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史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

宇都宮 Ⅴ

2014年10月11日 | 栃木県
(明星院)


明星院

 白沢町の明星院の本堂横に江面家墓地があり、その中に石で囲われた官修墓地がある。
 江面常吉は、軍夫。明治元年(1868)九月八日、会津飯寺大川中にて戦死。二十三歳。


江面常吉墓

(上駒生)
 駒生町の交差点の角に、官修墓地が置かれている。被葬者は、矢古宇徳蔵。やはり軍夫で、明治元年(1868)九月十四日、会津若松河原町門内にて戦死。


矢古宇徳蔵の墓

(八幡山墓地)
 八幡山墓地に、児島強介の墓がある。児島強介は、宇都宮寺町手塚家の長女操子の婿となったため、手塚家の墓地内に墓標が建立されている。


處士強介墓

 水戸に出入りして藤田東湖と茅根伊予之介に師事し、尊攘の志を練った。十九歳のとき、江戸に出て国学を学び、武術を金子武四郎に従い、いよいよ志気卓絶。県信緝、菊池教中、大橋訥菴に師事する頃から、国事を憂えて多くの志士と交わるようになった。坂下門外の変に先立ち、文久元年(1861)の冬、訥菴の指令を受けて宇都宮を代表し、水戸藩の平山兵介とともに一切の準備に当たったが、実行する時期に来て病に罹って郷里に戻った。のちに捕えられて江戸の獄に投ぜられ、二十六歳で獄死した。
 護送の途次、石橋宿にて自ら墓標である「處士強介墓」の文字を書き残した。

(能延寺)


能延寺

 宮町の能延寺の墓地は二か所に別れており、官修墓地があるのは、本堂とは道路を挟んだ反対側の方である。
 三基の小さな墓が並んでいる。向って右の墓石には、「彦藩 雨宮良之助之墓」とある。彦根藩徒士雨宮良之助信義の墓で、慶応四年(1868)四月十六日、小山にて戦死。二十六歳。
 中央の墓は、同じく彦根藩の高木次郎の墓。墓には「彦藩 高木釟次郎之墓」と刻まれている。高木次郎は、徒士。渡辺九郎右衛門隊。同じく慶応四年(1868)四月十七日、小山にて戦死。三十六歳。
 左手の墓は、「矢島佐吉之墓」。矢島佐吉は、渡辺九郎右衛門隊。慶応四年(1868)四月十七日、小山にて戦死。二十二歳。


彦藩 雨宮良之助之墓
高木釟次郎之墓
矢島佐吉の墓

(おしどり塚公園)
 一番町一丁目の市街地の中にあるおしどり塚公園に、児島強介誕生地の石碑が建てられている。


勤皇志士 贈従五位 児島強介誕生の地

 児島強介がこの地に生まれたのは、天保八年(1837)のこと。文才に優れ、詩歌を能くし、熱血の勤皇歌人としても知られた。

(北山霊園)
 歴史読本臨時増刊「幕末維新人物総覧」(昭和五十一年)によれば、越後高田藩側用人川上直本の墓が宇都宮市岩本町の北山霊園にあるというので、行ってみた。北山霊園は、北山古墳群の麓に開かれた市営の霊園である。高い場所に上ると、田園風景と新幹線を見下ろすことができる。
 想定以上に広い墓地で、手がかりもなく特定の墓を探し当てることはほぼ不可能であった。早々にギブアップ。


北山霊園

(光音寺)


光音寺

 光音寺には、安塚の戦闘における戦死者を葬った墓がある。被葬者不明。風化が進んでおり、表面の文字は読み取れない。


戊辰戦死者墓

(幕田南原墓地)
 幕田の南原墓地にも官修墓地がある。葬られているのは、ともに宇都宮藩の軍夫、増山熊吉と荒川兵吉である。


増山熊吉墓(右)
荒川兵吉墓(左)

 増山熊吉は、慶応四年(1868)九月二日、会津火玉峠にて負傷。十月二十六日死亡。荒川平吉は、慶応四年(1868)九月二日、会津飯寺村にて負傷。十月七日死亡。二十三歳。

(光音寺墓地)


福富安宗神霊

 幕田の光音寺墓地には、福富姓の墓所が複数あるが、その中の一つに軍夫福富清蔵(諱・安宗)の墓がある。福富清蔵は、慶応四年(1868)九月二日、会津本郷村にて戦死。二十五歳。
 雨も降ってきたので、一日目の史跡訪問はここまで。この日は宇都宮駅前のビジネスホテルに宿をとった。宇都宮といえば、餃子である。有名な餃子の店には、長い行列ができていた。もちろん、「食べるために行列に並ばない」ことをポリシーとしている私は、ガラガラのラーメン屋に入って簡単に夕食を済ませた。

(下川岸墓地)


