史跡訪問の日々

幕末維新に関わった有名無名の人生を追って、全国各地の史跡を訪ね歩いています。

函館 松川町

2013年10月13日 | 北海道
(中の橋)


中の橋

 箱館戦争終結間際の明治二年(1869)五月十四日、新政府軍特使の薩摩藩士田島敬蔵が弁天台場に至り、榎本武揚との面会を要求した。これを受けた新選組相馬主計と永井尚志など数名が五稜郭に赴き、田島の来意を榎本に伝えた。榎本は五稜郭を出て、中の橋上で田島と面談した。田島は懇ろに帰順を勧めたが、榎本は
これを拒絶して五稜郭に戻った。一方、この日、弁天台場の旧幕軍は降伏を決め、約二百四十人の将兵は実行寺に押し込められることになった。

(松川街道)


松川街道

 五稜郭から松川町に伸びる一直線の道は、松川弁之助が五稜郭を築造する際に、物資を運搬するために自費で完成させた道路で、松川街道とも呼ばれた。松川弁之助は、弁天台場の建造や願乗寺川(現在の高砂通り)の工事にも携わった。松川町の町名は松川弁之助に因んだものである。
 写真の黄色い消火栓は、火災が多かった函館独自のもので、市内至るところで見ることができる。


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函館 若松町

2013年10月13日 | 北海道
(土方歳三最期之地)


土方歳三最期之地

 新選組副長土方歳三の最期の地である。土方歳三フアンには聖地の一つ。常に香華が絶えない場所である。ただし、土方歳三が絶命した地については諸説あり、必ずしもこの場所が「定説」ではないそうであるが。
土方歳三が戦死したのは、明治二年(1868)五月十一日。一本木関門は、箱館市街地と五稜郭を隔てる関門の一つであった。箱館市街へ向かった土方歳三は、一本木関門を騎馬で通過した直後、腹部に二発の銃弾を受けて倒れたと言われる。


一本木関門

 土方歳三最後の地碑の背後には、一本木関門が再現されている。

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函館 住吉町

2013年10月13日 | 北海道
(立待岬)


立待岬

 十八世紀に幕府が箱館を直轄地とすると、警備のために立待岬にも台場を築いた。また、第二次世界大戦までは要塞地帯法により、市民の立ち入りが禁止されていた。現在は津軽海峡を望む景勝地となっている。


立待岬

(住吉墓地)
 立待岬に至る途中には、大きな墓地が広がっている。中には石川啄木の一族の墓がある。
 啄木と函館との関係は深い。実際に函館に住んでいたのは明治四十年(1907)の五か月程度の短いものであったが、啄木自身の「死ぬときは函館で」という言葉に従って、この地に墓標が建てられた。


啄木一族の墓


田本研蔵之墓

 住吉墓地を歩いていて、写真師田本研蔵(榎本武揚や土方歳三の肖像写真を撮影)、石工の備前喜三郎(五稜郭や弁天台場の石造りを担当)、代嶋剛平(箱館奉行所支配定役)などの墓に出会った。


備前喜三郎之墓


贈中教代嶋剛平墓
 探せばまだまだ幕末維新関係の人物の墓を見つけることができそうであったが、ここで体力、気力が尽きた。

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函館 谷地頭町

2013年10月13日 | 北海道
(碧血碑)


碧血碑

 碧血とは「義に殉じた武人の血は、三年経つと碧色になる」という中国の故事による。高さ約八メートルの堂々たる石碑で、七回忌に当たる明治八年(1875)五月、榎本武揚、大鳥圭介らによって建立された。祀られた戦死者は八百十五柱を数える。


柳川熊吉翁寿碑

 戦後、放置されていた旧幕軍兵士の遺体を侠客柳川熊吉と実行寺の十六世住職日隆が命がけで収容した。柳川熊吉は、子分など六百名を動員して遺体を運び、市内の実行寺、称名寺、浄玄寺(現・東本願寺船見支院)に葬った。
碧血碑の傍らには、柳川熊吉翁寿碑が建てられている。一説には、柳川鍋を商っていたことから、柳川姓を名乗ったともいわれる。



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函館 青柳町

2013年10月13日 | 北海道
(函館護国神社)


