(中の橋)
中の橋
箱館戦争終結間際の明治二年(1869)五月十四日、新政府軍特使の薩摩藩士田島敬蔵が弁天台場に至り、榎本武揚との面会を要求した。これを受けた新選組相馬主計と永井尚志など数名が五稜郭に赴き、田島の来意を榎本に伝えた。榎本は五稜郭を出て、中の橋上で田島と面談した。田島は懇ろに帰順を勧めたが、榎本は
これを拒絶して五稜郭に戻った。一方、この日、弁天台場の旧幕軍は降伏を決め、約二百四十人の将兵は実行寺に押し込められることになった。
(松川街道)
松川街道
五稜郭から松川町に伸びる一直線の道は、松川弁之助が五稜郭を築造する際に、物資を運搬するために自費で完成させた道路で、松川街道とも呼ばれた。松川弁之助は、弁天台場の建造や願乗寺川(現在の高砂通り)の工事にも携わった。松川町の町名は松川弁之助に因んだものである。
写真の黄色い消火栓は、火災が多かった函館独自のもので、市内至るところで見ることができる。
中の橋
箱館戦争終結間際の明治二年(1869)五月十四日、新政府軍特使の薩摩藩士田島敬蔵が弁天台場に至り、榎本武揚との面会を要求した。これを受けた新選組相馬主計と永井尚志など数名が五稜郭に赴き、田島の来意を榎本に伝えた。榎本は五稜郭を出て、中の橋上で田島と面談した。田島は懇ろに帰順を勧めたが、榎本は
これを拒絶して五稜郭に戻った。一方、この日、弁天台場の旧幕軍は降伏を決め、約二百四十人の将兵は実行寺に押し込められることになった。
(松川街道)
松川街道
五稜郭から松川町に伸びる一直線の道は、松川弁之助が五稜郭を築造する際に、物資を運搬するために自費で完成させた道路で、松川街道とも呼ばれた。松川弁之助は、弁天台場の建造や願乗寺川(現在の高砂通り)の工事にも携わった。松川町の町名は松川弁之助に因んだものである。
写真の黄色い消火栓は、火災が多かった函館独自のもので、市内至るところで見ることができる。