菊池粂蔵之墓

 二日目も早朝五時にホテルを出て、最初の訪問地が下川岸墓地(石井町)である。
 菊池粂蔵は軍夫。慶応四年(1868)九月四日、会津(九月一日火玉峠とも)にて戦死。十七歳(二十七歳説もあり)。

 今回の史跡訪問では随分「軍夫」の墓を訪ねることになった。軍夫とは、戦闘地域にて食糧や武器弾薬を運搬する従軍人夫のことをいう。軍夫は、旧幕軍、新政府軍の双方から徴発された。五月に奥羽越列藩同盟が成立し、戦局が白河口に移行すると、特に新政府軍は大量の兵士派遣を必要とした。そのため下野国内からは、多くの農民から軍夫が徴発されることになった。この一月間で徴発された軍夫は二千人に近いといわれる。軍夫の中には、戦病死するものも少なくなかった。宇都宮市内だけで軍夫の墓は、十四五基あるといわれる。さらに、異郷で戦没し、そのまま他国で葬られた例もある。軍夫の墓に出会うたびに、彼らの悲哀を感じる。



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真岡 Ⅱ

2014年10月04日 | 栃木県
(東郷陣屋跡)


二宮先生遺跡 東郷陣屋趾

 東郷(ひがしごう)陣屋は、寛政十一年(1799)の建造である。嘉永元年(1848)、東郷支配山内総左衛門が兼任で真岡支配となり、真岡陣屋に移った時、代わりに二宮金次郎が東郷陣屋に入った。二宮金次郎は、山内氏に信頼され、荒地起返、用水整備、道路改修などに力を尽くした。
 慶応四年(1868)、官軍の焼き討ちにより、廃陣となった。現在は、陣屋があったことを示す石碑があるのみで、その背後には空虚な空間が広がっている。

(円林寺)


円林寺

 円林寺には、幕末の真岡代官山内源七郎とその配下の墓がある、本堂のすぐ脇である。


故代官山内源七郎之墓

 真岡代官山内源七郎の墓の前には、山内代官とともに斬刑に処された松野栽右衛門、三澤昇四郎、平田儀助(以上、真岡代官下役)の墓がある。


松野栽右衛門墓(右)
三澤昇四郎墓(左)


平田儀助墓

 真岡代官山内源七郎は、四月四日、世直し一揆がおきたことに驚いて逃亡した。宇都宮在陣の新政府軍香川敬三に支配権の維持を訴え出て、四月二十日、新政府配下の一員として真岡に帰陣した。帰陣後の山内は、能吏として働いていた。
 慶応四年(1868)五月三日、下総古河に下総野鎮撫府が開設され、鎮撫方に佐賀藩主鍋島直大が任命された。その半月後の五月十七日、真岡の代官所が鎮撫府配下の佐賀藩士島団右衛門(のちの義勇)率いる土佐藩兵により襲撃され、代官山内源七郎ほか四名の手付手代が討ち取られ、陣屋は焼き払われた。代官は三日間獄門となり高札場で晒された。罪状は、賊への手助けが理由であった(本当に山内代官が内通していたかどうかは不明)。

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栃木 Ⅲ

2014年10月04日 | 栃木県
(太山寺)


太山寺

 大平山の麓に位置する太山寺は、しだれ桜で有名らしいが、真夏に桜が咲いているわけもない。境内ではウルサイほどセミが鳴いていて、暑さを倍加させていた。
 太山寺に、水戸天狗党の慰霊碑があるというので境内から墓地を隈なく歩いた。しかも二周
したが見つからない。最後に、念のため大平山登山道の入り口に立つ「野州豊川稲荷」と刻んだ石碑のある狭い一角を覗いたら、そこにあった。蜘蛛の巣が縦横に張り巡らされているので、要注意。


水戸天狗党 三浦・橋本・中山之霊位

 三浦勘助、橋本四郎の二人は、江戸の人。宇都宮で旅宿の下女を略奪し、逃走したことにより、元治元年(1864)五月十六日、軍規に従って斬首された。三浦は三十歳、橋本は三十一歳であった。
 中山雄一郎も同じ事件に関与して自刃を命じられた。

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佐野 Ⅱ

2014年10月04日 | 栃木県
(東光寺)
 戦車部隊に所属していた若き日の司馬遼太郎先生が、終戦を迎えたのが佐野であった。
佐野市寺中町は、その名のとおり、寺院の密集した街である。その中の一つ、東光寺には、文政十一年(1828)に堀田摂津守正敦が築いた植野城(堀田佐野城)の大手門を明治九年(1876)に移設した中門がある。
東光寺の墓地に、佐野藩銃卒竹村覚右衛門の墓がある。


東光寺


大道智徹居士(竹村覚右衛門の墓)