函館護国神社

 箱館戦争後、新政府は官軍戦没者の慰霊のために招魂場を造営した。本殿左手に官修墳墓がある。


招魂場

 招魂場の石碑の揮毫は、清水谷公考によるもの。


官修墳墓

 官修墳墓には、百六十五柱が眠る。


戊辰 薩藩戦死者墓

 四角錐型の墓碑は、薩摩藩が全国に建立した十カ所の合葬墓の一つ。今回の函館旅行で絶対外せないスポットの一つであった。ここを訪ねたことで、私は遂に全国十カ所に散在する戊辰薩藩戦死者の合葬墓を踏破することになったのである(あんまり誰も凄いといってくれないが…)。参考までに同型の合葬墓が建てられているのは以下の十か所である。
① 京都市 相国寺塔頭林光院墓地
② 東京都 永福・大圓寺
③ 栃木県 宇都宮市・報恩寺
④ 新潟県 上越市・金谷山
⑤ 新潟県 新潟市・新潟護国神社
⑥ 山形県 山形市・国分寺薬師堂
⑦ 福島県 白河市・鎮護山
⑧ 福島県 会津若松市・西軍墓地
⑨ 秋田県 秋田市・全良寺
⑩ 北海道 函館市・函館護国神社


斉藤順三郎の墓

 整然と並ぶ墓石の中に斉藤順三郎の墓がある。墓標の表面は摩耗して文字は読みとれない。斉藤順三郎は、八王子千人同心の出で、安政五~六年頃に志願して七飯村に入植したと伝えられる。ようやく軌道に乗った生活を、旧幕軍の箱館進駐によって破壊された。さらに箱館府に動員されて七飯村峠下における戦闘にも参加して怪我を負っている。旧幕軍に恨みを抱く斉藤は、身分を隠して旧幕軍に身を投じ、弁天台場に配属された。斉藤は、明治二年(1869)五月三日深夜、かねて買収していた鍛冶職人の鏑木連蔵に大砲の火門に釘打ちさせ、翌日の戦闘に仕えないように工作した。斉藤はその日のうちに台場を脱したが、連蔵は捕えられ討ち首となった。連蔵の口から斉藤の指示であったことが知れ、新選組が中心となって斉藤を探索した。
 斉藤順三郎が捕えられたのは、三日後の五月七日、場所は八ツ頭(現・谷地頭)であった。新選組は弁天台場の前に逆さに吊し上げ、顔に焼き金をあててから斬首した。遺骸は半日間、さらしものにされたという。

(函館公園)
函館公園は、明治十二年(1879)、イギリス領事ユースデンの提言を受け、地元の豪商渡辺熊四郎など、多くの市民から寄付を募って開園した施設である。園内には市立博物館のほか、動物園も併設されている。


市立函館博物館

 市立函館博物館では、ちょうど「新島襄と幕末の箱館」展を開催していたので、入館することにした。箱館戦争に関する常設展示もあり、見応えがあった。ただし(どうでも良いことながら)、長州藩出身の駒井政五郎を「薩摩藩」としていたのは明らかな誤り。


開陽丸模型


市立函館博物館の展示

 左手の初代箱館奉行の竹内保徳。中央は旧箱館奉行所、右手は弁天台場の写真である。


ハーバー遭難記念碑


箱館通寶銭座跡

 箱館が開港されると、商取引の急増とともに「銭」が不足した。そこで箱館奉行では安政三年(1865)、独自に銭を鋳造した。箱館通宝は、鉄銭で質が悪かったといわれる。


箱館通宝

 市立博物館に展示されている箱館通宝である。


開拓使函館仮博物場(旧函館博物館1号)


函館県博物場第二博物場(旧博物館2号)

 園内には、かつて博物館として使用されていた二つの建物が移設されている。「第1号」は開拓使時代の明治十二年(1879)に開場したもの、左手の「第2号」は明治十七年(1884)、函館県が開館したもので、いずれも明治期の洋風建築である。



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函館 宝来町

2013年10月13日 | 北海道
(高田屋嘉兵衛像)
 護国神社坂に立つ高田屋嘉兵衛像は、嘉兵衛の功績を称えるとともに、函館開港百年を記念して昭和三十三年(1958)に建てられたものである。


