と書いた小さな碑も置かれている。


洗譽水心悦雲善清信士(齊藤嘉兵衛の墓)

 齊藤嘉兵衛(墓碑には齊藤嘉平とある)は、森友村の名主である。旧幕軍に兵糧を提供したとして、慶応四年(1868)七月二十六日、佐賀藩兵に斬首された。

(明静寺)
 明静寺には阿久津安之助の墓がある。墓石の背面には「会津軍行村惣代死 安之助」とある。この墓は、もともと今市毘沙門山麓の雑木林内の瀬尾上ノ平一二五七番地墓地にあったが、平成三年七月、子孫の意思により明静寺墓地に改葬されたものである。


明静寺


忠運全恵清信士(阿久津安之助の墓)

 今市で戦闘が繰り広げられていた頃、瀬尾村は東西両軍の中間地帯であった。そこに東軍(会津藩兵か)がきて「若者を従軍させよ。さもなくば村を焼く」と村役人を脅かした。村では一同相談の上、阿久津安之助ら三名を差し出し、焼き討ちを免れた。明治元年(1868)十月、安之助は会津まで従軍してそこで戦死。遺族は、同僚が持ち帰った遺品の頭髪や小刀を埋めて、墓を建てたと伝えられる。

(栗原)


弾痕のある墓石

 栗原の弾痕のある墓石を訪ねたのは二回目である。前回は二年半前のことになるが、散々この付近を歩き回って行き着くことはできなかった。今回は、入口にこのような看板が建てられていて、お蔭で迷うことなく出会うことができた。


弾痕のある墓石

 この辺りも戊辰戦争で激戦が交わされた場所である。旧幕軍は正兵(伝習隊)と奇兵(猟師鉄砲隊)が連携をとり、策略を用いて新政府軍(土佐藩兵)を攻めた。ことに山上から狙い撃ちしてくる猟師鉄砲隊には悩まされたという。
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さくら

2014年10月11日 | 栃木県
(押上)


戦死二人祭の碑

 慶応四年(1868)四月、負傷して道に迷った二人の幕兵は、押上村にて村人に殺害された。その後、この地域では洪水や疫病(コレラ)が相次ぎ、村人たちは二人の怨霊と恐れ、中には碑に斬り付ける者もいた。それから百年以上が経過し、いつしかこの惨事も忘れられ、古碑も路傍に消滅しかかっていた。近在の有志一同はこのことを深く憂えて、その由来を刻み、幕兵二人の鎮魂慰霊と成した。
 辺り一面には水田が広がりばかりで、何の目印もない。この小さな石碑を見つけ出すのは至難である。

(光院)


光院

 さくら市喜連川の光院は、恵心僧都を開基とし、最初は興国寺と称していたが、元和二年(1616)に、喜連川氏初代の喜連川国朝の養母光院が現在地に移したことから寺名を改めた。本堂裏に広大な墓地が拡がるが、二基同家墓所の中に喜連川偽謀事件の首謀者が葬られている。


賢徳院碩雲大光居士
集功院智皎良順居士
實性院勇道自顯居士
(二階堂貞明父子の墓)

 喜連川藩は、足利尊氏の次男基氏の流れを汲む名族で、石高は一万石に満たない(実高五千石という)極小藩ながら、家格は十万石並という扱いを受けた。
 慶応四年(1868)七月十五日、家老二階堂貞明は、喜連川藩が会津藩に内通していると新政府に讒訴した。藩主喜連川縄氏は、二階堂貞明、貞則父子を断罪し、同年八月十三日、首謀者三名が斬刑に処された。
 処刑された二階堂貞明(号は量山)は、先代熙氏に仕えて藩政改革に取り組んだ元家老である。熙氏が亡くなり、縄氏が家督を継ぐと、失脚した。讒訴の背景には、藩内の派閥争いがあったのであろう。

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