 竹村覚右衛門は、慶応四年(1868)閏四月二十四日、越後三国峠にて戦死。二十九歳。

(東山墓地)


東山墓地

 佐野市赤見町には大きな運動公園があって、その北西の外れに東山墓地がある。
 竹様の「戊辰掃苔録」によれば、ここに松本徳右衛門の墓があるという。


松本徳右衛門墓

 東山墓地は、山の斜面を切り開いたような墓地で、さして広い敷地ではない。簡単に見つけられると思ったが、ことのほか苦戦した。松本家の墓は四か所あって、それはすぐに分かったのだが…。
 実は松本徳右衛門の墓は、官修墓地になっており、松本家の墓域とは別になっている。手入れする人がいないせいか、雑草まみれになっていて、そのため発見に手間取ってしまったのである。
 松本徳右衛門は、土佐藩に徴用された軍夫。慶応四年(1868)、会津若松にて病死。


(種徳院墓地)


前修赤尾子之墓(赤尾清三郎の墓)

 赤尾清三郎は、備後福山の儒学者赤尾秀実(鷺洲)の孫。若くして江戸に出、古賀侗庵のもとで学んだ。その後、各地を遊歴し、天保年間(1830~1844)から約二十年間、田沼村大関(現・栃木県佐野市)で塾を開いた。地域の子弟たちに漢学(儒教)を教え、その数は数百人に及んだといわれる。慶応三年(1867)、江戸薩摩藩邸で倒幕のための人を集めていることを知り、日吉邦助と変名してこれに参加した。倒幕工作のために地方遊説と資金調達を担当した。その頃、竹内啓率いる浪士団が「勤王倒幕」を旗印に出流山で挙兵した。しかし、約一か月後、幕府軍と戦い敗退した。この戦闘に参加していた清三郎の長男豊三が捕まったことを知った清三郎は自首。同年十二月十五日、佐野天明宿へ護送中、この付近(吉水地区)にて処刑された。享年四十七。
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小山 Ⅱ

2014年10月04日 | 栃木県
(持宝寺)


持宝寺

 小山市宮本の持宝寺は、粕屋新五郎が自刃した寺である。
 粕屋新五郎は、文久三年(1863)の浪士組結成に参加。近藤勇、芹澤鴨らと京都に残留したが、その後脱退して郷里水戸の太田に戻った。元治元年(1864)の水戸天狗党挙兵に参加したが、栃木宿で幕府軍の追討を受け、持宝寺にて自刃した。四十三歳であった。

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野木

2014年10月04日 | 栃木県
(丸林霊園)


岡村兵吉之墓

 振り返れば一年前の夏は、一週間をかけて箱館戦争の史跡を巡ったが、今回は地味に一泊二日で栃木県の史跡を回ることにした。帰省ラッシュにより高速道路が渋滞することが目に見えていたので、今回も早朝四時に自宅を出発した。第一目的地である野木町に着いたのは、六時半。さすがにこの時間に動けば、渋滞には遭わない。
 今回も竹様の「戊辰掃苔録」を参考にさせていただいた。
 野木町の丸林霊園岡村家墓所内に岡村兵吉の墓がある。岡村兵吉は古河出身の軍夫。慶応四年(1868)八月二十九日、会津若松にて戦死。二十一歳。

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栃木 Ⅱ

2013年01月13日 | 栃木県
(正仙寺)
 前回、正仙寺を訪ねたときは、建物を見つけられなかったが、今回は幼稚園が休みだったこともあって、ゆっくり周辺を歩くことができた。実は幼稚園を少し行ったところに正仙寺の本堂がある。


正仙寺


戊辰の役戦没者官修墳墓

 慶應四年(1868)四月二十二日の安塚の戦闘で戦死した四名の吹上藩士、寺村好太郎(十九歳)、原田留三郎(二十一歳)、熊倉元吉(二十四歳)、鈴木覚之丞(三十一歳)が正仙寺官修墳墓に葬られた。

(うずま公園)