高田屋嘉兵衛像

 この像は、文化十年(1813)、ロシア軍艦ディアナ号が、捕らわれていたゴローニン船長を引き取るために箱館に入港したのに立ち会った嘉兵衛の姿を描いたものである。右手に持つのは松前奉行からの諭書、左手には鑑内で正装に着替えるために脱いだ衣服を持つ。

(高田屋屋敷跡)


高田屋嘉兵衛屋敷跡

 高田屋嘉兵衛は、江戸後期の商人。今日の函館の発展の基礎を築くとともに、日露外交にその手腕を発揮した。明和六年(1769)に淡路の津名郡都志本村に生まれた。船乗りとして兵庫に渡り、十六歳のとき独立して辰悦丸を建造した。兵庫で酒、塩、木綿などを仕入れ、酒田でそれを売り捌き、復路は酒田の米、函館で魚、昆布などを仕入れて、利益を上げた。寛政十一年(1799)、択捉―国後間の航路開拓に成功し、その功績により幕府から蝦夷地定雇船頭、蝦夷地産物売捌方に任命された。文化九年(1812)八月、ゴローニン事件に巻き込まれ、ディアナ号でカムチャッカに連行されたが、冷静にその解決に尽力し、日露友好にも貢献した。文政元年(1818)には幕府に御用御免を願い出て、弟金兵衛に家督を譲り、郷里の淡路に帰った。文政十年(1827)、郷里で五十九歳の生涯を閉じた。死後、ロシアとの密貿易の疑いをかけられ、高田屋は厳しい取り調べを受けた。疑いは晴れたが、金兵衛は淡路に謹慎させられ、持ち船は没収。家屋や倉庫も親類預けとなり、高田屋は没落することになった。


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函館 函館山

2013年10月13日 | 北海道
(函館山)

今回の函館滞在中、朝・昼・晩の三回、函館山に登った。いつから山登りがそんなに好きになったのかと呆れられそうだが、山登りが苦手なことは何も変わっていない。いずれも自動車やロープウェイで登ったので、登山とは言い難いが。
この時期、函館山へは自動車での乗り入れは規制されている。夜景を見に行くのであれば、夜十時過ぎでなければ入山できない。登山口は護国神社の横であるが、そこに午後十時に行ったのでは、何時に山頂に行きつけるか覚束ない。私と息子は、規制が解除される三十分前に登山口で待機した。午後十時になると、それまで登山口で進入を規制していた係の人が、「これから我々が先導しますから」と宣言し、我々はそのあとをついてひたすら山頂を目指して走るだけである。まるでカーレースのようであった。私は途中で道を間違えてしまったが、何とか駐車スペースを確保できた。山頂駐車場にとめられる台数は限られており、少し時間を間違うと長蛇の列に並ぶことになる。我々が半時間ほど夜景を楽しんで下山するとき、登り方面の道は中腹まで車列が続いていた。この分では、最後尾の方が山頂に行き着くのは明け方になるのではないか。


函館山の夜景
 函館は連日猛暑が続いていたが、夜の函館山山頂は寒さを感じるほど冷たい風が吹いていた。函館山の夜景を撮影するために、わざわざ三脚を担いできた。ところが、函館山山頂には灯りがなく、手さぐりで三脚のセットをしなくてはならない。結果的には思うように撮影できなかった。
函館の夜景は、文句なしに素晴らしい。多少、行列に並んでも一見しておく価値はあるだろう。函館の夜景は世界三大夜景の一つと称されている(ほかの二つは香港とナポリ)。つまり日本一の夜景ということになるが、個人的には(自分が学生時代を過ごした)神戸の夜景に勝るものは無いと思っている。


昼間、改めて函館山山頂を訪れたのは、山頂に点在する史跡を回るためである。


ブラキストンの碑

 ブラキストンはイギリス人。文久三年(1863)に事業を起こすために箱館に来て、商売の傍ら、動物の研究や気象観測などを行った。明治十二年(1879)には、それまで収集した鳥類の標本を開拓使博物場に寄贈した。現在もこの標本は、北海道大学植物園博物館に保存されている。明治十六年(1883)、本州と北海道に動物の分布状況が著しく異なることを発表し注目された。今も津軽海峡は「ブラキストン・ライン」と呼ばれている。ブラキストンは、元砲兵大尉だったいい、箱館戦争のときも行き交う砲弾に怖がる様子もなく、悠然と食事をしていたという。


