(甲田家墓地)
河野家由緒碑
下野市本吉田の県道44号線沿い、鬼怒川を渡る大道泉橋の手前に、河野家墓地がある。ここに河野顕三ら一族の墓がある。
贈従五位甲田(河野)顕三墓
墓地にある河野家由緒碑によれば、河野家の本姓は甲田といい、河野顕三の墓石にも本姓である甲田顕三と刻まれている。
甲田家が何時どういう経緯でこの地に定着したのかは詳らかではないが、本家の庄兵衛の時、彦右衛門が分家を立てて独立したのに始まる。彦右衛門は長崎に遊学して医学を修め、帰郷後、摂生亭と名乗って開業した。嗣子貞文も家業を継いで徐嘯と号して、父子ともに令名が高かった。その後、弘雄、民雄、顕雄と続く。顕雄の妻は、「下野国誌」十二巻を著した河野守弘という人の一人娘で千世といった。この二人の間に生まれたのが、顕二、顕三の兄弟で、いずれも医学を学び、父子とも勤王の志が厚かった。顕二は万延元年(1860)、松前で客死。顕三は文久元年(1861)の坂下門外の変に参加して斃れた。河野家は断絶の危機に瀕したが、顕三の妹、テルが婿を迎えて家系を継いだ。
甲田顕二釋戒忍居士墓
贈正五位河野守弘墓

河野家由緒碑
下野市本吉田の県道44号線沿い、鬼怒川を渡る大道泉橋の手前に、河野家墓地がある。ここに河野顕三ら一族の墓がある。

贈従五位甲田(河野)顕三墓
墓地にある河野家由緒碑によれば、河野家の本姓は甲田といい、河野顕三の墓石にも本姓である甲田顕三と刻まれている。
甲田家が何時どういう経緯でこの地に定着したのかは詳らかではないが、本家の庄兵衛の時、彦右衛門が分家を立てて独立したのに始まる。彦右衛門は長崎に遊学して医学を修め、帰郷後、摂生亭と名乗って開業した。嗣子貞文も家業を継いで徐嘯と号して、父子ともに令名が高かった。その後、弘雄、民雄、顕雄と続く。顕雄の妻は、「下野国誌」十二巻を著した河野守弘という人の一人娘で千世といった。この二人の間に生まれたのが、顕二、顕三の兄弟で、いずれも医学を学び、父子とも勤王の志が厚かった。顕二は万延元年(1860)、松前で客死。顕三は文久元年(1861)の坂下門外の変に参加して斃れた。河野家は断絶の危機に瀕したが、顕三の妹、テルが婿を迎えて家系を継いだ。

甲田顕二釋戒忍居士墓

贈正五位河野守弘墓