幕末志士 西山謙之助の遺跡

 今回、西郷村の帰りに栃木に立ち寄ったのは、出流山事件の幹部に一人で、栃木宿で落命した西山謙之助の遺跡を訪ねることにあった。
 長谷川伸「相楽総三とその同志」(中公文庫)によれば、西山謙之助は美濃可児郡久々利村出身で事件の起きた慶應三年(1867)の時点で二十三歳という。若くして江戸に出た西山は、剣を斎藤弥九郎の道場で修行し、同時に平田銕胤の下で学んだという人物である。
 出流山満願寺に集合した幹部は、金策のために隊士から五名を選び、栃木宿に派遣した。時の栃木陣屋の奉行、善野司(勝右衛門)は、四年前の天狗党田中愿蔵による栃木宿焼討のときも当地で応対しており、そのときの経験から隣藩の吹上藩や近隣の村とも連携して満を持した対応を考えていた。善野は言を左右にして交渉を長引かせ、その間に着々と五名を討ち取る準備を進めていた。
 一方、いつまで待っても五名が戻ってこないことを心配した出流山の幹部は、応援を急派することになった。応援部隊八名の指揮者が西山謙之助である。
 いち早く増援部隊の接近を察知した善野奉行は、戦闘員に合戦準備をさせ、宿の入口に篝火をたかせ、木戸の門を閉めた。そこへ西山謙之助らが騎馬で到着した。先頭の西山は八方から狙撃を受け、「満身に血を浴び、髪振り乱し、力のあらん限り闘った(「相楽総三とその同志」(上)P.124)」が力尽き、最後は敵が群がり、馬から引きずり降ろして殺した。
 西山謙之助らの遺体は一つ穴に放り込まれた。現在、うずま公園の有料駐車場の中央に植え込みがあるが、そこに「西山謙之助の遺跡」と記された小さな石碑が建てられている。

(幸来橋)


幸来橋

 西山謙之助が斬殺された幸来橋である。川辺は風致地区として整備されており、遊覧船が発着している。


巴波川(うずまがわ)

(錦着山公園)
 栃木市の西郊に錦着山という標高八十メートルの小高い山がある。頂上からは栃木市街が一望できる。


護国神社


西山(謙之助)尚義碑

 「相楽総三とその同志」にも記載されているように、栃木市箱森の錦着山招魂社の西側に、西山(謙之助)尚義記念碑が現存しているのが嬉しい。

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益子

2012年04月03日 | 栃木県
(亀岡八幡宮)


亀岡八幡宮

 益子町の亀岡八幡宮の創建は、康平七年(1064)というから、千年以上の歴史を有する神社である。日本には長い歴史を持つ神社が、あちこちにさりげなく存在している。
 戊辰戦争の際、新政府軍はこの神社で戦勝祈願を行った。




 境内には、大小様々の石造りの亀がたくさん置かれている。

(鶏足寺)


鶏足寺


長棹速水之墓

 長棹速水は、黒羽藩士。斥候に出て官軍に捕えられ、蓼沼村で斬首された。

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那珂川

2012年04月03日 | 栃木県
(乾徳寺)


乾徳寺


北條重春(斧四郎)之墓

 馬頭の街並みから、さほど離れていないにも関わらず、乾徳寺の境内は深い森に覆われている。かつてこの裏手の山は、武茂城があって、宇都宮氏の有力な豪族であった武茂氏の本拠地であった。乾徳寺には武茂氏歴代の墓があるが、その直ぐ横に北條重春の墓がある。
 『下野の戊辰戦争(大嶽浩良著)』では、北條重参(しげみつ)と表記されているが、墓碑では「重春」と読める。北條重春は、水戸藩諸生党郷士であり、市川三左衛門のもとで北越、会津を転戦した。会津落城前に脱出し宇都宮に至ったが、敵兵に見つかり自刃した。当初、宇都宮の桂林寺に埋葬されたが、門弟たちにより明治十六年(1883)に乾徳寺に改葬された。

(大森元徳碑)


大森元茂碑

 小口村(現那珂川町馬頭)の大森家は、水戸藩の郷士であり、天狗党に属した。市川三佐衛門の率いる諸生党が、水戸帰還のために馬頭を通過した際、小勢のために敵せずその後を追って水戸に進んだ。十月に入って弘道館の戦いで天狗党は勝利を収めたが、大森元茂は戦没した。三十四歳。道路沿いに建てられた顕彰碑は、明治三十五年(1902)に建立されたものである。

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塩谷

2012年04月03日 | 栃木県
(斉藤家)


斉藤家四脚門

 慶應四年(1868)八月七日、鬼怒川東岸の舟生村(現塩谷町舟生)を旧幕軍が襲った。舟生には新政府軍が駐屯していたが、たびたび旧幕軍の襲撃を受けたため、西舟生と熊ノ木に陣所を設けていた。主力は宇都宮藩と壬生藩。戦闘は小一時間で終了し、この間に三集落三十三戸が略奪、放火された。


土塁

 舟生の戦いで西舟生村の名主斉藤平作方は、二度にわたって兵火にあい、母屋や蔵などを焼き払われた。四脚門は焼失を逃れた。門前には土塁も往時のまま残されている。

(西古屋霊園)


大島利平(右)
大島治郎左衛門

 慶應四年(1868)八月七日の舟生での戦闘で戦死した軍夫大島利平(五十三歳)と大島治郎左衛門(三十八歳)の墓である。二人は西古屋の出身で新政府軍に徴発されて道谷原地内に設けられた見張り小屋で見張りをしているところを旧幕軍の急襲を受けて戦死した。後年、二人の霊を弔うために明治政府が建てたものである。

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