(大室)
戊辰役戦死者墓
大室の戊辰役戦死者墓は、この地で戦死した会津藩士三名を慰霊するものである。被葬者は不明。平成十六年(2004)、地元の狐塚義久氏が建立したものである。
ちょうど県道279号線が二股に別れる交差点付近に狐塚氏墓所があるが、同じ山林の中の少し離れた場所にある。
(来迎寺)
来迎寺
森友の明静寺の墓地は本堂に向って左右に分かれているが、左手の比較的古い墓地内の齊藤家墓所内に齊藤嘉兵衛の墓石がある。また齊藤家の墓所には、平成十六年(2004)に末裔である齊藤岳彦氏が「森友村名主首を斬らる」と書いた小さな碑も置かれている。
洗譽水心悦雲善清信士(齊藤嘉兵衛の墓)
齊藤嘉兵衛(墓碑には齊藤嘉平とある)は、森友村の名主である。旧幕軍に兵糧を提供したとして、慶応四年(1868)七月二十六日、佐賀藩兵に斬首された。
(明静寺)
明静寺には阿久津安之助の墓がある。墓石の背面には「会津軍行村惣代死 安之助」とある。この墓は、もともと今市毘沙門山麓の雑木林内の瀬尾上ノ平一二五七番地墓地にあったが、平成三年七月、子孫の意思により明静寺墓地に改葬されたものである。
明静寺
忠運全恵清信士(阿久津安之助の墓)
今市で戦闘が繰り広げられていた頃、瀬尾村は東西両軍の中間地帯であった。そこに東軍(会津藩兵か)がきて「若者を従軍させよ。さもなくば村を焼く」と村役人を脅かした。村では一同相談の上、阿久津安之助ら三名を差し出し、焼き討ちを免れた。明治元年(1868)十月、安之助は会津まで従軍してそこで戦死。遺族は、同僚が持ち帰った遺品の頭髪や小刀を埋めて、墓を建てたと伝えられる。
(栗原)
弾痕のある墓石
栗原の弾痕のある墓石を訪ねたのは二回目である。前回は二年半前のことになるが、散々この付近を歩き回って行き着くことはできなかった。今回は、入口にこのような看板が建てられていて、お蔭で迷うことなく出会うことができた。
弾痕のある墓石
この辺りも戊辰戦争で激戦が交わされた場所である。旧幕軍は正兵(伝習隊)と奇兵(猟師鉄砲隊)が連携をとり、策略を用いて新政府軍(土佐藩兵)を攻めた。ことに山上から狙い撃ちしてくる猟師鉄砲隊には悩まされたという。
戊辰役戦死者墓
大室の戊辰役戦死者墓は、この地で戦死した会津藩士三名を慰霊するものである。被葬者は不明。平成十六年(2004)、地元の狐塚義久氏が建立したものである。
ちょうど県道279号線が二股に別れる交差点付近に狐塚氏墓所があるが、同じ山林の中の少し離れた場所にある。
(来迎寺)
来迎寺
森友の明静寺の墓地は本堂に向って左右に分かれているが、左手の比較的古い墓地内の齊藤家墓所内に齊藤嘉兵衛の墓石がある。また齊藤家の墓所には、平成十六年(2004)に末裔である齊藤岳彦氏が「森友村名主首を斬らる」と書いた小さな碑も置かれている。
洗譽水心悦雲善清信士(齊藤嘉兵衛の墓)
齊藤嘉兵衛(墓碑には齊藤嘉平とある)は、森友村の名主である。旧幕軍に兵糧を提供したとして、慶応四年(1868)七月二十六日、佐賀藩兵に斬首された。
(明静寺)
明静寺には阿久津安之助の墓がある。墓石の背面には「会津軍行村惣代死 安之助」とある。この墓は、もともと今市毘沙門山麓の雑木林内の瀬尾上ノ平一二五七番地墓地にあったが、平成三年七月、子孫の意思により明静寺墓地に改葬されたものである。
明静寺
忠運全恵清信士(阿久津安之助の墓)
今市で戦闘が繰り広げられていた頃、瀬尾村は東西両軍の中間地帯であった。そこに東軍(会津藩兵か)がきて「若者を従軍させよ。さもなくば村を焼く」と村役人を脅かした。村では一同相談の上、阿久津安之助ら三名を差し出し、焼き討ちを免れた。明治元年(1868)十月、安之助は会津まで従軍してそこで戦死。遺族は、同僚が持ち帰った遺品の頭髪や小刀を埋めて、墓を建てたと伝えられる。
(栗原)
弾痕のある墓石
栗原の弾痕のある墓石を訪ねたのは二回目である。前回は二年半前のことになるが、散々この付近を歩き回って行き着くことはできなかった。今回は、入口にこのような看板が建てられていて、お蔭で迷うことなく出会うことができた。
弾痕のある墓石
この辺りも戊辰戦争で激戦が交わされた場所である。旧幕軍は正兵(伝習隊)と奇兵(猟師鉄砲隊)が連携をとり、策略を用いて新政府軍(土佐藩兵)を攻めた。ことに山上から狙い撃ちしてくる猟師鉄砲隊には悩まされたという。
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