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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

栃木 Ⅴ

2021年07月17日 | 栃木県

(栃木高校)

 

養正寮

 

 栃木高校の正門を入って右手に洋風の建物がある。明治四十三年(1910)九月の東宮陛下(のちの大正天皇)の来校を記念して、大正三年(1914)に建てられた記念図書館(養正寮)である。

 一階は図書室、二階は同窓会の集会場として使用されたが、昭和十年(1935)、階上の和室は養正寮と名付けられ、ここで生徒の精神修養の場として校長の講話、漢籍の素読会などが開かれた。現在は自習室として利用されているという。

 

明治天皇栃木行在所址

 

 養正寮の東側には明治天皇が栃木に巡幸した際に行在所として使われたことを記念した石碑が建てられている。明治九年(1876)の東北巡幸、明治十四年(1881)の東北北海道巡幸をはじめ、栃木県には九度の明治天皇の行幸があった。栃木高校構内の石碑は、明治三十二年(1899)、近衛師団小機動演習の巡見のため明治天皇行幸の行在所となったことを記念したものである。

 

聖駕駐蹕碑

 

 聖駕駐輦碑は元帥侯爵山県有朋の書。

 

(大平町蔵井)

 栃木市大平町蔵井にある明治天皇の駐輦記念碑は、明治四十年(1907)十一月、常毛で開かれた陸軍大演習に際し、明治天皇がこの地で野立を楽しみ、諸兵を統監したことを記念したものである。

 

護国殿

 

天皇駐蹕之所

 

征清紀念之碑

 

 同じ場所にある征清紀念碑は、明治二十七年(1894)の日清戦争を記念して、明治二十九年(1896)に建立されたものである。

 

(兜山公園)

 栃木市岩舟町鷲巣の兜山公園から岩船町を見下ろすことができる。天気が良ければ、ここから遠く富士山も拝むことができるという。高台には明治天皇鷲巣野立所記念碑が建てられている。

 

兜山公園からの眺望

 

明治天皇鷲巣御野立所

 

御野立記念之碑

 

 明治三十二年(1899)十一月十六日、この地で明治天皇が、南軍北軍に分かれた近衛師団の激戦を交わす演習を観戦し、その後御野立所において御昼食を食したとされる。

 

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佐野 Ⅳ

2021年07月17日 | 栃木県

(洞雲寺)

 梅雨の晴れ間を狙って栃木県下の史跡を巡った。最初の目的地は佐野市船越町の洞雲寺である。洞雲寺には、西園寺公望篆額木村翁之碑銘がある。

 木村翁とは、木村高静(源兵衛)のこと。文化元年(1806)に生まれ、明治十六年(1883)没した。地域の子弟のために家塾を開き、また村役人を務めた。撰文は森保定鷗村、碑文の揮毫は吉田晩稼(ばんこう)。鷗村、晩稼とも江戸末期から明治の勤皇家である。

 

洞雲寺

 

木村翁之碑銘

 

木村家之墓

 

 洞雲寺には木村姓の墓所が複数ある。高静の墓を探したが、特定することはできなかった。一番立派な木村家之墓の写真を参考として掲載しておく。

 

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宝積寺

2020年12月05日 | 栃木県

(高根沢町立阿久津中学校)

 

阿久津中学校

 

 明治四十二年(1909)、陸軍の大演習が那須野ヶ原で行われた。演習最終日となった十一月九日には宝積寺の高台にある阿久津小学校に行在所が置かれ、天皇は見晴らしのよい校庭から演習を統監し、終って講評を行った。小学校跡地の現・阿久津中学校にはこの時の記念碑が建てられている。

 

天皇駐蹕之跡

 

 場所は非常に分かりにくい。体育館の裏にひっそりと建っている。

 

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宇都宮 Ⅶ

2020年12月05日 | 栃木県

(向明児童公園)

 

史蹟 行在所向明館跡入口

 

 ちょうど二荒山神社の向かい側、ドン・キホーテや餃子屋が入っているビルに隣接して、児童公園がある。周囲の賑やかさと比べると、忘れられたような空間である。

 この場所は、豪商鈴木(津山)久右衛門の邸宅であった。明治六年(1873)六月、明治天皇が宇都宮城で行われた練兵を天覧した折、鈴木邸が行在所に選ばれた。明治十四年(1881)、東京鎮台、仙台鎮台合同大演習の際にも行在所となった。