御殿山第二砲台跡

 函館山に登ったら、是非砲台跡まで足を伸ばして欲しい。明治時代に築かれた砲台の跡が鮮明に残っているのである。

 明治政府は、来るべきロシアとの戦争を想定し、津軽海峡の防衛強化を目的に、明治三十一年(1898)から約四年の歳月を費やして、函館山の要塞化を進めた。函館山には大小四か所の砲台が建設され、昭和二十一年(1946)に要塞地帯法が開放されるのまでの約五十年間にわたり、一般市民の立ち入りが禁止された。結果的に函館山独自の自然、生物が残されることになった。御殿山のほかにも薬師山砲台、千畳敷砲台などが保存されていて、見学も可能なようであるが、そこでまで歩く体力と時間が残っていなかった。興味がある方は、観光案内所で「函館要塞跡散策マップ」という超マニアックなパンフレットを入手して欲しい。


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函館 豊川町

2013年10月05日 | 北海道
(北海道写真発祥の地碑)


北海道写真発祥の地碑

 電動自転車にまたがり、最初に訪れた史跡がこの場所である。ロシア領事から写真術を学んだ木津幸吉が、この地で開業したことを記念したものである。幕末に開港された函館には写真に関わる史跡が多いのも特徴である。

(異国橋)


異国橋

 市電十字街駅近くの交番の前辺りが異国橋跡である。かつて栄国橋と呼ばれていたが、いつしか異国橋と変わっていった。現在、橋らしきものは存在していない。
 土方歳三最後の地には諸説(①異国橋付近説、②鶴岡説=現市役所付近、③一本木関門説)があるが、その中の一つである。ただし、異国橋は一本木関門から結構離れており、ちょっと無理があるように思われる。

(武蔵野楼跡)
 武蔵野楼があったと思われる辺りには、現在はガソリンスタンドがあり、特に史跡を示すものは何もない。
 武蔵野楼は、新選組隊士や旧幕軍幹部がよく宴を張ったという場所である。


武蔵野楼跡


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函館 末広町 Ⅱ

2013年10月05日 | 北海道
(旧NHK放送局)


南部藩陣屋跡

 南部藩が幕命を受けて箱館に陣屋を構えたのは寛政十二年(1800)であった。傾斜地を利用した三段の土地で、最盛期には三百五十人ほどが勤務していたという。箱館戦争時に自ら陣屋に火を放ち南部に引き揚げてしまったため、建物の類は一切残っていないが、石塁だけが往事のままである。


南部藩陣屋跡石塁

(北海道坂本龍馬記念館)
少なくとも坂本龍馬は一度も北海道に渡っていないが、にも拘わらず、記念館がここにあるという事実にまず驚き入る。坂本龍馬は、幕府倒壊後、職を失った武士たちのエネルギーを蝦夷地の開拓と防衛に向かわせようという遠大な計画を立てていた。龍馬の死後、坂本家を継いだ甥の坂本直(高松太郎)は箱館に渡り、さらに本家五代目の坂本直寛が浦臼に入植したのは、龍馬の遺志を継いだということなのかもしれない。当館では北海道に渡った坂本一族の足跡も紹介している。因みに当館顧問は、坂本家九代目の坂本登氏である。


北海道坂本龍馬記念館


長崎の龍馬像原型

記念館の向かいにも坂本龍馬像があった。全国の史跡を訪問した私の知見では、幕末から明治期に活躍した人物像の数でいえば、坂本龍馬が二位であろう。では、一位は誰でしょう?


蝦夷地の坂本龍馬像

(答) 数えたわけではありませんが、像の数では二宮金次郎(尊徳)が、圧倒的に一番と思われます。


弥生小学校 二宮尊徳像

(日本最古のコンクリート電柱)


日本最古のコンクリート電柱

 函館では火災が頻繁に発生したため、耐火建築が発展したが、コンクリート製の電柱もその一つである。19.5センチ四方の角錐型という珍しいものである。大正十二年(1923)に建てられたものであるが、今なお現役というのがスゴイ。