 

史蹟 行在所向明館跡

 

 向明館は昭和二十年(1945)の戦災で焼失し、現在は児童公園として利用されている。

公園内には三つの石碑が建てられている。左から「史蹟 行在所向明館跡」「明治天皇行在所向明館ノ由来」「明治天」と読める。

 

(御幸町)

 

天皇駐蹕之所

 

 宇都宮市御幸町という地名は、明治十四年(1881)、明治二十五年(1892)そして明治四十二年(1909)の三度に渡り、明治天皇が当地を訪れ、明治四十二年(1909)以降「御幸ヶ原」と呼ばれるようになったことに由来している。

 洋服のAOKIの前に天皇駐蹕碑が建てられている。

 

(岡本駅)

 

明治天皇駐蹕之處

 

 JR岡本駅西口に明治天皇駐輦之處碑が建てられている。

 明治四十二年(1909)、明治天皇が帝國陸軍秋季特別大演習を統監するため、同年十一月十日に宝積寺から岡本駅まで御召列車で移動し、下車後、馬車にて現地において統裁された。このことを記念して、昭和十二年(1937)十一月に建立されたものである。撰文は陸軍大将奈良武次。

 

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足利 Ⅲ

2019年09月21日 | 栃木県

(徳蔵寺)

 

 

 徳蔵寺

 

 

五百羅漢像

 

 

早川翁生壙碑

 

 この日の最終目的地は足利市の徳蔵寺である。

カメラを持って自動車から降りたところで、寺の住持さんと出くわした。こちらから頼んだわけでもないのに「せっかくだから五百羅漢堂を開けてあげよう」と県の重要文化財に指定されている五百羅漢像を見せていただいた。「早川彦平の顕彰碑を見にきたんです」と伝えると、快く墓地入口までご案内いただいた。住持さんによると、この石碑は明治十三年(1880)、早川家の屋敷内に建立されたもので、その後、徳蔵寺に移設された後、小山市内の実家近くや遺族の住む埼玉県内を転々とした。平成二十九年(2017)秋、遺族である鈴木英夫氏から足利市を経て徳蔵寺に連絡があり、この寺に安置されることになった。実に八十二年振りに徳蔵寺に戻ったわけである。

早川彦平は、梁田宿で旅籠「上総屋」を営み、二百人をかかえた梁田宿の顔役であった。慶応四年(1868)三月九日、梁田宿の旧幕府軍を官軍が急襲して激戦となったのが梁田戦争である。古屋作佐衛門率いる旧幕府軍(衝鋒隊)は六十四人の戦死者をだして敗走した。この時、彦平は、梁田宿にいた旧幕府軍の動向を官軍に通報し、地元民の誘導、近隣から押し寄せたやじ馬の整理に当たったといわれる。戦後は出身地である小山で病院や学校建設に関わったという人物である。

 石碑に刻まれた「生壙」とは生前に自分でつくっておく墓のこと。傍らの石碑には「死後業績をたゝえ碑が建立」されたとあるが、「死後」ではないのではないか。

 

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佐野 Ⅲ

2018年02月11日 | 栃木県
(曲屋公民館)


義士 龜山勇右エ門 亀田徳三郎君碑

 この日早朝から潮来、鹿嶋、鉾田、かすみがうら、小美玉、大洗、桜川と史跡を回ってきたが、あまりに順調にいき、まだ午前中であった。そこでさらに足を伸ばして栃木県佐野市田沼を訪問することにした。


雙忠烈碑

 亀山勇右衛門と亀田徳三郎の招魂碑および顕彰碑である。曲屋公民館の南にある。
 亀山勇右衛門は、天保十一年(1840)の生まれ。異母兄亀田徳三郎と同様の学問修業を積み、資性は兄に勝るといわれた。平田銕胤の門に学び、また武術を水戸藩士栗田源左衛門に修め、水戸藩士と交遊した。元治元年(1864)、水戸筑波勢が下野太平山に屯すると、その檄文に応じ兄とともに参加し、以来行動をともにした。武田耕雲斎一行の西上にも加わり、小荷太奉行として重きを成したが、敦賀で同志らとともに斬首された。年二十六。
 亀田徳三郎は、文政九年(1826)の生まれ。父亀田武左衛門賀治は、母の死後、二子を残して養家を去り、同村の亀山家の夫婦養子となったため、徳三郎は不遇な幼時を過ごし、そのため長じても粗暴な所行があったという。学問を柿沼広身、大河内清香に学び、ついで藤森弘庵に師事し、同時に平田学も学び、水戸藩士らと交遊した。水戸天狗党の挙兵に亀山勇左衛門とともに参加し、御金奉行を務めた。元治元年(1864)十二月十六日、新保駅に滞陣中、加賀藩に投降することに反対し、僧赤城とともに本体を脱したが、幕兵のために殺された。
年三十九。

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那須 Ⅲ

2017年09月08日 | 栃木県
(グリーンピアセカンド)


浮浪徒十四人之墓

 水戸浪士(天狗党隊員)の戦死者を葬った「浮徒十四人之墓」を探して、この辺りを走り回ること四度に及んだが、どうしても見付けることができない。そこで那須町観光協会に問い合わせたところ、写真付きで詳しい地図を送っていただいた。これがあれば、迷うことなく探し当てることが可能である。
 七月のどんより曇った日、念願を果たすため、早朝に自宅を出発して一路浮徒十四人之墓を目指した。場所は県道72号を進んで黒川橋を渡って直ぐに左折。グリーンピアセカンドという別荘地に至るが、最初に出会う三叉路を左に入り、二つ目の交差点を左折し、その先の田圃の中にある。車で近くを走っていて見える場所ではなく、やはり場所を知らずに探し当てるのは簡単ではない。やっと対面できたことに感慨一入であった。小雨が降り始めたが、しばしこの墓の前にたたずんだ。
 この墓は、文字とおり水戸浪士十四人を葬ったもので、葬られているのは田中愿蔵隊に属した隊士(いずれも農民)といわれる。元治元年(1864)十月、捕えられた彼らはこの地で処刑された。明治九年(1876)、十三回忌を機に建てられたものである。

(山田資料館)
 JR東北本線の黒田原駅から徒歩数分という住宅街の中に山田資料館がある。明治二十四年(1891)、黒田原一帯の払下げを受けた山田顕義は、開拓のための農場事務所をこの地に構えた。当時は母屋、事務所、宿泊部屋、穀倉などを備えていたが、今は事務所の一部が残っているのみである。資料館では山田顕義やその子孫の写真や遺品を展示している。入場無料、要事前予約。
 例によって私がこの場所を訪れたのは朝の七時半で、開館時間の遥か前であった。


山田資料館


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栃木 Ⅳ

2017年09月08日 | 栃木県
(近龍寺)
 定願寺と同じく、天狗党が宿所とした寺である。定願寺に本陣が置かれ、田丸稲之右衛門や藤田小四郎らが宿泊。元治元年(1864)六月一日、近龍寺には田中愿蔵隊が入った。
 田中愿蔵は定願寺の総裁田丸稲之右衛門から軍装が華美に過ぎることを咎められ、近龍寺の裏門から出立するよう命じられた。


近龍寺


近龍寺裏門

 栃木を出た天狗勢は結城に移動したが、ここから田中愿蔵隊は独自行動を取り始める。栃木に引き返した田中は、非武装・無抵抗の住民を殺害した上、街に放火した。火事は終夜収まらず、焼失家屋四百余という被害を出した。さらに消火しようとした町民が田中愿蔵隊の手によって殺害された。栃木では「愿蔵火事」と呼んだ。
 田中愿蔵は、攘夷にとどまらず倒幕思想を有していたといわれる。それにしても、無辜の住民を殺害し、街に放火するという暴虐な事件は正当化しようがない。天狗党は軍律を重んじていたが、若い田中を制御することができなかった。本来であれば、このような事件を起した時点で、田中愿蔵を処刑するか、討伐しておく必要があったであろう。しかし、田中愿蔵隊は天狗党と行動を別にしながら、時には共同して諸生党と戦った。外から見て、やはり田中愿蔵隊は天狗党の一部であり、天狗党=残虐な集団というイメージを最後まで払拭することはできなかった。田中愿蔵隊の存在があったから、諸生党に「こちらが正義」というお墨付きを与えることになったし、幕府も迷うことなく天狗党の追討を命じることになった。天狗党が悲惨な最期を迎えた伏線は、既に田中隊が暴虐事件を起こした時点で芽生えていたといって良いだろう。