 私はこれまでいかなる観光地に行っても、基本的には並んでまで食事をしないという主義(単に気が短いだけ?)を貫いてきた。しかし、今回は時間的に余裕ができたことに加え、あまりの暑さに動きまわる気力が失せたこともあって、ガイドブックに載っているラーメン屋に並ぶことにした。函館といえば、塩ラーメンが定番である。やはり行列ができるラーメン屋というのはさすがに相応の値打ちがあった。ついでにいうと、ラーメンというのは客の回転が速いので、長蛇の列であっても案外早く店内に案内してもらえることが判明した。

(和洋折衷の建物)
 函館市内を散策していると、特に西部地区の至るところに和洋折衷住宅を発見することができる。函館の和洋折衷住宅の特徴は、一階部分が格子窓を備えた和風建築で、二階には縦長の洋風の硝子窓となっているところである。


和洋折衷の建物


和洋折衷の建物




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函館 末広町 Ⅰ

2013年10月05日 | 北海道
(明治天皇御上陸記念碑)


明治天皇御上陸記念碑

 明治九年(1876)と明治十五年(1882)の明治天皇行幸を記念して、昭和十年(1935)に建てられたものである。

(北海道第一歩の地碑)


北海道第一歩の地碑

 維新後、函館は北海道の玄関口となった。青函航路で北海道に向かう者が、その第一歩を踏むのが函館の東桟橋であった。明治初年の青函航路は開拓使によって運行されたが、明治十二年(1879)に三菱が引き継ぎ、明治四十一年(1908)には国有の航路が就航した。
 北海道第一歩の地碑は、一見しても分からないが、白クマをデザインしたものらしく、言われてみればそれらしく見えてくる。

(函館市道路元標)
 東浜桟橋の近くに函館市道路元標の小さな碑がある。


函館市道路元標

(新島襄の像)
 新島襄は、新しい知識の必要性を痛感し、海外密航を企てるが、吉田松陰の失敗を考慮し、渡航地として箱館を選択した。元治元年(1864)、江戸から箱館にやってきて、しばらくニコライ主教に日本語を教えたりして過ごしていたが、同年六月十四日深夜、福士卯之吉(のちの成豊)の助力を得て、この地から海外渡航に成功した。上海経由で渡米した新島襄は、十年の修学の後、明治七年(1874)に帰国した。翌年には京都において同志社大学の前身である同志社英学校を設立した。


新島襄の像

 東桟橋のそばには、小舟で密航する新島襄の姿を描いた銅像が置かれている。思わず、こんな小さな舟でどこまで行く気だと突っ込みたくなる。背後は緑島。島に渡る橋は、新島橋と命名されている。

(赤レンガ倉庫群)


赤レンガ倉庫群と函館山

 箱館は横浜、長崎とともに安政六年(1859)に開港され、国際貿易港として発展した、金森倉庫は明治四十年(1907)頃の建築で、湊町函館のシンボル的存在となっている。現在は土産物屋などが入る観光スポットとして賑わっている。
 明治五年(1872)、イギリス領事のブラキストンから機械を譲り受けた福士成豊(續豊治の次男)はこの地に我が国初の気候測量所を開設した。

(明治館)


明治館

 「明治館」と称されているが、この建物が完成したのは明治も末の明治四十四年(1911)のことで、その後約五十年にわたって郵便業務がこの場所で行われた。現在、内部は土産物店となっている。

(箱館高田屋嘉兵衛資料館)
 かつて高田屋嘉兵衛の造船所のあった場所に、高田屋嘉兵衛資料館が開設されている。日本最古のストーブ(武田斐三郎が考案したものか)などが展示されているというので、是非見ていきたかったが、何と毎週木曜日は定休だそうで、残念ながら中を見ることができなかった。


箱館高田屋嘉兵衛資料館


高田屋嘉兵衛 造船所跡地

(五島軒)
 フランス料理店五島軒の初代料理長五島栄吉は、長崎の五島列島の出身で、長崎奉行所の通辞をしていた。函館戦争では旧幕軍に加わっていたが、五稜郭落城の間際に逃亡し、ハリストス協会に匿われた。ここでロシア料理やパンの焼き方を学んだ。東京で米相場に失敗し、函館に渡った若山惣太郎という人物が五島英吉と出会い、明治十二年(1879)に五島軒を開店した。当初はロシア料理店であったが、栄吉が横浜に去った後、若山がフランス料理人を連れてきて再建した。


五島軒

 現在、市内の至るところで「五島軒のレトルトカレー」を入手することができる。函館を代表する土産物の一つとなっている。


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