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大田原 須賀川

2017年07月16日 | 栃木県
(雲厳寺)
 雲巌寺は、弘安三年(1283)に仏国国師が開山したという古刹である。銅板葺きの山門は、かつてはこけら葺きであったという。江戸前期の建築といわれる。


雲巌寺

 元治元年(1864)十月一日、天狗党は大子から八溝山麓を西に進んで、須賀川から雲巌寺に出た。この時、諸生派は伐木を並べて発砲し進路を阻んだ。その時の弾痕が雲巌寺の山門に残っていたが、今は埋木してあって、確認することができない。

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足利 Ⅱ

2016年01月10日 | 栃木県
(足利学校)


史跡足利学校

 日本最古の学校として知られる足利学校は、もっとも古い説によれば奈良時代の創建といわれる。歴史上、明らかなのは、上杉憲実が現在国宝に指定されている書籍を寄進し、痒主(学長)制度を設けるなどして学校を再建したことである。
 天文十八年(1549)にはフランシスコ・ザビエルにより「日本国中、最も大にして最も有名な坂東の大学」と世界に紹介され、当時学徒三千といわれるほどになったが、明治五年(1872)その幕を下した。


入徳門

 入徳の額は、天保十一年(1840)に掲げられたもので、現在の建物は裏門を移築したものという。吉田松陰が当地を訪れたとき、聖廟の右区の欄間にあったというが、もともと学校門の正門に掲げられていたものである。
 嘉永五年(1852)四月三日、吉田松陰は盟友宮部鼎蔵とともに栃木の宿を出た。富田、茂呂、犬伏、天明を経て足利に入った。松陰は足利学校の刻明な見学記を残している。


学校門

 松陰の見学記によれば、まず「学校」の扁額を掲げる正面の門をくぐり、継いで「杏壇」(講堂)の二字を掲げた「廟門」を通り、聖廟を拝した。往時門に掲げられていた「杏壇」と「学校」という扁額は、現在方丈に保存展示されている。


杏壇

 孔子廟の前には、寛文八年(1668)創建の杏壇門がある。杏壇とは、孔子が弟子たちに教えたところに杏の木が植えられていたことに由来する。こちらの額はレプリカである。


孔子廟

 松陰の見学記は続く。廟の中は三区に分れ、孔子の座像を安置し、左には学校の創始者とされる小野篁の像が置かれていた。
 松陰は、孔子像は宋代のものと聞いたというが、実際には室町末期の天文四年(1535)に作られたものである。



孔子座像


小野篁像


足利学校 方丈


市立足利学校遺蹟図書館


 松陰は、学校に附属する文庫を見学し、膨大な経史の諸書が網羅されていることに驚いた。市立足利学校遺蹟図書館に、一万二千冊の書が引き継がれている。

 松陰のみならず、多くの著名人がここを訪れている。古くは蒲生君平、亀田鵬斎、立原杏所、渡辺崋山、梁川星巌、紅蘭、広瀬旭荘、佐藤一斎、高杉晋作。維新後も、細川潤次郎、青山延寿、佐野常民、重野安繹、関口隆吉、東郷平八郎、上村彦之丞、大隈重信、渋沢栄一、井上馨、乃木希典らの名前が確認されている。

 この日の午後三時、圏央道の白岡菖蒲と桶川北本が開通した。少し遠回りになるが、足利からの帰路、東北道から圏央道を使うことにした。新たに開通した区間を通ったのは、直後の三時四十分であった。少し車の量は多かったが、これまで一時間近くかかっていた区間を、十分程度で走破できるのは快感であった。これで自宅から東北へのアクセスが格段に向上することになる。
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